不安を打ち消す決意
長い冬が終わり、寒さの余韻も和らいだ春先。
暖かさを感じる喜び。
平穏な日常を生きる幸せを噛みしめるハンナが、この店で暮らし始めて二月が過ぎようとしいた。
「やあ、ハンナおはよう。今朝も早いな。」
パン屋の店の掃除、皆の朝食作りと朝からテキパキ仕事をこなす。
その頑張りようにはゲンマも感心しっぱなしだった。
「ネイロさんは、昨日も遅くまで勉強だったのかしら」
「ああ、坊っちゃんは試験が迫っているからね。きっと遅くまでやっていただろう。」
「それじゃあ起こさないでおきますね……あのゲンマさん。試験って――」
「おはよう。ふぁー。」
階段を降りてくるネイロの姿に気づき、ハンナは聞いてみたかった事を途中で止めて口を閉ざした。
「おはよう。坊っちゃん。」
「おはよう、ゲンマ。おはよう、ハンナ。」
「ネイロさん、おはようございます。すぐに朝食の準備をしますね。」
「俺のは、いい。少し気分転換に散歩してくるから。」
ネイロは赤い目を擦りながら出かけて行った。
この頃のハンナの生活パターンは、朝から夕方までにパン屋の仕事を済ませる。
週に一、二度夜の早い時間に駅前で歌を披露するというものだった。
他の空いた時間には、これまでの人生で初となる詩を書くことに挑戦していた。
きっかけは、駅長のロイの提案であった。
駅前で歌を歌いに行く日は、最初にゲンマから預かったパンを駅長に届けに行く、という習慣ができた。
これは、ハンナがパン屋で暮らすようになって始まったことである。
初めてパン屋を訪ねた、あの日。
ハンナは、すっかり駅長の事を話すのを忘れてしまっていた。
後日、ゲンマにそのことを話すと、
「ロイか。そうかロイに世話になったのか。」
「はい。私、駅長さんに恩返しがしたいけど……」
すると、ゲンマは何かを思いついた様にして、店から袋に詰めたパンを持ってきた。
「これを、ロイに渡してきなさい。」
「あの、でも……助けてもらったのは私だし……」
「うちの子が世話になったんだ。当然じゃろ。」と、言ってゲンマは笑った。
それが、いつの間にか週に一度の恒例行事になったのはロイがハンナに会いたかったからに他ならない。
ロイは毎週ハンナに、お金を渡して翌週のパンの出前を注文するようになったのだ。
それはハンナにとっても楽しいひとときであった。
「やあハンナ。待っていたよ。入りなさい、お茶でも淹れよう。」
「駅長さん、これ今週のパンです。」
「ありがとう。今日はこれからかい?」
「はい。今日は少し寒いけど、みんな聴いてくれるかな。」
少し不安気なハンナにロイは笑顔で、
「大丈夫。ハンナの歌は世界一だ、心配する必要ないよ……だけど」
ロイは顎に手をやり、考える仕草でをした。
「あの……駅長さん?」
「ああ、すまんすまん。なんというかハンナは、他に歌えるものは無いのかい?」
驚いた表情のハンナにロイは続けた。
「ほら、ハンナは、いつも同じ歌を歌っているだろ。」
「は、はい。」
「やはり街の連中は君の、他の歌も聴きたいって思っているんじゃないかな……私は好きだよ、あの歌。」
「でも他に知らなくて。」
「そうか……なら自分で作ってみてはどうだ?」
ハンナは不思議そうな表情で、
「私がですか?」
「そうだよ。」
ハンナは首を、ぶんぶんと横に振った。
「そんなの出来ないですよ。私なんかに」
「私は、ハンナだから言っているんだよ。君には才能があるはずだ。それとも私には人を見る目がないとでも言うのかな。」
そう言って、ロイは意地悪そうに笑った。
「そう言って頂けるのは、嬉しいけど……どうやったら作れるのか分からないわ。」
駅長ロイは、鼻の下の髭を触りながら、少し考えた。
