TRACK-6 夜明け前 2
ドミニクの言葉が脳に浸透するまで時間がかかった。その間エヴァンは、義姉を呆然と見つめ、餌を待つ池の鯉のように口をぱくぱくさせていた。
「……ぎ」
乾いた口内を唾液で湿らせ、やっと声を絞り出す。
「義理の父親? 俺の?」
「そうです」
迷いなく頷くドミニク。
「義理ってどういうこと?」
ロゼットと寄り添ってソファに座るユイが、無垢な疑問を投げかけた。
「シャラマン博士は、エヴァンを養子に迎える予定だったのです」
「詳しく教えてくれないか」
未だ言葉が満足に出ないエヴァンに代わり、レジーニが問う。
「エヴァンは私と同時に〈処刑人〉に入隊しましたが、目に見えた功績をあげることが出来ずにいました。彼は“粗悪体”として扱われ、チームからの除隊も考えられていました。そんなエヴァンを、シャラマン博士は養子にしたいと申し出たのです。上層部とはかなり揉めたようですが、なんとか養子縁組の手続きまで漕ぎつけることが出来たそうです。ですが、手続きが受理される直前に、エヴァンの人格矯正が実行されたのです」
義姉の話を、エヴァンは遠い世界の御伽噺のように聞いていた。孤児である自分に父親? それも、マキニアンの“生みの親”が?
「覚えてねえ……そのことも、記憶から消されてる」
「嬉しそうに話してくれたのですよ、お前は」
ドミニクの眼差しには、労りと慈しみが込められていた。
「もう成人の歳だったというのに、父親が出来ることを、子どもみたいに喜んでいた。こっちまで嬉しくなったくらい」
エヴァンの反応を見ようとしたのか、ドミニクは口をつぐんで黙った。しばし誰も、何も言わなかった。
アンドリュー・シャラマンに関する記憶は、エヴァンにはない。記憶操作によって消されているに違いなかった。
ふと、エヴァンの脳裏に、先日アイスコーヒーをテイクアウトした、アッシュグレーの髪の男が浮かび上がった。彼が誰だか分からなかったが、あの時確かに、いつか会ったことがあると感じた。
ひょっとしたら、彼こそがアンドリュー・シャラマンだったのではないだろうか。
だとしたなら、何故名乗ってくれなかったのだろう。何故、他人のふりをしたまま、こちらに接触してきたのだろう。
(あの人が、俺の父親になるはずだった人……?)
そう思った瞬間、エヴァンの胸に、例えようのない感情が押し寄せてきた。
沈黙を破ったのは、オズモントの穏やかな声だった。
「ともかく、そのシャラマンという人物は、大学にトワイライト・ナイトメアが出現するのを予測したようだ。彼は何かの装置を手にしていたのだが、もしかするとメメント、いや、モルジットの数値を測るものだったのかもしれんな。結果、彼の予測通りにトワイライトは現れた」
「でも、トワイライトより前に、メメントの大群が出てきたよ?」
と、ユイは首を傾げる。
「それにあいつ、シェド=ラザって奴もさ」
「追ってきたのよ」
それまで一人黙っていたロゼットが、徐に言葉を発した。
「大群はシェドが連れてきた。トワイライト・ナイトメアは、あいつとメメントを追ってやってきたの」
レジーニが眉根を寄せる。
「メメントがマキニアンを追って? そんなことがあるのか?」
「普通じゃありえない。だけど、シェドは普通じゃない。それにトワイライトも、他のメメントとは全然違う。あの人たちの間で何が起きてるのか、私にも掴めなかった」
「シェド=ラザとは何者だ?」
レジーニの疑問には、ドミニクが答える。
「彼もまた〈処刑人〉の一人でした。当時最年少にして、最も強力なスペックを持ったマキニアンです。ですが、人格は破綻していて、誰も手に負えなくなってしまい、最終的には粛清廃棄されました」
「俺だろ?」
ドミニクの後に、エヴァンはすかさず続いた。四人分の視線が、エヴァンに注がれる。
「あいつの粛清廃棄を執行したのは俺……ラグナなんだろ、ドミニク」
「お前、記憶が……?」
「いや、あいつがそう言ってた。なあニッキー、あいつは、シェドは、俺とあいつとで“次のアダム”を決めるために殺し合うんだって言ってた。俺とシェドは“本当の仲間”で、“今のアダム”がもう長くないから、“次のアダム”を決めなきゃならないんだとか言いやがった。“アダム”って何なんだ? 俺とシェドが“本当の仲間”って、それどういう意味だよ?」
ドミニクはしばしエヴァンを見つめ、力なく首を振った。
「それは私にも分かりません。“アダム”というものが、何を意味するのか。シャラマン博士なら、きっとご存知なのでしょうけど」
