TRACK-5 白闇の狂気 8
左頬に鋭い痛みがはしる。赤い飛沫は、頬から視界を横切るように飛び散った。
エヴァンはよろめき、踏鞴を踏んだ。左頬に手をやる。指先が傷口に触れ、痛みに顔を歪めた。己の鮮血で指先が濡れた。
血の量は多いが、傷は浅かった。マキニアンの高い回復力によって、たちどころに傷口が癒えていく。
「こンの野郎……」
頬を濡らした血を、手の甲で無造作に拭い取り、エヴァンはシェドを睨みつけた。
白い少年は、頑是無い子どものように、けらけらと笑っている。
「仲間だと? 仲間なのに殺すってか。随分な仕打ちじゃねえかよ」
「なにをいってるの? なかまだからだよ。でなくちゃいみがないじゃないか。これがぼくたちがうまれたいみなんだから」
「お前の言ってるこたァ、さっぱり分かんねーんだよ」
ファイティングポーズをとるエヴァンの両腕が、赤き鋼鉄のグローブに覆われる。細胞装置〈イフリート〉の調子はすこぶる良い。アルフォンセの真心こもった定期メンテナンスのおかげでもあり、歯ごたえのありそうな相手を前に、気分が高ぶってきたせいでもある。
「来いよガキンチョ。悪さが過ぎると痛い目に遭うって教えてやっから」
やる気を見せるエヴァンに、シェドは満面笑顔を浮かべ、両手を広げた。
「ぼくをころすんだね! いいよ、さあ! だけど〈イフリート〉なんかじゃぼくにかてっこないってわかってるよね? ほんきでやらなきゃぼくをころせないよ? ほんとのちからをださなくちゃだめだよ」
「うっせーな! どっかの赤ゴーグルと同じようなこと言ってんじゃねーよ! これが俺の力なの! あとでぴーぴー泣いても知らね……」
決め台詞が決まる前に、エヴァンは強烈な衝撃によって遥か後方に吹き飛ばされた。数メートル宙を飛び、緑地帯に生えた木に背中から叩きつけられ、芝生の上に落ちた。
肺から空気が絞り出されたあと、すぐにまた空気を取り込んだため、大いに咳き込んだ。呼吸を整えながら立ち上がり、シェドのいる方向に目を向ける。
シェドの長い袖の片方から、妙なものが突き出ていた。よく見ればそれは、子どもの玩具にある、飛び出すボクシンググローブそのものの形状をしていた。
シェドはボクシンググローブのバネを揺らしながら、愉快そうに笑っている。
「テメー、ふざけたスペック持ってるじゃねーか。その袖ん中はおもちゃ箱か?」
「ぼくの〈トリックスター〉にできないことはない。あいつらがそういうふうにした。いちばんつよいこにするためさ。なのに、ぼくがじゃまになったからって、はいきするんだよ? ほんとうにひどいやつらだ、だいきらいだよ。ぼくが“アダム”になったら、みんなころしてやるんだ」
唇を尖らせるシェドの様子は、拗ねた子どもと変わりなかった。しかし、発する言葉は凶悪極まりない。
「なにがいちばんゆるせないかって、ぼくのしょぶんにきみをりようしたこと。ああ、あのときはきみじゃなくて、ラグナだったんだっけ」
「お前、何言ってんだ?」
シェドの話は、一つも理解できなかった。彼が一体、何について語っているのか、皆目見当もつかなかった。
しかしシェドは、エヴァンの反応などお構いなしに、話を続ける。
「ラグナはぼくをころしたんだよ、いちどね。だけどラグナは“ほんとうのなかま”じゃないから、ぼくにはきかない。ぼくをころせるのはきみか“アダム”だけだもの。あのときぼくをころしたのがきみだったら、いまごろきみは“つぎのアダム”になってて、せかいはかわってただろうね」
「“アダム”ってのは何だ。俺が……ラグナがお前を一度殺したって、そりゃどういうわけだ。殺したのなら、何でお前はここにいる」
「ぼくはころされた。だけどしんでない。それだけだよ。だからここにいる。きみをさがして、やっとあえた」
ボクシンググローブが、シェドの袖の中に収められた。シェドは薄く笑い、赤紫の瞳を、一層ぎらつかせた。
