坊っちゃんと私
ゲンマの店に着いたのは、ちょうど山の陰から太陽が昇りきった時だった。
朝日をたっぷり浴び輝く町並みは、とても美しかった。
パン屋の店の前には一人の男性が立っている。
ハンナは、それがゲンマだと、すぐに分かった。
「おはようございます。ゲンマさん。」
「お嬢さん、よく来たね。」
ゲンマの顔を明るい場所で初めて見たハンナは、夕べ見たゲンマより今、見ているゲンマの顔のほうが、とても優しそうに感じた。
「ところでお嬢さん。昨日は名前を聞きそびれてしまって……」
ハンナは慌てて、
「ご、ごめんなさい。私ハンナといいます。」
「ハンナか。君にぴったりの名だね。」
微笑むゲンマの目尻には、とても深い皺が浮き出ている。
「さあ、中へお入りハンナ。」
ハンナは、香ばしい香りのする店内へ、餌に寄る魚のように吸い寄せられた。
「焼きたてのパンだ。」
そう言ってゲンマは、得意気にパンを差し出した。
手渡されたパンは、まだ温かかった。
「さあ、早く食べてごらん。」
こくりと頷き、ハンナはパンを一口食べた。
焼きたてのパンなど食べた事のなかったハンナには衝撃的だった。
これが本当のパンなんだ、と。
自分がこれまで口にしてきたパンとは別次元であった。
ジェラルド家で与えら続けてきたパンなんかは、それで釘を打てるくらい固くてパサパサの酷いもの。
「……どうだい?美味いかい?」
不安そうに尋ねるゲンマにハンナは、明るく元気に答えた。
「ゲンマさん。すごく美味しい。」
その返事を聞いたゲンマは満足そうに、
「そうかいそうかい。よかった、さあどんどん食べなさい。」
ハンナは、その言葉通り勢いよく食べた。
そのせいで喉に詰まってしまうほどに。
「ほら、これを。」
すかさずゲンマはミルクの入った木製のコップを渡した。
そのミルクを飲み落ち着きを取り戻したハンナは、今度は自然に涙が流れ落ちている事に気付き動揺した。
「ごめんなさい。ゲンマさん。」
「なぜ謝るんだい。気にしなくていい。ゆっくりお食べ、儂は一仕事してくるから。」
無理もなかった。
昨日から何も口にせず、極度の緊張感のなか、あまりに色々な経験をしたハンナには心から一息つけた、この瞬間に緊張の糸がぷつり、と切れてしまったのだから。
それからしばらく、ハンナは店の奥にあるテーブルと椅子のある部屋でパンを食べながら過ごした。
そこからは店内の様子が伺える。
朝から、ひっきりなしにお客が入れ替わり立ち替わり入りゲンマは、その対応に追われていた。
それを見ていたハンナの元に一人の少年が現れた。
年はハンナより幾つか上、十六か一七くらいだろうか。
少年は華奢で背が高く、色白でどこか品性のある綺麗な顔立ちをしている。
「ん?誰だお前。」
「わ、私ハンナといいます。」
「そこで何してるんだ?」
ハンナが返事に困っていると、ようやく店のほうが一段落ついたゲンマが戻ってきた。
「ああ坊っちゃん。おはようございます。」
「ゲンマこの子は?」
「ほら、昨日話した歌の子ですよ。」
ゲンマと坊っちゃんと呼ばれる少年は祖父と孫くらいの年齢差があるだろう。
ハンナには二人の関係性が、いまいち分からずに困惑した。
「お前名前は?」
「は、ハンナです」
「親は?」
息つく暇もなく浴びせられる質問にハンナは、どう答えていいか分からずに思わず、
「……居ません」と、答えた。
「孤児か。」
「やっぱりそうだったか。坊っちゃん、この子をここに置いてもよろしいかな?」
坊っちゃんと呼ばれる少年は少し考えて、
「――それは構わないが、ちゃんと店の仕事をさせるんだぞ。」
「はい。それでいいかな、ハンナ?」
ハンナに断る理由などあろうはずがない。
「あの、本当にいいのですか?」
「勿論だ。ちょうど人手が欲しいと思っていたんだ。もしハンナが手伝ってくれるなら私は、どんなに助かるか。」
「はい。よろしくお願いします。」
これほど、ありがたい申し出はなかった。
「よし分かった。だが一つだけ、まずその格好をどうにかしろ。うちはパン屋だ。衛生面にはしっかりしないとな。何か適当な店でそいつに服でも買ってやれ、ゲンマ。」
