TRACK-7 瑪瑙と龍 3
買い直したばかりの携帯端末が鳴る。発信者名を見てレジーニは、ふっと口の端で笑い、通話モードに切り替えた。
「なんだ、もう退院か」
『なんだとはなんだ。大事な相棒が生還したんだぜ、もっと他に言うべきことがあるだろ』
「お前の口座から、壊してくれた端末の弁償代金引き落とした」
『そういうことじゃねえ! つか、そういうことするなら、まず俺に一言言ってからにしろよな!』
「あと車もな。今後の報酬から、少しずつ天引きされるようになっている」
『はああ!? 端末は分かるけど、なんで車まで!? ありゃお前が勝手に』
「大事な相棒のために犠牲になったんだ。仕方ないだろう」
悪びれもせず言い切ると、通話口の向こうから、真冬の隙間風のような呻き声が聞こえてきた。
相棒は完全に回復したらしい。声のキレが元気のいい証拠だ。これなら心配はいらない。隣にアルフォンセがいるなら、なおのことだ。
気にかけるべき問題は、他にも山とある。
「まあ、そんなことより、だ」
『軽く流してんじゃねーよ』
「聞け。今回のシェドとの一件は、ただの導入口に過ぎない。今後、もっとたいへんなことが起きるぞ」
〈SALUT〉の元・司令長官という大物ディラン・ソニンフィルドが、新たな組織を結成して活動を始めた。組織の真の目的は明らかではないが、ソニンフィルドがエヴァンの身柄確保を企てているとするなら、必然的にその周辺は巻き添えを食うことになる。
それに“アダム”という、謎の存在も忘れてはいけない。
核心部分を掌握する人物――アンドリュー・シャラマンは失踪してしまった。謎は何一つ解決していないのである。
『ああ、分かってる』
珍しく堅い相棒の声を聞きながら、レジーニはデスクの端に置いた操作盤を見やった。
シャラマンから預けられた忌々しい操作盤だ。これをどうするべきか、レジーニは考えあぐねている。
エヴァンとの、生存確認のような通話を終えたあと、レジーニは組んだ足の膝を、指でとんとんと叩きながら、思考を巡らせた。
気になっていることはまだあるのだ。
十年前の〈パンデミック〉発生時、現場の同緯度線上東で殺人事件が起き、そこで殺害された男は、特殊なメメントとなって蘇った。
〈パンデミック〉の現場から発せられた生体パルスなる現象の影響を受けた結果だというが、生み出されたメメントが、他に類を見ない特殊な存在となったのは何故だろう。同緯度線上であったことが、稀なる結果を招いたのだろうか。
もし、この仮説が正しかった場合、もう一方の方角でも、同じことが起きたとしてもおかしくはない。
そう、同緯度線上の、西側で。
こう考えたレジーニは、該当する地域で十年前に不可解な出来事が起きてはいないか、過去のニュースや、その地域の情報データベースを調べたのだった。
現地に調査に向かおうにも、西エリアまではかなり遠い。今の状況で長い間この地を離れるのは得策ではない。
フットワークが軽く、信用が出来、尚且つ自衛に長けた誰かに、協力してもらうしかなかった。
レジーニは再び端末を手に取り、耳にあてた。
「やあ、景気はどうだ。…………怒鳴るなチワワ。お前たち、ちょっと旅行してみないか。西エリアまで」
*
屋上からの景色は見慣れているが、こうして眺めることが出来ているのは、実はとてもありがたいことなのだと、エヴァンはしみじみ思った。
つまりそれは、今生きているということであり、無事に帰るべき場所に帰ってこられた、ということなのだから。
約二日不在にしていたエヴァンが帰宅すると、斜向かいのジェンセン一家をはじめとするアパートの面々が、「おかえり」と声をかけてくれた。みんなが心配しないようにと配慮したアルフォンセが、不在の理由を、友人宅に泊まっているということにしておいてくれていたのだった。
一人マリーだけは、相変わらず生意気な態度で、つんとすませてそっぽを向く。けれどちゃんと「おかえり」と言ってくれたし、その細い首には、タンポポのペンダントが提げられているのだった。
「おかえり」
いつも当たり前のように交わしていた挨拶だ。けれど、そんな何気ない短い挨拶が、こんなに心をあたたかくさせてくれるものだったとは思わなかった。
「ただいま」
西から吹いてきた風に身をゆだね、転落防止柵に腕を乗せて、アパートの人々に返した言葉を、一人呟く。
階段室のドアが開く音がしたので、振り返る。やってきたのはアルフォンセだ。
アルフォンセはエヴァンの隣に立ち、さわやかな風に吹かれて、うっとりと目を閉じた。
それから目を開くと、エヴァンを見上げ、柔らかに微笑んだ。
「よかったね、ドミニクさんたちがここに留まってくれて。仲間が増えると心強いでしょ?」
「そうかな? 俺たちの“仕事”までとられそうで嫌なんだけどな。それに口うるせえし」
「あら、そんなこと言っていいの? また怒られるよ」
「いーのいーの。どうせ今ここにはいねーんだから。ここには」