「さあ、やろうエヴァン。“つぎのアダム”がどっちなのか、きめなくちゃ。“いまのアダム”はもう、そんなにながくいきられない。ときがちかづいてきてる」
シェドの周りに風が立つ。彼の白い髪や服が風になぶられ、生き物のようにうねる。
「これは“ほんとうのなかま”だけの、しんせいなぎしきだ。ほかのやつらがかいにゅうしていいことじゃない。じゃまするやつらは、みんなしねばいい」
シェドの身体が、ふわりと宙に浮いた。地面からほんの十センチ程度の高さだが、たしかに浮いていた。浮遊能力を持つマキニアンが存在するなど、エヴァンは聞いたことがなかった。
「きみのいのちはぼくのもの。ぼくのいのちはきみのもの。すべてのいのちは“アダム”のもの」
エヴァンは〈イフリート〉の具象装置させ、迎撃態勢をとった。
「“アダム”になるのはひとりだけ」
両腕を広げたシェドは、大きく背を仰け反らせると、勢いをつけて腕を前に払った。シェドの両腕から真空の刃が無数に発生し、エヴァンに向かって発射される。エヴァンは街灯にハンドワイヤーを巻きつけ、空中に飛び上がって回避した。標的を失った真空刃は、緑地帯の植木やベンチを切り裂いた。
しかしシェドが少し手を動かすと、真空刃の一部は方向転換し、外灯の上に降り立ったエヴァンを再び狙う。同時に、シェドの片方の袖から鎖が射出され、外灯の根元に巻きついた。シェドの片腕一振りで、外灯はいとも簡単に地面から引き抜かれる。頂上のエヴァンはバランスを崩した。そこへ、真空の刃が襲いかかる。
エヴァンはとっさに、もう一度ハンドワイヤーを伸ばした。今度は、掘り起こされた外灯の根元に絡みつかせ、ワイヤーの形状を戻すことで、真空刃から逃れた。またしても標的を逃した真空刃は、街灯の柱を切り刻んだ。
エヴァンはハンドワイヤーを完全には戻さなかった。地に足が着くや否や、コンクリートの塊に覆われたままの街灯の根元を、シェドに向けて投げたのだ。
シェドは鉄棒とコンクリートの塊を、造作もなく叩き落す。その一瞬の隙に、エヴェンは彼我との距離を詰めた。
パンチのラッシュを浴びせる。赤き鋼鉄の拳の連打が、風を切るほどのスピードをもって繰り出される。合間に蹴りを組み込みコンボで攻めた。
シェドはエヴァンの攻撃を、浮遊したまま軽々とかわした。うっすら笑みを浮かべ、最小限の動きでいなしている。
ブローをかわしたシェドは、エヴァンの頭上を飛び越えた。背後に回るや、長い袖を大きく振りかぶる。勢いよく突き出した袖の中から、幾本もの鎖が放たれ、エヴァンの両腕と首を捕らえた。
「ぐあっ!!」
喉が締め付けられ、呼吸が詰まる。鎖を外そうにも、両腕の自由が利かない。エヴァンはそのまま後方に引っ張られ、崩れかけの建物に投げつけられた。
今度は瞬時に受身を取り、体勢を戻す。その時、頭上に影が落ちた。見上げる空中に、シェドが浮いている。弾丸落下してきたシェドを横転で回避。シェドの着地地点は、大砲を喰らったかのように大きくめり込んだ。
地に埋まったシェドの顎を、炎を纏わせた〈イフリート〉のアッパーで狙う。しかし、直撃寸前、シェドは仰け反ってこれを避けた。
背を反らせた状態で、埋もれた片足を土ごと蹴り上げる。土と瓦礫に紛れたシェドの蹴りは、エヴァンの胸部にヒットした。
倒れずに踏みとどまったエヴァンに、追撃がかかる。正面、背後、左右から、蹴技と衝撃波が連続で仕掛けられた。シェドの動作は軽いながらも、あまりの速さに目で追うことが出来ない。白いつむじ風に取り囲まれたようだった。
一方的な攻撃に、エヴァンは防御し続けるしかなかった。だが、その防御も長く続かない。何度目かの衝撃波で、エヴァンは大きく弾き飛ばされた。
空中に放られたその時、地面に散らばった外灯の残骸である鉄棒が、エヴァンの視界に映った。瞬時に判断したエヴァンは、ハンドワイヤーを伸ばして鉄の破片を幾つか拾い上げた。