「エヴァン、それを聞いて、何か思い出すことはなかったのか?」
相棒の問いは、それこそエヴァン自身が知りたいことだった。
「知るかよ。俺は何も知らねえんだよ。全然、何もかも、訳分かんねえ」
疲れがどっと押し寄せてきて、エヴァンは頭を伏せた。
いろんなことが同時に起こっている。どうやらそこに、自分は大きく関わっているらしい。だのに本人には、何一つ理解出来ない。
一体どうしろと言うのだ。
気分を変えるために、風に当たろうと外に出た。いつの間にか日は暮れて、天頂はビロードのような濃紺に、地平線は燃えるオレンジ色に染まっていた。
西の空に宵の明星が瞬き、欠けた月が銀色の光を放ち始める。
エヴァンはキャンピングカーに背を預け、しばらくぼんやりと天を見上げていた。そうしていたところで、頭の中がまとまるわけでもない。どちらかというと、頭の中を空にしたかった。あまりに出来事が立て続いて、思考が全く追いつかない。彼なりに考えてはみたのだが、答えはどこからも導き出されなかった。
そのうちキャンピングカーのドアが開いた。顔を向けると、乗り口のステップに、相棒の姿があった。
レジーニは何かを放り投げる。キャッチしたそれは携帯端末だった。
「アルに電話してやれ。お前と連絡が取れないことを心配している。ヴォルフには、さっき僕から伝えておいた」
「ああ……、悪ィな」
礼を言うとレジーニは、ふんと鼻を鳴らして車内に戻った。
態度はいつも通り素っ気ないものの、彼なりに気遣ってくれているらしい。エヴァンは少し笑って、携帯端末を操作した。
呼び出し音が数秒続いた後、スピーカーから声が聴こえてきた。
『はい。レジーニさん?』
アルフォンセの柔らかな声を聴いた途端、もやもやしていた胸の内に、温かな光が射し込んだ。ざわついていた心も、止まっていた脳も、緩やかにほぐれていく。
「アル、俺だよ」
『エヴァン?』
「うん」
『よかった! 連絡がつかないって聞いて気になっていたの!』
アルフォンセの言葉には、ため息が混じっていた。よほど心配させていたらしい。エヴァンは自責の念にかられ、がしがしと頭を掻いた。
「ごめん、心配させて。ちょっといろいろあってさ」
『何があったの? 大学にメメントが出たんでしょう? オズモント先生は無事? 他の人たちは?』
「大丈夫、先生は俺たちと一緒にいるよ。怪我人はいたけど、死亡者はいない。ドミニクたちも加勢してくれたし、メメントはやっつけたよ」
『そう。無事なの。よかった』
と、今度は安堵のため息が漏れる。
電話の向こうで、彼女は今、どんな顔をしているんだろう。アルフォンセに会いたい。会って抱き締めたかった。
アルフォンセが側にいてくれれば、それだけで全てがよい方向に進む気がする。難しい諸問題も、彼女がいればきっと解決出来る。
アルフォンセに何かしてほしい訳ではない。ただ横にいてくれればいい。いてくれさえすれば、それだけで生きる力になるから。
「なあ、アル」
『うん』
「今日はさ、まだちょっと片付かないんだ。それで、えと、話がしたいって言ったろ?」
『うん』
「ちゃちゃっと終わらせて帰るから、だから、待っててほしい」
『うん、待ってる。だから、帰って来てね』
「帰るよ、絶対」
帰る。必ず。彼女のもとへ。
*
通話は終了したが、アルフォンセはずっと携帯端末を握り締めていた。こうしていると、エヴァンとまだ繋がっていられるような気がするのだ。
エヴァンは帰って来ると約束してくれた。だから、彼が戻るまで待っていよう。何時になろうと構わない。
何か夜食を用意しておこうか。きっとお腹を空かせて帰って来るに違いない。
何を作ろうか。あまり匂いの強いものは避けた方がいいだろう。
だってもしかしたら今夜、男女としての一線を……。
「や、やだ、何考えてるの私……!」
思わず想像してしまった内容に赤面し、アルフォンセは慌てて首を振った。
熱くなった頬に手を当て、気持ちを落ち着かせるために、二度三度深呼吸をする。
心が静まると、アルフォンセは改めて夜食の献立を考えた。
だがその思考は、突然の衝撃により中断した。
強い力によって、アルフォンセの身体は床に倒された。悲鳴を上げる間もなく、仰向けに転がされる。
何者かが両腕を掴んで、彼女の上に圧し掛かった。
覆い被さっているのは、真っ白な少年だった。
「やあ、おねえさん、こんばんは」
赤紫の双眸が、怪しく凶暴にぎらついていた。




