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TRACK-4 接触者 1

 本を一冊、手に取って棚に戻し、溜め息をつく。

 本をもう一冊、手に取って棚に戻し、唇をすぼめて溜め息をつく。

 さっきからこの繰り返しである。返却された書籍を戻す作業は、難しいことでも体力の消耗が激しいことでもない。ごく簡単な業務だ。いつもなら手早くこなしているものである。

 ところが今日のアルフォンセは、動きが緩慢だった。頭の中と胸の内、その両方が曇っていて、何をするにも上の空だ。

 ――しっかりしなきゃ。

 深呼吸して、最後の一冊を棚に差し込む。積荷のなくなったワゴンを押し、廊下に出た。

 自分を叱咤するものの、気を抜くと脳裏に今朝の光景が蘇ってくる。

 パンケーキを作って持っていったのは、昨日のことが気になっていたからだ。せっかく友達を紹介してくれたのに早く帰ってしまったことを詫びつつ、さりげなく彼女たちのことを聞いてみようと思ったのだ。しかし。

 ドアが開くと、あられもない姿の女性が三人、好きな男の部屋にいた。たとえただの友達、昔の仲間だからといえども、見ていて気分のいい光景ではない。

 長旅に疲れただろう彼女たちを思いやって泊めたのだ、という弁解は、理解できなくもない。彼の優しさあっての行動なのだろう。 

 ――でも。

 納得できない。したくない。彼の部屋に、女の子がいるのは、嫌だ。それもあんな姿で。ドミニクがなまめかしい素肌に直接纏っていたのは、明らかに男物のカットソーだった。

 しかし、エヴァンを責める権限は、アルフォンセにはない。自分でも思わず口にしてしまったように、付き合っているわけではない――恋人同士ではないのだから。

 私のものだとは、言えないのだから。

 ああそれにしても、と、今日何度目だか分からない溜め息を吐いた。自分がこんなに嫉妬深くて、器の狭い人間だったとは思わなかった。どうしてあんな心にもないことを言ってしまったのだろう。

 付き合ったら束縛してしまうタイプなのかもしれない。もしそんな一面が現れて、鬱陶しがられるようになったらどうしよう。

 いくつもの悩みが小さく渦巻き、それぞれを巻き込んで大きな渦潮になる。

 歩みを止め、壁に寄りかかり、悩み事で重くなった頭をもたせかけた。

 すると、

「ちょっと、どうしたのよこんな所で」

 耳によくなじんだ声が、前方から聞こえてきた。顔を上げると、思ったとおり、シェリー・マクファーレが腰に手を当てて立っていた。

 同僚はワゴン越しにアルフォンセの顔を覗き込んだ。俯き加減のアルフォンセを、両手で頬を挟んで上に向かせる。

「朝から元気がないと思ってたけど、まだそんな顔してるの? 一体何があったのよ」

「ん……シェリー、私そんなに変な顔なの?」

「自覚がないみたいだから言わせてもらいますけどね。あなたが悩んでる時の顔というのは、そりゃもう保護欲をくすぐるものなわけよ。いつも以上に男連中の視線を集めてるのに気づかない?」

「え? え?」

 言われて周囲を見回す。廊下には図書館利用客が数人歩いているだけだった。

「どういうこと?」

 そんなにじろじろ見られていたとは気づかなかった。よほどおかしな表情をしていたのだろう。四六時中陰鬱な溜め息ばかりついていては、それも当然か。

 シェリーは呆れた様子で、大袈裟に肩をすくめた。

「気づいてないならそれでいいわ。そういう鈍いところがあるから、面白くて好きよ」

「そ、そう? ありがと」

「まあ、それはそうとして。あなたにそんな顔させる奴は、一人しかいないわね。どうせピアス男でしょ。今度は何があったの。また襲い掛かってきた? 下着盗まれた? 脱ぎたてのストッキングよこせとでも迫られた?」

「そ、そんなことしないわよ!」

 シェリーはいつまでたっても、エヴァンを“ピアス男”と呼ぶ。しかも、やや変態扱いしている嫌いがある。

 シェリーは快活に笑い、ごめんごめんと手を振った。

「でも、原因が彼にあるのは間違いないんでしょ? もう、母親とはぐれた子猫みたいな目しないでよ、押し倒したくなっちゃうじゃない」

 彼女の冗談は、時々冗談に聞こえない。

「話ならいくらでも聞くわよ。夕食、一緒にどう? 美味しいお店見つけたのよ」

 同僚の気遣いが嬉しく、アルフォンセは柔らかく微笑む。だが、首は横に振った。

「ありがとう。でも、今日は先約があるの。また今度でいい?」

「先約? やだ、なんだかんだで上手くいってるってわけね、ピアス男とは」

「ううん、違うわ。ずっと前に話したことがあったと思うけど、レジーニさんっていう」

 名前を口にした途端、シェリーの瞳がきらきらと輝いた。おもちゃの新しい遊び方を発見した、子どものような眼差しだ。 

「レジーニって人、たしかピアス男の友達だったっけ? すごい美形だっていう?」

 ゴシップ好きな同僚は、きゃあと黄色い歓声を上げて、アルフォンセの両肩に手を置いた。

「男二人の間で揺れ動いてるのね! すいぶん積極的になってきたじゃないの! いいわよいいわよ! どんどんオンナを開発していくのよ!」

「ち・が・い・ま・す」


        *


 皿を一枚、手に取って棚に戻し、呻くように溜め息をつく。

 皿をもう一枚、手に取って棚に戻し、ウシガエルの如く溜め息をつく。

 三枚目の皿を取り、魂が抜け出るのではないかというほど長い息を吐いていると、頭頂部に重く鈍い塊が落ちてきた。痛みのあまり、皿を落としそうになるも、どうにか割らずに済んだ。じんじん痛むつむじを、そっとさすって労わる。

