TRACK-4 接触者 3
上品な笑い声と、その背後で奏でられる弦楽四重奏。オレンジ色の照明の下、料理を運ぶウェイターたち。一等席にいる夫婦らしき熟年の男女に、料理長が挨拶をしている。
中世の屋敷をモチーフにしたこのレストラン〈クラモワージ〉は、名のある料理評論家より五つ星の評価を付けられた名店で、予約がなかなか取れないことでも知られていた。
魚料理のあと、口直しの白桃のソルベに舌鼓を打ち、アルフォンセは改めて店内を見渡した。
「クラモワージで食事ができるなんて、なんだか夢みたいです」
「そうかい。まあ、“一度は行ってみたい店”に、必ずと言っていいほど、名前は挙がるけどね」
少女のように瞳をきらめかせるアルフォンセに、レジーニは穏やかに笑ってみせた。
アンダータウンでの用を終えたのは、夕食にちょうどいい頃合だった。どこかで食事をしよう、ということになり、選んだのが〈クラモワージ〉だった。
予約なしでは難しいのではないか、とアルフォンセは懸念したが、そこはレジーニの秘密のつてを駆使して、問題なく入店を果たした。
アルフォンセは普段、店の階級などには頓着しないのだろうが、こういった洒落た雰囲気の店に対する憧れも多少抱いているあたり、ごく普通の女の子と変わりがない。危険な裏社会に片足踏み入れているとはいえ、彼女は一般人と大差ない立場なのだ。
朗らかに笑いながら食事を楽しむアルフォンセを見て、レジーニは少し安心した。ローに依頼していた品物とおいしい料理で、凝り固まっていた心がほぐれたようだ。
「レジーニさんもしかして、こういうこと、よくするんですか?」
アルフォンセはいたずらっぽく笑う。
「こういうことって?」
「女の子とのデート。特別な人は特別なお店に連れて行って、口説くのかなーって」
「そうだな。よく使う手でもないけど、特別な人だというなら、今がまさにそうだね」
アルフォンセの表情がきょとんとなったので、レジーニは小さく吹き出した。
「友人、という意味さ。何も君を口説くつもりはないよ」
言葉を添えると、アルフォンセは少しほっとしたように、笑顔を取り戻した。
「こんな店、あいつは選んだりしないだろう?」
「エヴァンですか?」
「そう。五つ星レストランなんて柄じゃない。いくらここでさえドレスコードがないといっても、ある程度服装やマナーに気を遣わなけりゃならないような店、あのエヴァンが選ぶとは思えない。連れて行って欲しい、なんて、君も言わないんだろう?」
「それはいいんです。お店なんてどこでも。ここはとっても素敵ですし、来てみたいとは思ってましたけど、彼が美味しいと思って連れて行ってくれるなら、どこでもいいんです」
思ったとおりの答えに、レジーニは苦笑した。まったく、ここまで互いを理解していながら、どうして先に進まないのだろうか、この二人は。
「アル。君は今、エヴァンと行った店とこことを比べているだろう? 双方の違いの中に、君はエヴァンらしさを見出しているはずだ。五つ星レストランと下町の定食屋。有名評論家のお墨付きより、あいつが好きな店を君は選ぶ。違うかい?」
アルフォンセは頬を朱に染めて俯き、かすかに頷いた。
「君さえねだれば、あいつはどこへだって君を連れて行くだろうさ。だけど、あいつがこんな格式高いレストランにいたとしても、そこではあいつは“らしさ”を出せず、店の雰囲気に負けてしまう。君はそれが嫌なんだ」
「もう。あんまり心を読まないでください」
アルフォンセは、拗ねたように眉根を寄せる。
「それだけ君は、あの馬鹿の本質に惹かれているってことさ。見た目や建前ではなく、根っこの部分にね。それはあいつだって同じだ。君たちは互いに充分信頼し合っているし、それはおそらく、ちょっとやそっとじゃ揺らぐことのない絆になっているはずだ。第三者である僕ですら、ここまで理解してるんだぜ。そんなに心配しなくていい」
やれやれ、恋愛相談まがいなことをするはめになるとは。こんな話をしている自分に、レジーニは皮肉めいた笑みを浮かべた。
猿の相棒など無視して構わないのだが、アルフォンセはとなると、放っておけなくなる。だからこれは、彼女のためだけの恋愛相談だ。
「ありがとう。レジーニさんと話すと、なんだかほっとします」
「へえ?」
「兄に似てるんです、どことなく。雰囲気や話し方が」
「なるほど、兄貴か。ま、それも悪くないね」
