TRACK-3 寄らばかしまし 3
気を利かせたのだろうか、レジーニは席を一つずらし、エヴァンの隣を空けてくれた。彼の好意に甘え、アルフォンセは素直にその席に座った。
何か飲むかい、とヴォルフが尋ねたので、アイスベリーティーを頼んだ。この店のベリーティーは、芳醇な香りで甘みがあり、アルフォンセのお気に入りである。
「今日、メメントの出没現場で会ったんだ。全員マキニアンなんだぜ」
エヴァンの表情は、嬉しそうだった。昔の仲間のマキニアンということは、〈SALUT〉時代からの付き合い、十年振りの再会ということになる。懐かしい面々に出会えて嬉しいのは当然だ。
ドミニクの肩越しに、黒髪の少女ユイが顔を覗かせた。好奇心旺盛そうな橙色の瞳をきらめかせて、アルフォンセを見つめている。
「ねえ、あなたがエヴァンの未来のお嫁さん?」
「えっ?」
「まだ付き合ってないって聞いたけど、お付き合いしないの?」
「バカっ、いきなり何言ってんだお前は!」
エヴァンはカウンターに身を乗り出し、ユイの額を指で小突いた。
「そういうデリケートなことは、口にしないのが世のルールってもんだろ」
「えー? だって気になるじゃないか」
「気になっても駄目、オトナの問題にコドモが首突っ込むんじゃねえの」
「お前も子どもと変わりがありませんけどね」
口を挟んだのはドミニクだ。
「落ち着きのなさが小猿みたいなのは、昔とまったく変わってないじゃありませんか」
「お前なあ。アルの前でそういうことバラすのやめろよな」
エヴァンは人差し指をドミニクに突きつける。しかしドミニクはすました顔で、その指を払いのけた。
「結婚を前提にお付き合いをするのでしたら、アルフォンセさん、この男がいかに幼稚で頭が悪いかよくお知りになった方がいいですよ」
「は、はあ」
アルフォンセは、曖昧な返事をするしかなかった。
ドミニクは、十年前の〈パンデミック〉のあと、辿って来た道のりを語って聞かせた。
〈パンデミック〉勃発当時、ドミニクは幼いユイとロゼットを連れていた。他の仲間たちとは離れ離れになり、そのまま三人で現地を脱出したのだそうだ。
「この子たちには親兄弟がおらず、私はマキニアンとなる以前の経歴を抹消されていましたから、当然行くあてなどありません。とにかく軍部の追跡から逃れることだけを考えました」
軍部の追撃を振り切るのに、数年を費やしたという。しかし彼女たちは、その後も一つ所に留まらず、大陸中を点々と渡り歩いた。行く先々で出没するメメントを倒しつつ、アルバイトなどで生計を立てながら。
元・軍部の精鋭部隊であった自分が、民間人に混ざってアルバイトをしている、などという現実は、ドミニクのプライドを揺るがすものではなかった。彼女にとって大切だったのは「生き延びること」であり、ユイとロゼットを養うことであった。
「この子たちはマキニアンですが、〈SALUT〉の規律や精神に囚われたことがありません。せめてこの子たちには、普通の女の子のような幸せを……と」
「母は強し、ってやつだな」
ヴォルフはまぶしそうに目を細めた。顔に比べて小さな目が、ますます小さくなる。
「母親代わりってこった。子どもを守ると決めた女は、誰よりも強い。男の肉体的な強さなんざ、母性の前じゃ、それこそ赤ん坊みてェなもんさ」
「ドミニクはボクとロージーに構いすぎなんだよ」
ユイは、少し不満げに唇を尖らせた。
「よちよち歩きの子どもじゃないんだからさ。もうちょっと放置してくれてもいいんだよ」
これに答えたのはドミニクではなかった。
「あんたを放置してたら、何しでかすか分からない」
ぼそりと控えめに、それでいて鋭い棘をロゼットが放つ。
「ロージー、それどういう意味さ」
「そのままの意味」
「それってボクが無鉄砲みたいじゃないか」