ってえよヴォルフ! 皿落とすとこだったじゃねえか!」

「やかましい! いつまでもいつまでも湿気た溜め息ばっかついてんじゃねえ! 店にカビが生えちまわあ!」

 ヴォルフは“鬱陶しい”というジェスチャーを、大袈裟にしてみせた。

自分テメエの迂闊さが招いたこったろうが。一日溜め息つく労力を、名誉挽回の気力に回せボケナス」

 店主の態度はあくまでも厳しい。

 今朝の修羅場を、エヴァンはヴォルフに話して聞かせたのである。語り終えるやヴォルフは、馬鹿野郎と簡潔に罵っただけで、年長者らしいアドバイスなど何もくれなかった。

 問題のドミニクたち三人は、今頃街のどこかを歩き回っているだろう。街を案内しろと言い出すかと思ったが、そういった要望はなかった。

「アルの立場になって考えてみりゃ、怒るのァ当たり前だ。平手の一つや二つ、もらったっておかしくねェ。甘えんな馬鹿猿」

「分かってる、分かってるって」

 エヴァンは腕を振り、ヴォルフのお小言を払いのけた。

「分かってんなら、とっとと片付けて仕込み手伝え」

「へいへい」

 厨房に入っていく大きな背中に、エヴァンはおざなりな答えを返す。

 ヴォルフの言うとおりだ。あんな光景を見せられたら、いくら優しいアルフォンセでも怒るだろう。逆に、彼女の部屋に知らない男が上がりこんでいたら、そいつをぶちのめすだろう。

 配慮に欠けていた。

 自己嫌悪に陥りながら、残りの皿を棚に収める。最後の一枚を片付けた時、店のドアチャイムが鳴った。

「いらっしゃい」

 ドアの方に顔を向け、来店客に声をかけた。

 

 壮年の男である。やや長めの髪はアッシュグレー。眉はくっきりと弧を描き、その下の目は黒い。表情は柔和な方だが、目尻と口元に刻まれたしわが、どこか哀愁を漂わせている。

 エヴァンは無意識に、壮年の来店客を見つめていた。相手もまた、こちらをじっと見ている。

 

 男は静かに近づき、カウンターに片手を乗せた。

「アイスコーヒーを一つ、テイクアウトで頼む」

 低いがよく通る声で、彼はオーダーした。エヴァンははっとして目をしばたたかせ、電子レジスタを操作した。テイクアウト用コーヒーの価格が画面表示される。男がリーダーに携帯端末エレフォンをかざすと、料金が引き落とされた。

 注文品を用意する間、エヴァンはちらちらと男を見た。どこか見覚えのある顔である。

 ロゼットと出会った時と同じ感覚だ。またデジャ・ヴが起きたのだろうか。それとも、街のどこかで見かけただけなのかもしれない。

 面識があるのかどうか尋ねてみよう、そう思って口を開いたが、相手の方が早かった。

「君は、ここで働いて長いのかい?」

「ああ……、そう、だな。一年くらいなるかな」

 向こうから問いかけられるとは思わなかったので、少しつっかえながら答えた。

「そうか。仕事はこれだけ・・・・なのか」

「え?」

「飲食店スタッフの収入はたかが知れている。君のような若い人なら、遊ぶために高収入を求めるものなのではないか、とね。ただの偏見だ、気にしないでくれ」

「別に気にしちゃいねえけど。金には困ってねえし」

 別に本業を抱えているなどと、当然言えるわけがない。男の奇妙な質問を訝しく思ったが、態度には出さず、アイスコーヒーのテイクアウトカップを手渡した。

「おまたせ。ミルクとシロップは自由に取っていいぜ」

 カウンターの端に置いてある、ミルクポーションとシロップのバスケットを指差す。男はミルクポーションを一つだけ入れ、ストローを挿さずに、飲み口から直接飲んだ。

「いい味だ。どうもありがとう」

 事務的な礼を述べると、男は来た時と同じように、静かに出て行った。

 男が去っていった後を、エヴァンは呆然と見つめる。結局、面識があったのかどうか訊けずじまいだった。

 だが、何かが胸の中で引っかかっている。

 ふと視線を落とし、右手を見る。



(手……)

 手を。

(誰かが)

 引いた。

 大きな。

(手が)


 ――おいで。


 白い明かり、

 

 ――怖くないよ。


 どこかへ、


 ――すぐに終わるから。


 ずきり。

 首の後ろが疼いた。手を当てる。そこには接続孔が。

 


 押し寄せる衝動に突き動かされ、エヴァンは駆け出した。体当たりするようにドアを開け、外に躍り出る。

「待ってくれ! あんた一体……」

 彼の姿を求め、四方を見回した。しかし、片手にアイスコーヒーを持った男は、もうどこにもいなかった。

 心臓がかすかに戦慄わななく。エヴァンの中で、小さいながらもたしかなシグナルが点滅していた。

 根拠はない。確信もない。けれど否定もできない。

 あの男とは面識がある。


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