OUTRO
その男は聞いているのかいないのか。話している間、相槌もなければ頷きもしない。こちらに背を向けたまま椅子に座って、五十キロのダンベルを片手で上下させている。
裸の上半身は筋肉たくましく、汗が滲んでいる。長い黒髪は縮れていて、汗ばんだ背筋に張りついていた。
寂れた路地裏にひっそりと建っている、安アパートの一室。部屋にいるのは、男が二人だけだ。
「聞いているのか?」
一向に反応を見せないので、業を煮やしたシャラマンは、苛々と声をかけた。
「なあ、おい」
「吠えるな。聞いてる」
黒髪の男は、低い声でやっと答えた。しかし顔は向けず、トレーニングは続けている。
「粛清廃棄されたはずの奴が〈スペル〉を使って馬鹿騒ぎを起こした。トワイライト・ナイトメアは、あんたが捜してた奴じゃなかった。ソニンフィルドが動き出した。坊主は元気だ。ざっとそんな状況だろ」
男のぞんざいな物言いに、シャラマンは文句を言おうと思ったが、やめた。通じやしないのは目に見えている。
代わりに、意見を聞いてみた。
「ソニンフィルドの目的は、やはり〈政府〉への報復、と考えていいだろうか」
「さあな。ぶっ飛ばしてやりたいだろうが、それが最終目的とは思えねえな」
「彼のもとにマキニアンが集っているなら、マキニアン対一般兵との戦いが始まってしまう」
「もう始まったじゃねえか。十年前によ」
黒髪の男は、鼻を鳴らして嘲笑った。
「てめェらが造り上げた兵器が邪魔になって、最初に攻撃仕掛けたのはあっちだろうが。報復されたって文句言えた義理じゃねェだろう」
「だからこそ、あやまちは繰り返してはならないんだ。そうとも、争いが何を生み出すか、十年前に身にしみている」
シャラマンは腰に手をあて、深々とため息をついた。
「エヴァンがソニンフィルドの手に落ちるのだけは、絶対に避けなくてはならない。今はまだいい。エヴァンの精神は安定しているし、信頼できる仲間に囲まれている。それにドミニクがついてるからね」
ドミニクの名が出た瞬間、黒髪の男の肩がピクリと動いた。だが、その反応が何を意味するのかは、シャラマンには汲み取れなかった。
「有効な手は、まだ一つも打てていないんだ。なんとかしなくては」
シャラマンは、無言でダンベルを上げ続ける男の背中に、別の疑問を投げかけた。
「分からないのは、シェドがどういう経緯で〈スペル〉を入手したか、なんだ。なあ、君……。君は本当は、フェルディナンドを殺していないんじゃないか?」
男は答えない。シャラマンはあきらめのため息をついた。この男は、喋らないと決めたことは、絶対に喋らないのだ。
そして、自分からは肝心なことを話さないくせに、あれこれと聞いてくるのである。
「そんなのはどうでもいい。あんたはこれからどうするのか、そこを決めるべきなんじゃないか」
「私か?」
「ソニンフィルドを警戒するのもいいがな。もっと注意すべきはブラッドリーの方だろう。あんたはあのおっさんを対等に利用したつもりだろうが、その実、掌で踊らされてるだけなんじゃないか、え? この隠れ家だって、とっくに知られてる」
「まさか……!」
「おめでたい頭だな、バレないとでも思ったか。あんたがおでかけしている間に、何度か〈帝王〉の犬が嗅ぎまわりに来てたぞ」
シャラマンは舌打ちし、こめかみに指をあてた。
「そういうことはもっと早く言ってくれないか! しかし、まあ、いいタイミングだろう。明日、この街を出て〈パンデミック〉跡地に向かう。トワイライトは彼じゃなかった。もう一度調べなければ」
あの地へ行って何か収穫があるのか、それは定かではない。だが彼に縁のある場所は、もう〈パンデミック〉跡地しかないのだ。
シェドのことも解決していない。おそらく彼は、まだ生きているだろう。