「“みたい”じゃなくて“そう”なの」
「あのねえ」
不服申し立てしようとしたユイを、ドミニクが制した。
「やめなさいユイ。ロゼットもです。はしたないですよ」
「だってさあ」
「だってじゃありません」
「私、関係ない」
ドミニクたち三人の賑やかなやりとりに、エヴァンが笑い声を上げた。
「なんだよお前ら。本当に姉妹みたいじゃん」
「そうだよ。ボクたち十年も一緒に、三人だけでやってきたんだから、もう家族も同然だよ」
ユイは、口の両端を思いきり持ち上げて笑い、ドミニクとロゼットの腕に自分の腕を絡めた。憎まれ口を叩きあいながらも寄り添う姿は、仲睦まじい姉妹そのものである。
「でもさ、ドミニクが姉ちゃんだと、いろいろ大変だろ。口はうるさいし手は出るし、寝起きは機嫌が悪いし」
「ね、寝起き!?」
アルフォンセは思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、慌てて口を片手で押さえた。飲下したばかりのベリーティーにむせる寸前だった。全員の視線が自分に向けられ、アルフォンセは赤面して肩を縮こまらせた。
隣から、空気が漏れるような音がかすかに聴こえてきたが、それはレジーニの溜め息だろうか。
「アル、どした?」
きょとんとした表情のエヴァンが、アルフォンセの顔を覗き込む。
「ど、どうもしないわ。ただその、えっと、寝起きっていうことは、つまりあの」
懸命に言葉を紡ごうとするも、なかなかうまくいかず、しどろもどろになってしまう。アルフォンセの心臓は、ジェットコースターを目の前にした時さながらに、どくどくと早鐘を打っていた。
寝起きといっても、朝のとは限らないわ。アルフォンセは自らに言い聞かせる。お昼寝の可能性だってあるじゃない。もし朝のことだったとしても、起こしにいっただけのことかもしれないし。
自然と浮かんでくる嫌な想像を、超高速回転する思考によって打ち消そうとしているアルフォンセである。そんな葛藤が繰り広げられていることなど知らないエヴァンは、へらへらと笑いながら、ドミニクの肩に手を置いた。
瞬間アルフォンセは、胸に細い針が刺さったような感覚を覚えた。
「そうそう、こいつ寝起きの機嫌がすげえ悪いんだ。せっかく起こしてやってんのに殴るんだぜ?」
ドミニクは眉間に、薄いしわを作る。
「お前はいつの頃の話をしているの。アルフォンセさん、真に受けないでくださいね。この男は、十歳かそこらの時の話を、いつまでも昨日のことのように話す、精神的老人なのです」
「なんだよ精神的老人って! こんなピチピチした若々しいイケメンボディに失礼な」
「ドミニクは今でも寝起き悪いよ!」
嬉々としてユイが一言添えた。
「ほら見ろ、ぜんぜん変わってねえんじゃんか。同じ寮だった俺の苦労知らねえだろ」
「お前が私に手を焼いた以上に、私はお前に手を焼いたんですッ。記憶が曖昧だと言ったくせに、どうしてそんなどうでもいいことは覚えてるの」
ドミニクは、肩に置かれたエヴァンの手を払い落とし、お返しとばかりに彼の肩を平手で打った。ぱあん、と乾いた小気味よい音が立つ。
「痛ってえなオイ! お前の印象が強烈だったからじゃね?」
「あらそう? 初めての手合わせの時、私に思い切り投げられておでこを擦り剥いて、わんわん泣いてたどこかの僕ちゃんよりはましでしょう」
「そういうことをみんなの前で言うなよ! そもそもな……」
エヴァンとドミニクは向き合い、昔話に花を咲かせた。エヴァンの背中越しに聞こえてくるのは、アルフォンセの知らない過去のエピソード。自分と出会う前のエヴァンの話は、現実味のない夢語りのように思えた。
――私の知らない、彼。
