TRACK-1 過去からの呼び声 5
〈パープルヘイズ〉の夜は、昼間ほど忙しくない。ディナータイムはランチタイムほど客で溢れることはなく、比較的のんびりとした時間が過ごせる。
食器類を手早く運び、食器洗浄機に入れる。洗っている間にテーブルを拭いて除菌、乱れた椅子を正す。
馴染み客に話しかけられると、笑いながらそれに応じる唯一の従業員を、ヴォルフはグラスを磨きながら眺めていた。
エヴァンをここで働かせるようになってしばらくは、とにかく手間がかかった。なにせ元・軍部特殊部隊に所属していたのである、接客業のノウハウなど分かるはずもない。そもそも一般的な職場に身を置いたことすらないのだ。客との接し方、金銭の扱い方、食品の扱い方。掃除から効率のいい買い出し方法まで、一から教え込まねばならなかった。
貴重なマキニアンであるエヴァンを目の届く範囲に置き、よそに放出させないための手段であったが、当時は苦労したものだ。
それが今や、店内業務をそつなくこなすまでに成長している。屈託のない性格はサウンドベルの性に合い、常連客からはすぐに受け入れられた。粗忽で思慮に欠けるが、そういった部分も含めて、息子か孫のように好かれている。
レジナルド・アンセルム――レジーニとのコンビ関係も、すっかり板についてきた。性格の真逆な者同士、相変わらず小競り合いは絶えないものの、なんだかんだで信頼関係が築かれている。
時が、様々なものを成長させているのだ。
ふと思い立ち、ヴォルフは電子時計を見やる。時刻の右上に日付が表示されている。
(そうか、もうそんなになるか)
その事実に気づいた瞬間、なにやら懐かしいようなしっとりとした気分が、ヴォルフの内に湧き起こった。
ついでに時間を確認したヴォルフは、店内を見渡す。午後八時三十分を過ぎ、オーダーはストップした。残った客はほんの数名。特に忙しくもない。
厨房で食器を片付けていたエヴァンに、ヴォルフは言った。
「おい、今日はもう上がっていいぞ」
「いいのか?」
真っ白なパスタプレートを棚に置きながら、エヴァンは首を傾げる。
「パーティーに呼ばれてんだろ。もうじきガキは寝る時間だ。早く行ってやれ。あとは俺がやる」
「サンキュー! じゃあお先」
素直に好意を受け取ったエヴァンは、ソムリエエプロンを外して定位置に引っ掛けると、残った馴染み客に一声かけて出て行った。
彼の後ろ姿を見送っていた客の一人が、ぽつりと呟く。
「いなくなった途端、この静けさだ。去年までこれが普通だったのに、今じゃ考えられないな」
別の一人が、同調して頷く。
「まったくだ。うるせえのが来たと思ってたが、すっかりここいらの名物になって」
「ここに来たばっかりの頃は、よく皿だのコップだの割って、旦那の拳骨喰らってたよなあ」
「最近は割ってねえよな。なんか寂しいな」
馴染み連中の会話に、ヴォルフは苦笑する。
「勘弁しろや、あいつのせいでどれだけ食器を追加したと思ってやがる。今更また割りやがったら、拳骨で済ませられるかよ」
たしかに、と笑い声が上がった。
彼らはエヴァンの本当の姿を知らない。特殊な強化を施された戦闘員であり、裏稼業者として異形メメントと戦っていることを知らない。彼らが好いているのは、表側のエヴァンの姿だけだ。
だが、それでいい。表と裏は一体であれど、交わることは決してない。ここにいる彼らが、表の世界に生きる全き一般市民である以上、裏の顔を知る必要はないのだ。
(しかし……)
ヴォルフ自身、エヴァンについて多くを知っているわけではない。むしろ、知らぬ部分の方が多い。本人が記憶障害を負っているために、過去が明かされていないからだ。
底抜けに明るく前向きなエヴァンを見ていると、秘められた過去を持つ身であることを忘れてしまいそうになる。
(本人が覚えてねえんなら、追求しようがねえしな)
エヴァンが記憶を取り戻すまで、この一件は解決しそうにない。
夜もすっかり更けた時間帯、煌々と照る街灯下の歩道を歩く人々はまばらだ。イーストバレーやグリーンベイであれば、こんな時間帯でもたくさんの市民が往来を闊歩しているが、サウンドベルの住民は健全で、夜は早く自宅に帰る。
エヴァンは軽快な足取りで歩道を走った。湿気を孕んだ夏の風を受けながら、アパートへ続く道を急ぐ。
と、突然。項から後頭部にかけて、虫の這うような違和感を覚えた。
ぴたりと足を止め、流れてくる異様な気配を探る。