レジーニが肩をすくめると、アルフォンセは頬を緩ませるのだった。
彼女から兄のように想われているのなら、こちらも妹のように見ているから、これは都合がいい。友人であり、兄妹のような関係。いい落ち着き場所だ。
決して誰にも言うつもりはないが、ほんの一時期、アルフォンセを女性として愛そうかと思っていたことがある。
彼女と出会ったのは、まだ最愛の恋人を失った過去を引きずっていた頃のことだ。癒しきれていない傷から目を背け、長い間抱えた痛みを偽り続けていた。そんな時に、柔らかく大きな愛をもって接してくれる女性と出会ってしまえば、男として心惹かれるのは当然の流れである。
もしもアルフォンセが、エヴァンだけに注ぐ愛を、わずかにでもこちらに向けることがあったなら、その時はなりふり構わず口説き落とそうとしたかもしれない。
そうならなかったのは、アルフォンセの心が傾く隙を見出せなかったからだ。
隙だらけに見えるが、彼女の愛情は一途である。その一途さに、レジーニは結果的には救われたのだ。おかげで関係をこじらせることなく、良き友として、こうして二人で食事を楽しむことが出来ている。それに。
相棒に恨まれたくもない。
「そういうわけで、僕からのアドバイスは以上だ。あとは二人で何とかしなさい」
「はい、ありがとうございました」
レジーニのおどけた口調に合わせて、アルフォンセはちょこりと頭を下げるのだった。
これでひとまずはいいだろうか。ここから先は口出しする必要はない。
メインの肉料理、牛頬肉の煮込みが運ばれてきて、会話は一旦途切れた。しばらくすると、アルフォンセの食事の手が止まった。表情が曇っている。恋の悩みとは違う何かがまだあるようだと、レジーニは察した。
「まだ、何かあるのかい?」
問いかけると、アルフォンセはナイフとフォークを置き、顔を上げた。
「話しておいた方がいいと思うことが、ひとつあるんです。エヴァンのことなんですが」
「何だ?」
どう切り出すべきか、言葉を探しているらしい。目線をやや泳がせつつ、ゆっくりと話し始めた。
「この前、定期メンテナンスしたんですけど、その時、変なプログラムを見つけたんです」
「変なプログラム?」
「ええ。パスワード入力が必要で、簡単には触れられないようになってました。おそらく、私では扱いきれないような」
「つまり、ブラックボックスだと?」
こくり、とアルフォンセは頷く。
「これまで何度も彼のステータスを見てきましたが、そんなプログラムはどこにもなかったんです。それが、先日のメンテの時に見つかって……まるで突然現れたみたいに」
「プログラムが出現した原因は分からないのか」
もう一度、アルフォンセは頷いた。表情は晴れず、恋に悩まされている時とは違う不安に苛まれているようだった。
「なんだか、怖いんです。プログラムがいきなり現れた原因は分からないし、もしパスワードが判明してプログラムが起動したら、彼、どうなっちゃうんだろうって」
そのブラックボックスは、おそらくエヴァンのもう一つの人格「ラグナ・ラルス」に関わるものに違いない。だとしたら、下手に封印を解けば、事態がよくない方向に転がっていくことは明白だ。
アルフォンセはまだ、エヴァンの別人格の存在すら知らない。このまま知らずにいられれば、それに越したことはないが、果たしてそれはいつまで通用するだろう。
「心配するな。触れられないものに無理して触れることはないさ。変にいじって、馬鹿が更に馬鹿になったら、君だって困るだろう? 何も出来ないうちは、考えなくてもいい」
「そうでしょうか?」
「そうさ。馬鹿猿のために、これ以上心を砕く必要はない。気分を変えて、ワインでも飲まないか」
レジーニはメニュー表をパラパラとめくった。
「あの、私、お酒苦手なんです」
「そうだったか。でも、まったく飲めないということはないだろう。甘口のシャンパンなら、ジュース感覚で飲めるよ。たまには付き合ってくれ」
食い下がってみると、アルフォンセは意外にも首を縦に振った。やはり不安なのだろう。多少アルコールの力を借りてでも、その不安を除去したいと思ったのかもしれない。
「じゃあ、ちょっとだけ。でも、レジーニさん、車の運転はどうするんですか?」
「自動運転という便利な機能が標準装備なのさ、昨今の車というのは。君は猿にさえ甘えられないというのに、人類は文明に甘やかされている」
にやりと笑うと、アルフォンセは再び笑顔を取り戻した。