「はい、坊っちゃん。」
「あと、坊っちゃんは、いい加減やめろ。それじゃあ俺は少し寝るから。」
それだけ言い残し少年は二階へ上がっていった。
ハンナは、その坊っちゃんと呼ばれる少年に少し腹がたった。
それは自分への言葉ではなく、ゲンマに対する口のききかたにだ。
二人が、どんな関係なのかは不明だが、それでも年の離れた老人に対する態度にハンナは不満に感じた。
「彼はね、この店の主人のネイロだ。ちょっと口は悪いが心の優しい子なんだよ。きっと昨日も寝ずに勉強していたんだろう。ちょっと機嫌が悪かっただけだから気にすることは、ないよハンナ。」
ハンナは、誰かに腹を立てたりする感情が、これまで欠落していた自分に気付き、どうしていいか分からず、普段だったら絶対にしないような質問をした。
「あの、ネイロさんの、ご両親は?」
「ここにはいない。この家で暮らすのは、儂と坊っちゃんの二人――そして今日からハンナを含む三人だ。」
その後、店を一度閉め、ゲンマとハンナは街へ出た。
目的の店へ着くと、ゲンマは店の入り口から声をかけた。
「こんにちは。マリアンいるかい。」
「いらっしゃい。」
店の奥から四十代くらいの赤毛の綺麗な女の人が出てきた。
「ゲンマさんか……その子は?」
「この子は儂の孫だ、ハハハ」
嬉しそうに笑うゲンマにハンナも悪い気がしなかった。
「そうかい。可愛い子だね。ゲンマさんには似てないけどね。」
「そうなんだ。儂に似なくて良かったよ。」
「ということは、この子の服をお求めってことでいいかしら?」
ゲンマは笑顔のまま大きく頷いた。
そしてマリアンは、ハンナにぴったりの淡いピンクのワンピースをチョイスした。
「まあ!お人形さんみたいね。すごく似合っているわ。」
ハンナは恥ずかしそうにゲンマを見た。
「うん!すごく素敵だぞ。これにしよう。」
ゲンマも文句なしのようである。
そんなゲンマに近寄りハンナは、こっそりポケットから昨日稼いだ銅貨を取りだしゲンマに渡した。
「いいんだよ。これは、お前が持ってなさい。」
「……でも。」
「今日は、ハンナが家族の一員になった記念日だ。これは儂からのプレゼントなんだ。だから貰っておくれ。」
これまで、そんな事をしてもらったことのないハンナにとって心の底から嬉しいサプライズであった。
新しい服に包まれたハンナは、なんだか自分が生まれ変わった新しい自分のような気がした。
二人が店に戻ると、ちょうどネイロが欠伸をしながら階段を降りてきた。
そして、ハンナを見たネイロは驚きを隠せなかった。
「あの……どちら様?」
「ハハハ、坊っちゃん寝ぼけてるんですか。ハンナですよ。」
ハンナは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「あ、あの坊っちゃん。私ハンナです。今日からお世話になります。」
「ち、ちょっと待ってくれ。世話になるのは構わないけど、『坊っちゃん』っていうのだけは勘弁してくれ。ゲンマだけで充分だ。」
「それでは、なんとお呼びすれば?」
「ネイロでいいよ。」
「分かりました、ネイロさん。」
そう呼ばれ、ネイロは顔が、ほんのり赤くなった。
「おや?坊っちゃん。顔が赤いですぞ。」
「そ、そんなことはない。」
「さてはハンナが、あまりに美しいので照れておいででは?ハハハ」
「な、な、なに言ってんだゲンマ。俺はちょっと勉強してくるから、飯の支度ができたら呼びにきてくれ。」
慌てるネイロは階段で二度ほど躓きながら部屋へと戻った。
「なっ。言ったとおり悪い人ではないだろ、坊っちゃんは。」
「本当、フフフ。」
ハンナにとって夢のような一日で、あった。
あの悪夢のような家を飛び出して、たった二日ほどで人生が、こんなにも変わるのか、と思うほどの変化に、ハンナ自身の心がまだ追い付いていないのも事実である。
だが今は、ただこの時間を大切にしたい、と思うハンナであった。
季節は、冬から春へと移り変わろうとしていた。
ありがとうございました♪
また次回作も宜しくお願いします。