「なんだよ、急いでるって時に邪魔すんなっつの」
道行きを阻む気配に舌打ちし、唇を尖らせた。
出た、ようだ。
エヴァンは少しも慌てず、忌むべき気を辿っていった。導かれた先は、路地裏の突き当たりだった。
昔ながらの煉瓦塀に両側を囲まれた路地裏奥には、一台の電動車が停められていた。車はどこでも見かける一般的な車両で、別段注視する部分はない。一箇所挙げるとするならば、フロントガラスに記された、光る文字だろうか。
それは特殊な電子ステッカーであった。透明なシートに電子文字を表示させることが出来るもので、書き換え可能、剥がして再度貼り付けも可能である。ただし、一度剥がすには、専用のスプレーが必要だ。そのスプレーの所有者は警察官である。
フロントガラスの電子ステッカーは、駐車違反を取り締まったものだった。
車の持ち主は運が悪かった。違反ステッカーを貼られたことは、不運ではあるが自業自得である。本当についてないのは、車の天井に異形が乗っかっていることだ。もぞもぞと蠢く影の重みで、天井は無惨にもへこんでしまっていた。
電動車の上の影は、こちらに背を向け、丸っこい胴体を震わせている。胴体からは太い足が生え、折り曲げてしゃがんでいた。腕にあたる部位は確認できない。
エヴァンの接近に気づいた影が、胴体を起こして振り返った。のっぺりとした表面に、千切れたたこ足配線のような管が何本もぶら下がり、先端から粘質の液体がぽとりぽとりと滴り落ちている。頭部らしきものが無い、と思った矢先、胴体のてっぺんが真っ二つに割れ、人間のものと形状の酷似した口が開いた。
下位メメント、フェイクジョーである。
メメントとは、死骸が変異した人智の及ばぬ存在だ。植物以外の生物の死骸であれば、動物でも人間でも、虫でさえもメメント化の対象となる。
メメント化の原因は、長年未知とされていたが、モルジットと呼ばれる不可視物質によるものだということが、現在判明している。
これらメメントの実在は、世間一般には知られていない。奴らは背後から忍び寄る暗殺者の如くひっそりと、人間の営みと生命を脅かしているのだった。
人類の敵メメントを退治する仕事を、軍部非認可で請け負っているのが、裏稼業者〈異法者〉であり、エヴァンもその一人である。
「またぶっさいくな奴だな。他人様の車ボコって何やってんだ」
エヴァンは両手指の関節をコキコキと鳴らしつつ、フェイクジョーに近づいていく。
フェイクジョーは、一際激しく胴体を揺らすと、歯の生え揃った口をエヴァンに向けて開けた。不気味なまでに赤い口腔が、街灯に照らされる。
瞬間、フェイクジョーの口から、どす黒い何かがいくつも吐き出された。
「うおっと」
エヴァンは軽く横に跳び、吐き出されたものをかわした。ぼとぼとと地面に落ちるフェイクジョーの吐瀉物。よく見るとそれは、惨たらしく喰い散らかされた、何匹ものドブネズミの頭部だった。
「ゲッ、胃に悪そうなもん喰ってんなあ。急いでるからさっさとやるぞ」
基本的にメメント退治は、“仕事”として請け負ってから行うのだが、こうした突発的なエンカウントもよくあることだ。相棒がこの場にいたら「タダ働きだ」とぼやくだろう。
エヴァンは意思の力で、己の身体を組織する細胞装置を起動させた。一瞬のうちに、両前腕が紅い硬質のグローブ型武具〈イフリート〉に変形する。
フェイクジョーが電動車の上から跳躍した。すさまじい脚力で、バッタさながらに跳び上がる。
メメントは着地すると、エヴァンめがけて再度跳んだ。見た目に反して、なかなか素早い。大きな口を開け、丸飲みにしようと頭を狙っている。
落下してきたフェイクジョーを、エヴァンは左手で楽々と捕らえた。右の〈イフリート〉の具象装置を発動させ熱を纏わせると、フェイクジョーの特徴である顎に、強烈なストレートを数発入れた。最後の一撃で、フェイクジョーを数メートル後方の煉瓦塀へ弾き飛ばす。
火花を散らしながら吹っ飛んだフェイクジョーは、しかし空中で体勢を変え、塀に垂直に着地した。先ほどよりも更に大きく開かれた口から、赤い管のようなものが出現し、エヴァンに向かって飛び出す。
襲ってきた管を、避けると同時に掴む。ぬるりとした厭な粘液が〈イフリート〉に付着した。
再び具象装置を発動させた〈イフリート〉から、炎が巻き起こる。炎はフェイクジョーを包み込もうと、管の上を走った。