もう片手のハンドワイヤーを別の外灯に巻きつける。遠心力によって、エヴァンの身体は勢いよく半回転した。回転の間に〈イフリート〉の炎をハンドワイヤーに伝わらせ、先端の鉄片を燃え上がらせた。黄金色の熱の塊と化した鉄片を、シェドに向かって放つ。
凄まじいスピードで投げられた鉄片は、さしものシェドも避けきれず、頭と腕、脇腹に喰らった。
シェドはしかし、体勢を崩すことなく立っている。皮膚と髪が燃えたものの、虫を払うように顔や手を振ると、炎も傷も瞬く間に消えた。
外灯から地に降り立ったエヴァンは、ほとんどダメージを受けていないシェドを、歯がゆい思いで見た。
シェドは眉根を寄せ、肩をすくめてみせる。
「エヴァン、ぼくのいったこときいてた?〈イフリート〉じゃだめだって。ほんとうのちからでたたかわないと、ぼくをころせないんだよ。ちゃんとやってよ」
「うっせえっつーの!〈レーヴァティン〉は俺の力じゃねえ! あれはラグナだ、俺はラグナじゃない、だから違う!」
反論すると、シェドはあからさまに呆れた表情を見せ、まるで分からず屋の子どもに対するように、大袈裟なため息をついた。
「ラグナはきみにうえつけられたものだけど、〈レーヴァティン〉はそうじゃない。わからないの? きみのちからなのに。ラグナがじゃましてるからいけないんだ。ラグナなんかけしちゃえよ」
「黙ってろ、お前の指図は受けねえ」
「エヴァン。ラグナはただのふただよ。あいつらのことばはぜんぶうそだ。うそつきなんだ。きみをおもいどおりにしたかっただけ。そんなことできるわけないのにね」
「黙れ!」
「ぼくにできることはきみにもできること。はやくほんとうのきみをとりもどしてよ」
「黙れっつってんだろうが!!!」
エヴァンの中で、マグマのような激しい感情が湧き起こった。瞬間、空気が振動し、轟音とともに強烈な衝動波が発生した。建物の壁を震わせ、残っていた窓ガラスが割れ、設置物を弾き飛ばし、大地を揺るがし、木々を薙ぎ倒した。
衝動波はシェドに迫った。だが、彼の周囲には不可視の防壁が張り巡らされており、シェドは掠り傷ひとつ追わなかった。
やがて衝動波は治まったが、エヴァンの心臓は早鐘を打ち続けていた。肩で息をしながら、たった今起きた出来事に呆然と立ちすくむ。
嵐が直撃した後のような周囲の惨状に、我が目を疑った。
「何だよ、これ……俺が、……やったのか」
〈イフリート〉にこんな力があるはずがない。視線を落とすと、赤い鋼鉄の両腕がわなわなと震えていた。
「ほら、できた」
シェドはそう言って、嬉しそうに笑った。エヴァンは動揺を打ち消そうと、何度も首を横に振った。
「違う。これは俺の力じゃない」
「ちがわないよ。だって、いまのきみは、ちゃんとエヴァンじゃないか」
「そんなわけあるか!〈イフリート〉は近接特化型スペックだ! あんな技は無い!」
「スペックなんか、ぼくたちにはかんけいないよ。さあエヴァン、ほんとうのちからをとりもどして。つづきをやろう。どちらかがしぬまで」
シェドは無邪気な笑い声を上げ、自分自身を抱くように腕を胴に回した。
「ほんきになれないのなら、どうしようか。あとなんにんころしたらいい? ひゃくにんくらい? ごひゃくにんくらいだったら、すこしはおこる? おこったらほんきだしてくれる?」
「やめろ! 誰も巻き込むな!」
エヴァンの狼狽を見て、シェドはますます笑った。何もかもを弄んでいる。シェドにとっては、自分以外のすべてが、取るに足らないものなのだ。
端正な白面に、慈悲の欠片もない残酷な笑顔が広がる。
と、その表情が急に曇った。
シェドの目線が下に落ちる。エヴァンの視線もまた、同じところに注がれた。
シェドの痩せた胴体から、黒く光る物体が突き出ているのだ。
狂気の少年の腹を貫く物体が剣であると、エヴァンが認識した時。
黒く巨大な何かが、天よりシェドの背後に降り立った。




