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TRACK-2 変異の系譜 1

 ワーズワース総合大学はグリーンベイの北部にある私立校である。

 学生総数は約五千八百人。広大な敷地に、楕円形の校舎を幾棟も所有する、アトランヴィル・シティ屈指の有名校だ。



 メインキャンパスの白い廊下を、男が一人歩いている。

 黒髪を持ちみどりの瞳に眼鏡をかけ、シックなブランドスーツを完璧に着こなす美貌の男――レジナルド・アンセルム、レジーニの姿であった。

 レジーニは胸元に来客用の入館許可証を着け、勝手知ったるなんとやらとばかりに、迷いなく歩を進めている。この大学を訪れたのは初めてだが、校内地図を記憶したので、目的地までの道のりは分かっている。

 時折すれ違う女子学生たちは、秀麗なレジーニの見目に振り返り、ひそひそと囁き合った。勇気を振り絞った二、三人ほどが、通り過ぎたレジーニを追いかけ、携帯端末エレフォンのアドレスを書いたメモを握らせてきた。突っ返そうとしても、こちらが行動するより早く走り去っていったので、結局受け取ったままになっている。連絡するつもりは毛頭ない。とはいえ、メモが不審な輩の手に渡ってもいけないので、あとで密かに処分しようと、仕方なくジャケットの内側に忍ばせた。

 その後、倍の数のアドレスを、男子学生に押し付けられた。そちらは即行で処分した。

 

 自然光をたっぷりと取り込むキャンパスは、開放的で明るく、学生や教員は皆、伸びやかに大学生活を送っているようだと見て取れた。

 通りかかった教室からは、学生らが何やら議論し、己の見解をぶつけ合っている。

 窓から見えるグラウンドでは、テニスサークルやフットボール、チアリーディングのチームが練習に勤しみ、青春の汗を流している。 

 レジーニはほんの少し、自嘲めいた笑みを、薄く口元に浮かべた。事情が違えば、自分もこうしたキャンパスライフを送っていたのだろうか、と、ふと考えたのだ。

 レジーニの家族は、彼が十四際の時に自壊した。自立を余儀なくされたレジーニは、将来に描いていたすべての夢や希望を捨てなければならなくなった。

 もしも家族が健全なままであったら、ごく普通に学生生活を送っていただろう。勉強漬けの毎日は、目標があるならそれなりに楽しかったかもしれない。友人同士で持論を披露し合うのもいいだろう。そばには恋人もいただろうか。

 だが、それはもはや過去の憧憬でしかない。今ここにる自分がすべてだ。

 振り返っても立ち止まっても、過ぎた時間は戻らない。時間ときは人間の想いなど無視して、容赦なく流れていくだけだ。だから人は、時間とともに進んでいくしかない。

 過去に囚われ、長い間前進できなかったレジー二に、歩け進めと発破をかけたのは、十年の時間を〈政府サンクシオン〉に奪われた相棒だった。

 皮肉なものだな、と苦笑し、レジー二は先を急いだ。


        *


 楕円形のキャンパスは、中央が中庭になっている。廊下はぐるりと円を描く形になるので、反対側の様子も伺うことが出来る。

 廊下の半ばあたりに、男女数人の学生がたむろしていた。特に中身のない他愛のない話で盛り上がり、けらけらと笑い合っている。

 そんな中で、一人の女子学生が退屈そうに窓辺に立っていた。仲間たちの輪に入らず、ぼんやりと中庭を見つめている。

 歳の頃は十八、九。まだ幼さの残る顔立ちは、凛として涼しく整っている。腰まで届きそうに長い髪は、明るくも薄めの赤毛という、珍しい色味である。背は、他の女子学生より、やや高めだ。

 少女の孔雀藍ピーコック・ブルーの目が、つ、と上に向いた。反対側の廊下を颯爽と行く、スーツを着た男の姿が視界に入った。

 途端、少女は窓に張りついた。ガラスに顔を押しつけ、男の行方を目で追う。


「あの人だ」


 少女は弾かれたように駆け出した。背後から友人たちの声がかかるが、かまっていられない。

 少女は、男の進む方向へ走った。廊下は繋がっている。エレベーターホールは逆方向だ。エスカレーターを降りるか下るか、どこかの部屋に入るかしなければ、このまま鉢合わせることになる。

 彼がなぜ、この大学に現れたのか。そんなことはどうでもいい。

 会いたかった人に、やっと会える。それだけで充分だ。

 三年間、この時をどんなに待ちわびたことだろう。できる限りの手を尽くしても、行方の手掛かりさえ掴めなかった。もう一度だけでいい、会いたいと願い続けていた相手が、同じ建物の中にいる。