「うーん、こういうのは、どうだろう。ハンナの気持ちを素直に詩にしたらどうかな?」
「気持ち……」
ハンナの困惑した顔を眺めながら、ロイは続けた。
「そう気持ちだ。幸せな時には幸せな詩が、不幸な時には不幸な詩が浮かぶだろう。それでいいじゃないか、自由にやってみなさい。」
「――私やってみたい。」
それからのハンナはパン屋の仕事が終わると家事の合間を見つけては、詩を作る時間に割いた。
そして十日が経過した。
「一応できたけど……どうなんだろ?」
最初にしては、良くできたと自分自身、満足感はある。
だが、これを人に聴かせるには、自信がなかった。
それにメロディーができていない。
ある日の夕方、ハンナは雑務を素早く済ませ、駅へと走った。
どこかの家から夕飯の、いい臭いが気持ちの良い風に乗り、漂ってくる。
そんな家庭の臭いのする空気の中、ハンナは走った。
駅につくと、ちょうどロイが外のベンチに座っていた。
ハンナはロイの元へ駆け寄ると、息を切らしながら、
「駅長さん。ちょっと相談したいことが――」
ロイは空を見上げて、ハンナに言った。
「やあハンナ。この茜色の空を見ていると不思議な気持ちになる。」
「私……なんとなく分かります、その気持ち。」
「ほう。どんな気持ちだい?」
「なんていうか、一日の終わりが近づき、明日も頑張ろうという前向きな気持ちと、今日が終わってしまうという寂しい気持ちが混ざっている感じ、かな」
「なるほど。まさに私もそんな気分だったよ、ハンナ。」
それが本当だったのかはハンナには分からないことだった。
「それで、なんの相談かな?」
「実は、詩ができたのですが、曲をどうしようかと思って。」
「そんなもの鼻唄で作ればいいじゃないか。」
「鼻唄……ですか?」
「そう。それが一番手っ取り早いだろ。」
「確かに。」
「自由に自分の好きなように作ればいいんだよ。それが音楽だ。」
「なるほど――ありがとうロイさん。」と、お礼を言ってハンナは走りだした。
ロイは、ハンナが初めて名前で呼んでくれたことが素直に嬉しかった。
そして空を見上げ、
「明日も頑張ろう」と、呟いた。
それから六日後、ハンナが必死に作りあげた歌が完成した。
その喜びは、かつて味わったことの、ないものだった。
嬉しさで胸は高鳴り、今にも踊りだしそうだった。
……だが、そんなハンナに忌まわしい記憶が、なぜかこのタイミングで鮮明に甦る。
「どうして、こんな時に……」
それは、ハンナ自身が一番分からなかった。
安心と不安。
違う言葉で意味も違うのに、それは二つで一つのようだ。
前を向いて歩こうとするハンナを後方で誰かが呼び止める。
振り向いては、いけない。
そう、分かっている筈なのに……
不安が、それを邪魔してしまう。
つい、ちょっとだけ振り向いてしまうと、いつの間にか逆方向へ歩いている。
そして、それに自分自身が気づいていなかったら、と考えると恐ろしくてたまらなかった。
その原因にハンナは一つ心当たりが、あった。
それは、この家のゲンマとネイロに本当の事を話していないという、後ろめたさである。
その夜、ハンナは部屋を出て階段を、ゆっくり降りた。
食卓には既にネイロとゲンマが待っていた。
「遅かったね。ハンナ。」
「さあ飯にしようぜハンナ」
笑顔で待ってくれている二人に、これ以上待たせる訳にはいかない。
これまで深く身の上話しを求めてこなかった二人は、
「きっと私から話すのを待っているのだ」
二人の前に立ったハンナは、涙を流しながら、
「お話しがあります」と、言った。
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