TRACK-1 過去からの呼び声 6
大急ぎでアパートに帰ったエヴァンは、メメントの体液で汚れた服を脱ぎ捨て、肌をタオルで拭いて着替え、プレゼントを掴んでジェンセン宅を訪ねた。時刻は午後九時半を回っている。
出迎えたのはアルフォンセだ。愛しい女性の微笑みに、エヴァンの心は安らいだ。
「エヴァン、お帰りなさい」
「遅くなった。マリーは?」
「待ちかねてるわ、行ってあげて」
部屋に入ると、ジェンセン老夫妻が歓迎してくれた。アーチボルトとローナの抱擁を受けた後、マリーの待つリビングへ向かった。
招待した友達は、すでに親が迎えに来たのだそうだ。マリーは一人、不機嫌そうな顔つきでソファに座っていた。
よそ行きのワンピースを着たマリーは、機嫌の悪い時にいつもするように、ぬいぐるみを両手で抱えている。中学生になっても、その癖は変わらない。
マリーはエヴァンに気づくと、一瞬表情を輝かせた。が、すぐにふくれっ面に戻り、エヴァンを睨みつけた。
「遅い」
「ごめん。これでも急いで来たんだぜ」
「何時だと思ってんのよ。夏休みだからって、成長期の女の子に夜更かしさせる気?」
「悪かったって。そう怒んなよ。俺のバイトが九時までなの、知ってるだろ? ほら、プレゼント持って来たぞ」
エヴァンは苦笑しつつ、小さな包みをマリーに差し出した。花をモチーフにしたリボンのかかった小箱である。
プレゼントを受け取ったマリーは、小箱とエヴァンを交互に見た。エヴァンが、開けてみな、と顎をしゃくって促すと、マリーは小箱のリボンをしゅるしゅるとほどいた。
箱の中に入っていたのは、淡い金色のペンダントだった。ほそいチェーンの先に、小さなタンポポが三つ並んで下がっている。かわいらしくもあるが、デザインはシンプルで、大人でも身につけられそうなものだ。
マリーはペンダントを手に取ると、しばしの間、掌に乗せて見つめた。
「ちゃんと俺が選んだんだぜ。女の子へのプレゼントなんて初めてだったから、選ぶの難しかったよ。お前、そういうの似合いそうだし、どうだ?」
「プレゼント、初めて選んだの?」
「おう。だから、趣味が悪いとか何とか文句言わないでくれよ」
エヴァンはマリーの前に跪き、その手からペンダントを取った。ホックを外し、彼女の細い首に腕を回して、ペンダントを着ける。
金色のタンポポが、マリーの胸元で楚々としたきらめきを放った。
「お、いいじゃん。似合う似合う」
エヴァンが満足気に頷くと、マリーはほんのりと頬を染めた。
「まあ……あんたにしては、上出来なんじゃない?」
「お前なあ、自分のめでたい日くらい、素直に喜んでくれたっていいだろ」
言うものの、エヴァンは微塵も怒ってはいない。この少女は、このままでいいのだ。
可憐な見目とは裏腹な毒舌を、会うたびにぶつけてくる。だが、嫌われているのではないことは、充分に理解している。
マリー=アン・ジェンセンは、これでいいのだ。
「マリー。誕生日おめでとう」
妹のような少女に、祝いの言葉を贈る。
十三歳になったマリーは、胸元のタンポポにそっと触れ、か細い声で「あ……ありがと」と答えた。
遅い時間帯だったので、長居は出来なかった。
残ったオードブルとケーキをごちそうになり、後片付けを手伝ったエヴァンは、アルフォンセとともにジェンセン宅を辞した。
「よかったね、マリーすごく喜んでたわ」
言って微笑むアルフォンセに、エヴァンは首を傾げる。
「そうかあ? 反応そっけなかったぜ」
「そんなことないわ、とっても嬉しかったはずよ」
「ならいいけど」
と、エヴァンも笑う。
アルフォンセやマリー、ジェンセン夫妻となごやかな時間を過ごせたおかげで、もやもやしていたエヴァンの心は幾分か晴れた。
それまでは頭の片隅で、あの一言が渦を巻いていたのだ。
どこかで見たことのあるような、不思議な少女の口から発せられた、不穏な名前。
隠蔽された過去。
自分の知らない、自分。
気になることは多いが、せっかく楽しい夜なのだから、もう考えたくない。
互いにおやすみを告げ、エヴァンとアルフォンセはジェンセン宅前で別れた。しかしアルフォンセは、自宅ドアの前で立ち止まり、エヴァンを呼び止めた。
「ねえ、エヴァン」
呼ばれたエヴァンは、ドアを開きかけたままアルフォンセを振り返る。
「ん、何?」
アルフォンセは思案顔で、ためらいがちに尋ねた。
「あのね、最近、何か変わったことはない? その、身体のどこかに違和感があるとか」
「身体に違和感?」
妙な質問だ。エヴァンは首をひねった。