 廊下のカーブに差し掛かった。あと少し、もう少しだ。カーブを曲がった先で出会えるはず。

 長い赤毛を揺らし、息を切らして走った。

 カーブを曲がった瞬間、いきなり目の前に何者かが現れ、少女と正面衝突した。

 勢いのついていた少女は、悲鳴をあげて尻餅をついた。ぶつかった相手もまた、同様だった。

「ちょっと、なんなのよあなた!」

 ぶつかったのは女子学生だ。立ち上がり、スカートに付いた埃を払いながら、少女を睨み下ろす。

「ちゃんと前見て歩きなさいよ」

「ご、ごめんなさい!」

 素直に謝るも、相手の女子学生は許しの言葉を返さず、顎を上げてふんと鼻を鳴らし、少女の横を通り過ぎていった。

 女子学生の背中を、しばし見送った少女は、はっと我に返る。

「そうだ、あの人」

 慌てて立ち、辺りを見回した。ここで鉢合わせになるはずだ。だが、彼の姿はどこにもない。手近な部屋を覗いてみたが、それらしき人物はいなかった。

 エスカレーターの上と下も確認したが、やはり彼の姿はなかった。

 少女は溜め息をつき、壁にもたれかかった。額に浮いた汗を掌で払い、そのまま顔を覆う。

 見間違えたのでは、という考えが頭に浮かぶ。が、すぐに否定した。あれから三年経っているが、彼のことは鮮明に覚えている。間違えるはずはない。

「まだ、近くにいるかも」

 壁から離れ、エレベーターに戻った。上階と下階を捜すためだ。まるでストーカーのようだと、自分でも思う。それでも諦めきれず、少女は見失ったスーツ姿を求めて、構内を歩き続けた。 

 結局、彼を見つけることは出来なかった。


 少女が女子学生と正面衝突した、ちょうどその時、レジー二は目的の部屋に入室した。

 その部屋で彼を待っていた人物とともに、奥の別室へと移動したため、部屋を覗き込んだ少女には気づかれなかったのだ。



 彼と少女が再会を果たすのは、もう少し先のことである。



        *



 レジー二がその部屋をノックすると、やや間を置いて、自動ドアのロックが解除された。

 と、同時にドアがスライドして開く。

 狭い部屋だ。壁を占める本棚には、ぎっしりと書物が押し込められ、入りきらなかったものは、床に無造作に積み上げられている。顕微鏡、ビーカー、フラスコなどをはじめとする実験器材が、書類や本の間に埋まっている。すえた匂いの正体は薬液だろうか。

 ワーズワース大学で教鞭をとり、講義内容に定評のある教授にあてがわれたにしては、いささか質素な研究室であった。

 そんな狭い研究室の奥のデスクに、小柄な人物が座っていた。レジー二が入室すると、それまで睨んでいたコンピューターから目を離した。

「やあ、よく来たね」

 平素から不機嫌そうな顔つきの生物学者、シーモア・オズモントである。

「迷わなかったかね」

「問題ないよ。なかなか綺麗なキャンパスだ」

「我が校の校訓は『清廉勤勉』。構内を美しく保ち、曇りなき環境で学業に専念することを奨励している。勤勉が守られているかどうかは定かでないが、ともあれ清潔を保つことに異論はない」

「言えてる」

 レジー二は肩をすくめ、オズモントに同調した。

 オズモントはコンピューターを閉じ、デスクチェアから立ち上がった。

「わざわざ大学にまで来てもらってすまない。話し合うなら早い方がいいが、講義を抜けるわけにはいかないのでね」

「構わないよ」

「エヴァンは連れて来なかったのかね」

「猿に理解できるとも思えないだろ? あとで、幼児にも分かるくらい噛み砕いて説明してやるよ。それに、今日一緒に来るとしたら、あなたの事情を話さないわけにはいかなくなる」

「まだ話していないのか」

「今の段階で話しても、出来ることは何もない。それどころか、あなたの助けになろうと、無計画に行動を起こしかねない」

 淡々としたレジー二の言葉に、オズモントは口元を歪ませた。会って日の浅い人間の目には、嘲笑あざわらっているように映るだろう。しかし付き合いの長いレジー二には、それが嘲笑ではないと分かる。

「では、奥の部屋へ」

 オズモントは先に立ち、本棚の間に隠れるように設置された手動ドアを開けた。

 研究室よりもっと狭い空間が、そこにはあった。窓があるので明るいのだが、棚に並んだ薬液漬けの生物標本が、陽射しの下で白い腹を見せているのは、なかなかに不気味である。

 一面の壁にディスプレイが設置されていた。その前に、小振りなテーブルがあり、コンピューターが置いてある。

「それじゃ、研究発表を始めましょうか」

 レジー二は少しおどけて言い、コンピューターの電源を入れた。オズモントは近くの椅子に座り、静かに耳を傾ける。


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