TRACK-4 接触者 4
アパート前に見覚えのある黒いスポーツカーが停車していた。それが相棒の電動車であることに気づいたエヴァンは、何事だろうかと駆け寄った。レジーニがアパートまでわざわざ来ることなど、滅多にないのだ。
レジーニは運転席から降りて、助手席に回り込んでいるところだった。エヴァンに気づくと、指を曲げて「来い」と招く。
「よう、どうしたんだ。俺んちまで来るなんて、珍しいな」
「呼び出すところだったんだ。ちょうどいい。お前の姫君を連れて帰ってやれ」
相棒は助手席のドアを開け、車内に潜り込んだ。次に姿を見せた時、彼の両腕にはアルフォンセが抱かれていた。
「アル!?」
アルフォンセはぐったりとしていて、レジーニの胸に顔を埋めていた。
「ど、どうしたってんだよ! 何があったんだ!」
具合でも悪いのだろうか。彼女の顔を覗き込んで様子を伺うと、甘ったるい匂いが漂ってきた。頬はピンク色に染まり、眠るように目を閉じている。呼びかけると、寝起きの赤ん坊のような声を返した。
「ひょっとして、酔っ払ってる?」
「ひょっとしなくてもそうだ」
「お前がアルに酒飲ませたのかよ! 酔わせて変なことしよーとしてたんじゃねーだろーな!」
「馬鹿か、そんなことするか。シャンパン二、三杯飲んだだけだ。こんなに弱いとは思わなかったんだよ」
レジーニの弁解を右から左に聞き流したエヴァンは、彼の腕の中からアルフォンセを奪い返すべく手を伸ばした。
「アル、おいで。部屋まで連れて行くよ」
するとアルフォンセは、目を閉じたまま、エヴァンの手を払いのけた。
「やあだ。お兄ちゃんがいい」
子猫のような甘えた声を発し、レジーニの首に腕を巻きつけて離れようとしない。
「お、お、お、お……」
あまりの衝撃に、エヴァンは金魚のごとく口をぱくぱくさせ、アルフォンセとレジーニとを交互に見た。往来の目も憚らず、声帯を震わせる。
「お兄ちゃんなんかじゃないぞアルーっ! こいつはスケコマシなんだ! 騙されちゃだめだーーーっ!!」
「誰がスケコマシだ馬鹿猿」
「おおおおおお前っ! アルに“お兄ちゃん”なんて呼ばせやがって! ど、ど、ど、どういうプレイを強要したんだテメエ! そもそもなんで二人が一緒にいるんだよ!」
心が乱れまくるエヴァンに対し、レジーニは極めて冷静に対応する。
「ただ食事をしただけだ。そのくらい問題ないだろう。どけ、“妹”のご指名だ。僕が部屋に連れて行く」
「妹って呼ぶなあああああッ!!」
エヴァンの絶叫を完全に無視するレジーニは、アルフォンセを抱えて、さっさとアパートに向かった。
アルフォンセの部屋へ続く道中、彼女はレジーニにぴたりとくっついたままだった。彼を本当の兄だと思い込んでいるのか、甘えるように小声で何か話している。レジーニは、そんなアルフォンセに調子を合わせて、優しく受け答えていた。
美男子にお姫様抱っこされた美女。悔しいほど様になっている。必然的に彼らの前を歩いているエヴァンは、心のハンカチを噛むのだった。
アルフォンセのバッグから部屋のキーを拝借し、鍵を開けた。レジーニは寝室に直行し、抱きついているアルフォンセを、そっとベッドに寝かせた。横になった途端、眠気がピークに達したらしい。アルフォンセはそのまま眠ってしまった。
小さな寝息を立てるアルフォンセに、ブランケットを被せてやったレジーニは、カメムシを噛み潰したような表情で睨むエヴァンを、冷ややかに睨み返した。
「そんな顔するな、不細工だぞ。仕方ないじゃないか、このくらい水に流せよ」
「お兄ちゃんってどういうことだよ、このスケベ眼鏡」
「意中の相手の居場所を鼻で当てる変態にスケベ呼ばわりされたくない。僕が兄さんに似ているんだとさ。話し方や仕草がね。小さい頃はお兄ちゃん子だったそうだ。別にいいだろ、恋人とは違うんだから」