と、その時、掴んだ管の先端がエヴァンの方を向いた。つるりとしたその先端が裂け、人間の口が出現する。口は歯を見せて開くと同時に風船のように膨張し、エヴァンの上に覆いかぶさった。
「くそっ!」
捕食せんとする顎から逃れるために、掴んだ管を離さなければならなかった。エヴァンは管を離すと同時に、後方へ跳んだ。刹那、フェイクジョーの顎が地面にめり込む。
この機を逃さず、エヴァンは右足を振りかぶり、地に埋もれたメメントを、硬化した右脚で蹴りつけた。強力な一蹴で宙に浮いたフェイクジョーの顎に、回し蹴りのおまけが決まり、高らかに打ち上げられる。
すると、壁に張りついていた本体も引っ張られ、一本釣りされた魚のように宙に舞い上がった。
フェイクジョーの大顎が、粘液を飛散させながら落下してくる。エヴァンは右の〈イフリート〉にパワーを溜めた。具象装置が炎を呼ぶ。
パワーが充填されると同時にエヴァンは、闇の空から落ちてくるメメントの大顎に、炎を纏うアッパーを叩き込んだ。
フェイクジョーの顎は粉砕され、〈イフリート〉の炎に焼かれた。炎は胴体に伝わり、たちまち異形を包み込んだ。
フェイクジョーは、砕けた顎からおぞましい断末魔を上げ、駐車違反の電動車の上に墜落した。怪物落下の衝撃で、車の天井は更に窪み、窓ガラスという窓ガラスは割れ、スクラップ状態になってしまった。
「あ、やっべ。やっちまった」
メメントが燃え尽き、消失していく様を確認したエヴァンは細胞装置を解除すると、大破した車を見て、ぽりぽりと頬を掻いた。
誰かに見られては面倒なことになる。車の持ち主には申し訳ないが、敵は倒したのだから、このまま立ち去ろう。
まるでこそ泥のように肩を縮めたエヴァンは、世にも奇妙な“事故現場”に背を向けた。
メメントの捲いた粘液が、肌や服に付着している。アパートに帰ったら、急いで着替えなければ。
そんなことを思いながら、歩き出す。
が、すぐに足を止め、はっと息を飲む。
路地の先、表通りに出る手前に、誰かが立っていた。
少女だ。月明かりを宿したような、色素の薄い長い髪。白いシャツと青いベスト、紺のプリーツスカート。どこかの学生だろうか。
思わず溜め息が出そうになるほどの、美しい少女だった。
少女は双眸を見開き、エヴァンを凝視している。
(ヤバい、見られた!)
秘密裏に行うことが原則の異形退治の現場を、一般市民の少女に目撃されてしまった。
加えて、細胞装置も見られているはずだ。
エヴァンはとっさに、愛想のいい(と、受け取れるであろう)笑顔を作り、少女に近づいていった。
なんでもいいから、誤魔化さねば。
「やあ。えっと、あー、今の見た? あれはさ、ほら、なんて言うの、撮影だよ映画の。このへんよく撮影に使われてるの、知ってるだろ? リハーサルだったんだ、あの化け物も車も小道具。カメラは、えーっと、あっち。あそこに隠れてる。いや、マジで」
エヴァンが近づいても、少女は逃げなかった。大きく開いたアーモンド形の眼で、じっと見つめ続けている。
反応がない相手に不安を感じたエヴァンは、少女と数メートル距離を置いて、接近をやめた。
近くで少女を見ると、その美しさがよく分かる。同時に、不思議な感覚が湧き上がった。
(この子、どっかで見たことあるような)
少女に対し、既視感を覚えたのだ。よく行くショップで見かけたのか、〈パープルヘイズ〉の客だったか。知らないのに、知っている。
「なあ、聞いてる?」
問いかけると、少女の艶やかな唇が、薄く開いた。
「…………ラグナ」
その名をエヴァンの胸に突き刺すと同時に、少女は表通りに向かって走り出した。
エヴァンの思考と動作は、思いも寄らない出来事に、一瞬停止した。だが、少女が走り去る姿を見て、慌てて追った。
「ちょっと待って! 待ってくれ!」
少女が角を曲がる。エヴァンも続く。
その先に、少女の姿はなかった。
「そんな……」
あたりをくまなく見渡したが、数秒足らずで身を隠せそうな場所はない。
少女は、あのたおやかな外見にそぐわない恐るべき脚力の持ち主で、疾風の如くエヴァンを振り切り、通りを走り去ったのだろうか。しかし、たとえ世界最速のランナーであったとしても、去り行く後ろ姿くらいは確認できるはずだ。彼我の距離は、ほんのわずかだったのだから。
エヴァンはその場に立ち尽くし、少女が去ったかどうかも定かでない道の彼方を、呆然と見つめた。
(なんで)
心臓の鼓動が激しいのは、走ったせいではない。
(なんで、俺の“昔の名前”を)