今ここにいるのは、アルフォンセと自分だけだ。
エヴァンは高鳴る胸を抑え、アルフォンセをこちらに向かせた。
「なあ、アル」
「あのね、エヴァン」
エヴァンが言葉を続けるよりも、アルフォンセの行動の方が早かった。彼女はスカートのポケットから何やら取り出すと、そっとエヴァンに差し出した。
「はい、これ」
「ん、何?」
出鼻を挫かれてしまったが、エヴァンはとりあえず、差し出されたものを受け取った。
それは古めかしい小箱だった。蓋に龍の彫刻が施された、かなり凝った造りの箱だ。
「これは?」
「開けてみて」
言われるままに蓋を開けると、ビロード地の敷布が見え、その上に、小さな八個の輪っかが並べられていた。ピアスであった。
輪はすべて鮮やかな赤で、宝石のようにぴかぴかに磨かれていた。金具部分は金細工で、炎のような形に細かく彫られている。
「すげえ! 何これ、すげえ綺麗!」
ため息が出るほど美しい品物に、エヴァンは興奮して声を上げた。そんなエヴァンに、アルフォンセは微笑を絶やさない。
「ローさんに頼んで取り寄せてもらったの。特別なガラス細工なのよ。今では貴重なんだって。それでね」
細いアルフォンセの指が、二つのピアスを指し示す。
「この二つは、本物の瑪瑙なの」
「瑪瑙って、宝石の?」
「そう。赤瑪瑙は家族愛、兄弟愛、そして自然を愛する心の象徴。あなたにぴったりだと思って」
「俺に……。じゃあこれ、俺のためにわざわざ取り寄せてくれたのか?」
まじまじとアルフォンセを見ると、彼女は照れくさそうに頬を朱に染め、控えめに頷いた。
「でも、何で?」
「ローさんのところに出入りするようになった時、エヴァンの眠っていた凍結睡眠装置を見つけた日の話を聞いたの。それから、オズモント先生が装置を解除した日を聞いて、もうすぐ一年が経つって分かったのね。それで、そのね、記念になるものを贈りたいなって……」
「だから、これを?」
「うん。それと、エヴァン、誕生日を知らないって言ったでしょう? だから、本当の誕生日が分かるまで、その日を仮の誕生日にしてみたらどうかな?」
「仮の誕生日。……俺の、誕生日」
「七月二十三日。あなたが眠りから覚めた日。本当は昨日だったんだけど、一日遅れの誕生日プレゼント」
誕生日。
知らなかった誕生日。
それはこの世に生まれた日。
命が始まった日。
「来年もまた、こうやってお祝い出来たらいいね。再来年も、その次の年も、ずっと」
アルフォンセの優しい声を聞きながら、エヴァンはじっとピアスを見つめた。
そのうち目頭が熱くなってきて、視界がみるみるぼやけていった。慌てて瞬きすれば、雫がぽたりと掌に落ちる。
「あれ、やべ。何で泣いてんだろ俺。あはは、嬉しいのにな、すげえ嬉しいのに、なんで涙が出てくんだろな」
止めようと思っても止められない。膨れ上がる感情を代弁するかのように、緋色の目からは――アンダータウンの主から“火のような瑪瑙”と称されたその目からは、あたたかな雫があふれてくるのだった。
エヴァンは片手に小箱を持ったまま、アルフォンセを引き寄せて抱きしめた。
「ありがとう、アル。ありがとう」
胸が熱い。震える声で、精一杯の感謝の言葉を述べる。でも、どんなに言葉を尽くしても、感謝の想いのすべてを伝えきることは出来ないだろう。言葉だけでは表せない。どんなに感謝しているか。どんなに――。
いつも守っているのだと思っていた。このか細く儚げな存在は、自分が守っている、守りたい、守らなければならない。そう信じていた。
でも、背中に触れている華奢な手のぬくもりを感じた瞬間、それは間違った認識だったのではないかと思った。
本当は、守られているのは自分の方だったのじゃないだろうか。
この女性がいてくれるからこそ、生きようとする力が湧いてくる。
どんなに過酷な戦いが行く手を塞いでいようと、それを乗り越える勇気と希望がみなぎってくる。
「アル」
「はい」
抱きしめたまま名前を呼ぶと、アルフォンセは頷いた。
「俺の居場所はここだ。ここ以外に行きたい所なんてない。この先何が起きても、どんなことになっても、俺は必ずここに戻る。君のいるところに帰る。
君を愛してるよ」
少しだけ身体を離し、お互いの顔を見つめ合った。アルフォンセは頬を染めたまま、エヴァンの目尻に残る涙を、そっと指で拭う。
「私もよ、エヴァン」
二人の額が触れ合った。鼻と鼻とがこすれ合った。
「あなたが好き。あなたを、愛してる」
ぎこちなく重ね合わせた唇は、互いに少し震えていた。けれど、その甘やかで喜びに満ちた初めての感触は、きっとずっと忘れないだろう。
抱き寄せて、もう一度口付ける。今度は丁寧に、少し長く。
周囲の音は聞こえなくなった。耳に入るのは愛しい人の息遣い、目に映るのはその姿だけ。
ただそこだけが世界から切り抜かれたような空間で、二人は何度も口付けを交わした。