なんともない風に肩をすくめるレジーニである。だが、なんとなく勝ち誇っているように見えるのは、おそらく気のせいではない。
アルフォンセの兄は、十年前の〈パンデミック〉で夭折した。ごくたまに亡き兄の話をしてくれるが、その話しぶりから、とても慕っていたのだろうことが感じられたのはたしかだ。
その兄の面影を、レジーニに重ねていたのだろう。掻き乱されていたエヴァンの心は、少し落ち着きを取り戻した。
レンズ越しの相棒の碧眼が、やや棘を含めてエヴァンを見据える。
「今朝のアルは、今のお前と同じ気持ちだったんだということを忘れるな」
レジーニはエヴァンの脇を通り抜け、玄関ドアに向かう。まだ何か言い足りていないような素振りを見せながらも、相棒はそのまま出て行った。
残されたエヴァンは、ベッドの側に腰を下ろし、安らかに眠るアルフォンセを見つめた。
桃色に頬を染めたまま、規則正しい呼吸に合わせて、細い肩が動いている。目にかかる髪を、指先そっと払ってやる。
「酒、苦手だからあんまり飲まないって言ってたのに」
ついさっき相棒に突きつけられた言葉が、胸の内で渦を巻いていた。
「君に酒を飲ませたのは、俺なのか?」
澱のように心にたまった苦いものを、拭い去ろうとしたのだろうか。そんなにまで思いつめさせていたのか。申し訳ない気持ちと、そこまで想ってくれていたのかという喜びがない交ぜになる。
レジーニへの嫉妬心は失せ、アルフォンセへの想いだけが満ちていった。
しばし、可憐な寝顔に見蕩れる。すると徐々に、けしからぬ衝動が湧き上がってきた。
無防備な姿で眠っているアルフォンセからは、抗いきれない引力のような色香が漂ってくる。
エヴァンは中腰になり、アルフォンセに覆いかぶさるようにして、ベッドに手をついた。
(だめだ。こんなことよくない)
眠っているのをいいことに、欲情に身を任せるなどあってはならない。良心は必死にそう訴えている。まだアルフォンセからは、今朝の醜態の許しも得ていないのに。だが――。
ぎし、とスプリングが鳴く。その音が行為を連想させ、脳を乱す。
ふっくらとして艶やかな唇は薄く開いており、官能を刺激する。
いけないと心では分かっていても、彼女から発せられる吸引力には勝てなかった。
ゆっくりと顔を近づける。呼吸が混ざり合う。体温が肌に伝わる。鼻と鼻がかすかに触れ合う。
二つの唇が――。
重なり合う寸前、アルフォンセが寝返りをうった。はっと我に返ったエヴァンは、大慌てでベッドから離れた。
「何やってんだよ……俺。最低じゃん」
自己嫌悪に陥り、己を罵る。深く息を吐き、エヴァンの暴挙を知らないまま眠り続けるアルフォンセを見つめた。
「ほんと、俺って最低だ」
どんなに悲しませたか、どんなに傷つけたか。いつもどんなに心配をかけているか。
本当の意味では分かっていない。
本人ではないから、察してあげることしか出来ない。それをひとたび怠れば、独りよがりの自己満足で終わってしまう。
「甘えてるばっかりだ、ずっと」
乱れたブランケットをかけ直してやり、エヴァンはベッドの側から静かに離れた。
「ごめんな、アル。おやすみ」
明日、ちゃんと話をしよう。
寝室を一度だけ振り返ってから明かりを消し、エヴァンは部屋を出て行った。
翌朝、〈パープルヘイズ〉に向かう前、アルフォンセの部屋を訪ねた。だが、何度玄関ベルを鳴らしても、彼女は出てこなかった。まだ眠っているのだろうか。今日は図書館の休館日ではないはずだが。それとも、もう出勤したのかもしれない。
仕方なく、アルフォンセの携帯端末にメールを送った。
『話がしたい。今夜会ってほしい』
もう曖昧なままの関係はやめにしよう。アルフォンセを誰にも渡したくない。
今日、答えを出そう。




