歌と報酬
ハンナの美しく透き通るような、それでいて甘く切ない歌声は乾いた空気に綺麗に伝わり広がっていく。
ハンナは緊張しないよう目をつむったまま歌い上げた。
そして歌い終わると、ゆっくり目を開いた。
すると広場を行き交う人々は足を止めハンナへ視線を向けていた。
ハンナは驚いた。そして慌てて、
「あ、ありがとうございました」と、言った。
すると誰かが地面に置いたベレー帽に銅貨を入れた。
それをきっかけに降り始めた雨が徐々に強まるようにして、次々と硬貨が帽子の中へ吸い込まれていく。
「お嬢さん。良かったよ。」
「私、感動しちゃった。」
「また聴かせてくれよ。」
人々は口々にハンナを讃えるようにな言葉をおくった。
ハンナは、ただただ「ありがとうございました」と、礼を述べるだけだった。
やがて夜も深まり、駅前の広場からも人影がポツポツと減り始めると、ハンナはようやく地面に置いていた帽子を拾い上げた。
ずしりと重みのある帽子の中には、これまでハンナが見たこともない程の、たくさんの硬貨が入っていた。
ハンナには、この出来事が夢ではないかと思えるほど不思議な体験であった。
気分は高揚しっぱなしのハンナだったが、やはり疲れはこんな時にでも襲いかかってくる。
帽子を大事に抱え、辺りを見回した。
そして駅の方へガクガクとした膝で歩きだした。
駅には、最終の汽車が発車してから少々時間が経っていたらしく、広い待合室からは灯りが無くなり薄暗くなっていた。
そんな中、地べたには数名、横になっている者もいる。
この中は風が入らないので外で寝るよりましなのであろう。
ハンナは、暗がりから送られる視線に恐怖しながら仕方なく、ここで夜を明かす選択をした。
すると、その直後背後から肩をポンポンと叩かれハンナは心臓が止まりそうになった。
恐る恐る振り返るハンナ。
そこには、駅員の制服に身を包んだ初老の男性の姿があった。
「やあ。おまえさんは、さっき広場で歌っていた子だろ?」
「は、はい。」
「やっぱりそうか。いや、あんたの歌声はよく通るね。まあまあ離れた、この駅舎まで綺麗に聞こえたよ。素晴らしかった。」
「本当ですか?こんな所まで……」
そう考えると、一体どのくらいの人が自分の歌を聴いたのだろう、と思い恥ずかしくなった。
「よく聞こえたよ。ところで、汽車はもうないぞ。まさか、こんな所で一夜明かすつもりでは、ないだろうね?」
ハンナは図星をつかれ、
「は、はい。やっぱり、ご迷惑でしょうか?」
「やっぱりそうか。駄目だ!お嬢さんを、あんなやつらの側で眠らせる訳には、いかん。駅長として治安を守らんとな。」
正直、ハンナにはよく分からなかったが、ここで夜を明かすことは、できないということだけは理解できた。
「こっちへ来なさい。」
すると駅長は、ハンナの手を引き歩きだした。
そして、ある部屋へ入った。
「あ、あのここは?」
「この部屋は、駅員の休憩に使う部屋だ。狭いし汚いが、あそこよりマシだろ。今日は、ここを使いなさい。」
「でも……」
ハンナにはありがたい申し出では、あった。
でも素直に受け入れられない複雑な感情があるのも、また事実である。
「歌のお礼だよ。」
「えっ?」
突然の駅長の言葉にハンナは動揺した。
「あんたの美しい歌を聴いておきながら私は、金を払っていない。だから気兼ねなく使いなさい。」
「本当にいいのですか?」
「ああ勿論。私は近くに住んでいるから、帰るよ。明日の朝、出勤してくるから、それまでゆっくり眠りなさい。あと内側から鍵を掛けるのは忘れないようにな。」
にこりと微笑み、駅長は言った。
「ありがとうございます。本当に助かります。」
ハンナは人の親切が心に染み渡るのを実感した。
「あっ!あの駅長さん。明日の朝はいつ頃来られますか?」
「そうだな、日が昇る少し前かな。どうして?」
ハンナは約束したパン屋の話しをした。
「なるほど。ゲンマのとこだな。」
「ご存知なんですか?」
「ああ。パン屋といえばあいつのとこくらいだろ。因みに、ゲンマとは幼なじみなんだ。」
「そうだったんですか。」
広い街だが世間は狭い。
ハンナは、なんだか心がポカポカとした。
幾つになっても幼なじみが同じ街にいる。
それは、とても幸せな事だと思った。
「お嬢さん……名前は?」
「あっ、あの私ハンナといいます。」
「じゃあハンナ。私からゲンマへ言伝てがある。いいかい。」
「はい。」
「ハンナに最高の焼きたてのパンを食わせてやれ、だ。」
「はい、フフフ。」
「そうやって笑っている方が素敵だぞ、ハンナ。ではおやすみ。」
「おやすみなさい。」
駅長が出ていくとハンナは言い付け通り内側から鍵を掛けた。
そして疲れはてた身体をそのまま古びたソファーへ投げ出し泥のように眠った。
コンコン!
「ハンナ。起きてるかい?」
そのノックと声でハンナは、何とか目覚めた。
そして重たい身体を起こし、鍵を開けた。
「駅長さん。おはようございます。」
「おはようハンナ。もうじき日が昇る。急いでゲンマの所に行きなさい。もう充分腹を空かせているだろう。」
ハンナは恥ずかしそうに頷いた。
駅長からゲンマのパン屋の場所を聞き、ハンナは走りだした。
早朝の空気は新鮮で冷たく、全身が洗われていくようだった。
やがて山の間からオレンジ色の強烈な光が辺りを包んでいく。
自分が産まれ変わったような、そんな気分だった。
どこからか焼きたてのパンの良い匂いがハンナの鼻をくすぐった。
それは、もうすぐゲンマのパン屋にたどり着く合図だったのかもしれない。
そして、これから何かとても素敵な事が起きる――そんな何の根拠もない期待がハンナの心に満ち溢れだした。
太陽は少しづつだが確実に昇っていた。
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