「いや、別にないよ。どうして? 昨日のメンテ、異常なかったんだろ?」
「ええ、そう。何もないならいいの。ごめんなさい、変なこと訊いて。おやすみなさい」
アルフォンセは笑顔で取り繕うと、自宅に入っていった。
彼女の質問は、たしかに妙なものだった。だが、別に気にするまでもない。マキニアンに精通した武器職人であるが故のことだろう。
そう判断したエヴァンは、そのままドアを閉めた。
*
*
目尻から流れ落ちる雫を、貧弱な拳で拭う。
拭っても拭ってもこぼれる涙を、何度でも払った。
部屋の片隅に、身を縮めて座り込み、膝を抱えて洟をすすり上げる。
しばらくの間そうしていると、正面に誰かの影が落ちた。途端、無条件の安心感を得る。
そばにいてくれるだけで、心が落ち着く絶対的存在。
「もう気が済んだ?」
その人は、優しい口調で言う。
「そろそろ帰りな。みんな心配してるから」
「帰りたくない」
むくれて答えた。
「訓練なんて、もうやだ。ここに戻りたい」
「駄目だよ、訓練しないと強くなれないよ」
「強くなれなくてもいい。だって、何回やってもニッキーには勝てないんだもん」
その名を口にすると、また悔しさが蘇ってきて、乾きかけた目尻が再び潤む。
正面にいる人は、優しい口調を保ったまま、諭すように言う。
「ニッキーは女の子だろ。今は我慢してあげな。男の子は大きくなったら、女の子よりも力が強くなるんだ。大人になったら、お前はニッキーを守ってやる立場になるんだよ。だから、今からうんと練習しなくちゃ」
「あいつなんか、守ってやらなくてもいいよ。僕よりずっと強いから」
「今はね。でも、いつか絶対、お前の方が強くなるよ。ニッキーよりも、ルミナスよりも、他の誰よりも、ずっとずっと、強くなる」
顔を上げると、その人の手が頬に触れた。
頬を柔らかく挟まれたまま、相手を見上げる。
「ほんとに? ほんとに僕は強くなれるの?」
「なれるよ」
「兄ちゃんみたいに?」
すると“兄ちゃん”は、一瞬困ったような表情をしてみせた。すぐに笑顔になったものの、どこか悲しげなのはなぜだろう。
「お前が、僕より強くなったら、その時は」
あとに続く“兄ちゃん”の言葉は、よく聞こえなかった。ラジオのノイズに掻き消されたように、耳には届かなかった。
けれど“兄ちゃん”が最後に言った言葉は、はっきりと聞き取れた。
「約束だよ。僕の大事な、エヴァン」
*
*
唐突に目が覚めた。
かっと見開いた目の先には、闇に染まった自宅の天井。静まり返った部屋で、水槽のエアポンプだけが、微々たる音を立てている。
起き上がり、サイドボードに置いてある携帯端末を手に取った。時刻を確認すると、まだ深夜三時を回ったばかりだった。
エヴァンは携帯端末をサイドボードに戻し、片膝を立てて、寝汗に濡れた前髪をかき上げた。
目覚めた瞬間から、心臓がざわついている。落ち着きのない鼓動を抑えようと、前髪に触れていた手をそのまま胸に当てた。
「夢……か?」
今しがた見たものを、エヴァンは頭の中で反芻する。
どこかの部屋の片隅で、幼い頃の自分がうずくまってべそをかいていた。
そんな自分を、誰かがなぐさめてくれた。包み込むような優しい声は、しかし大人のものではなく、幼かった。
昔の記憶の大半は欠落したままである。十年前の凍結睡眠の際に、併せて施された記憶操作のせいだ。だが、はっきりと分かる。
あの夢は、過去の実体験だ。他の記憶は曖昧だというのに、それだけは断言できた。
氷の眠りから目覚めて今日まで、一度も過去の出来事を夢に見ることはなかった。なのに今頃になって、あんなにはっきりとした夢を見るとは。
夢に出てきたあの人は――、
「誰だ……?」
その人を思い出そうとすると、霧が立ち込めたように頭の中が真っ白になる。
間違いなく、実際にあった出来事だ。でもどうしても、その人のことだけが思い出せない。
忘れてはいけない人のはずなのに。
約束をした。一体どんな。
大切な約束だ。それを果たすために、今、ここでこうして生きている。そんな気がしてならない。
エヴァンはゆっくりベッドに横たわった。ふと、窓の外を見る。地上のネオンによって星が隠れてしまった夜空に、月だけが存在を示していた。
暗く晴れた空に浮かぶ白金の衛星。クレーターの陰影が、はっきりと見える。
今夜はなぜか、月に強く心惹かれた。
静かに注がれる淡い光を身に受けながら、再び目を閉じた。やがて睡魔が手招きし、眠りの底へと誘う。
もう一度昔の夢を見たいと、眠る直前に望んだが。
その夜はそれっきり、何の夢も見なかった。