シェドは“アダム”を知っている。だからエヴァンと“アダムの後継者”を争うために、彼に異常な執着心を抱いているのだ。
シェドがいつ“アダム”の存在を知ったのかを考えれば、それは、モルジットと融合してから後、としか考えられなかった。
シャラマンは筋骨隆々の背中に言う。
「一緒に来てくれないか」
ダンベルを上下させる腕が止まった。ごとりと床に置き、男が立ち上がる。
「やれやれ、やっとご指名か」
赤いゴーグルを着けた顔が、不敵な笑みを浮かべて振り返った。
*
警察官のような制服を着た集団が、じめじめした路地裏の暗がりにたむろしている。彼らは各々手に道具を持ち、道路の隅や建物の壁、雑草などから何かを採取し、機械に取り込んで調査をしていた。
一人の若い男が、彼らの間を歩きながら、その仕事ぶりに目を光らせていた。
長身を、軍服に似た詰襟の服で包み、ゆるいウェーブのかかった長い髪を一つに束ねた、二十代後半の美男子である。
その瞳は、荒れ狂う大海原のような濃い青色で、怠けた姿勢は一秒たりとも見過ごさぬとばかりに、厳しく制服集団を見張っている。
制服の一人が、興奮気味に声を上げ、彼を呼んだ。
「副官、反応がありました」
呼ばれた男は、つかつかとそちらに歩み寄り、部下が示す計測器を覗き込む。
「数値からするに、昨日まではこの場所にいたようです」
報告を聞き、男はゆっくり頷く。
「D班からも、反応ありの報告がありました。これで範囲が狭まってきます」
「分かった」
男はもう一度頷くと、棒型通信機のスイッチを入れた。
「報告します。生体パルスの痕跡を複数個所で確認。シェドは北上し、アトランヴィルの外に出た模様です」
『やはり生きていたか、しぶとい生命力だ』
レシーバーからは、通りのいい低い声が返ってきた。
「ベゴウィックとウラヌスを捕獲に向かわせます」
『くれぐれも侮るなと伝えろ。弱っているとはいえ、現時点で最強のマキニアンだ。前回はそれで取り逃がした』
通信相手は、くく、と笑う。
「エヴァン・ファブレルはどうしますか。これから捕らえに行くことも可能ですが」
『構わん。まだ捨て置け』
「よろしいのですか?」
返ってきた答えが意外だったので、男は片眉を吊り上げた。
『あれは巣からは離れぬ。いずれは我々のもとに戻るのだ、急ぐ必要はない。泳がせておき、ルミナスを引きずり出させる』
「ルミナスが姿を見せるとは思えませんが」
『現れるさ、奴は義理堅い男だからな』
通信を終え、男は部下たちに撤収を命じた。撤収作業の終盤、部下の一人が駆け寄ってきて敬礼すると、男に何かを手渡した。
手渡されたそれは、銀色の円錐形のカプセルだった。
以前、多数の犠牲を払って捕らえたシェドが、脱走する時に奪い取っていった〈スペル〉の一つだろう。
男は掌のそれを睨みつけ、潰さんばかりに強く握り締める。
このカプセルの造り主が、何を願って開発に臨んだか。その時のことを、彼は思い出したのだ。
「……あなたの志は正しかった。だが、手遅れだったんだ、父さん」
*
アトランヴィルに、夜が訪れようとしていた。
西の地平線に太陽が沈み、黄金色の余韻を残しつつ、天頂は濃厚な紺色のマントを纏う。
道行く人の、互いの顔の判別がつきにくくなる時間。闇に染まる街に、明るいネオンが灯り始める時間。黄昏刻だ。
もっとも高いビルの最上階に、黄昏より現れたものがたたずんでいる。
黒き鎧に身を包んだ、半人半馬の美しき異形。
トワイライ・ナイトメアは、静かに人間の街を見下ろしていた。
やがておもむろに両腕を上げると、兜を抱えて持ち上げた。兜の下に頭はない。
脱いだ兜を右の脇に抱え、馬の蹄で地面を蹴った。
ふわりと宙に浮く。
彼はしばし、夜の帳の降りた街の上空を、音もなく駆けて、
やがて白びた月の光に溶けるように、消えた。