出会ってから、ほんの一年程度である。それ以前のエヴァンは、十年間も眠っていたのだ。エヴァン・ファブレルについて、アルフォンセが知っていることと知らないことの比率が、“知らないこと”の方に傾いているのは当然だった。
――私の知らない彼を、あの女性は知ってる。
エヴァンの背中の向こうで、艶やかな茶色い髪を揺らして、ドミニクが笑っている。気心の知れた相手に見せる、信頼感と安心に満ちた朗らかな笑顔。
ドミニクは美しい。豊穣の大地にすっくと一本、気高く咲き誇る薔薇のようだ。そんな彼女を柔らかに微笑ませている人も、きっと笑顔なのだろう。
――その話、聞きたいな。
――あなたの小さい頃の話、聞きたいな。
背中ではなく、顔を見て聞きたい。
胸を苛む小さな針が、少しずつ増えていく。ぴりぴりきりりと、針は深く埋もれていこうとしている。
アルフォンセは、残ったベリーティーを一気に飲み干し、小さな溜め息をついた。
そっと手を動かして、パーカーとジーンズの間から覗くエヴァンの脇腹を、ちょっとだけつねる。
「ん?」
異変に気づいたエヴァンは、やっとこちらに顔を向けた。
「アル、今俺に何かした?」
「ううん、何も。私、そろそろ帰るわね」
言うが早いか、アルフォンセはそそくさと席を立った。
「え、もう帰るのか? じゃあ送ってくよ」
エヴァンの申し出は、胸に埋もれた針の痛みが和らげ、光を射し込んでくれた。しかしアルフォンセは、立ち上がりかけた彼を留め、首を横に振るのだった。
「いいのよ、アパートは遠くないもの。一人で帰れるわ。せっかく会えたんだから、ドミニクさんたちと一緒にいてあげて」
「けど」
「大丈夫だってば。みなさん、会えてよかったです。お先に失礼します」
ドミニク、ユイ、ロゼットに声をかけた後、アルフォンセはヴォルフに会釈した。
「ヴォルフさん、ベリーティーごちそうさまでした」
「ん? ああ……」
ヴォルフはもの言いたげに眉をひそめ、片手で顎をさすりながら、アルフォンセを見つめ返した。だが、結局何も言わなかった。
「それなら、僕が送ろう」
レジーニは席を立ち、一堂を見渡した。驚いたのはアルフォンセだ。まさかレジーニが「送る」と言ってくれるとは思わなかったのだ。
レジーニの立候補には、エヴァンにとっても意外だったらしい。椅子から腰を浮かせ、相棒を見上げる。
「ちょっと待て。お前が行くくらいなら俺が行くっての」
「いいからお前は、残って彼女たちの相手をしてやれ。お前の友人なのに、お前が抜けてどうする」
なおも言い募ろうとするエヴァンを、レジーニは黙らせた。彼はヴォルフやドミニクたちに暇を告げ、アルフォンセを促して店をあとにした。
日没の遅い夏の夕暮れ、時刻は七時を回っている。太陽は、摩天楼に覆われて見えない地平線に触れて、天を濃紺とオレンジのグラデーションに染め上げていた。一日の役目を終えた太陽が投げる光を受けた街並みには、濃い影がかかっている。
レジーニはさりげなく道路側を歩いており、速度もアルフォンセの足に合わせてくれていた。彼の気遣いに感謝しながらも、アルフォンセの心はまだざわついている。
本当は送ってほしかったくせに、と、自分を戒め溜め息をひとつつく。送らなくてもいい、と口にはしたものの、それが本心でないことくらい自覚していた。
「隣にいるのが僕で悪かったね」
やや意地悪な口調で、レジーニが言った。アルフォンセは慌てて首を振る。
「いいえ、ごめんなさい、送ってくださってるのに、こんな……」
「いいさ。分かってる」
細いフレームの眼鏡の奥で、碧の双眸がやんわりと笑う。
「今日は大目に見てやれ。十年振りの再会なんだ。相手がたまたま異性だった、それだけの話だよ」
「はい。あ、いえ、私はその」
レジーニに胸の内を見透かされたようで、アルフォンセは気が気ではない。だが、いくらごまかそうとしても、この男にかかっては無駄な努力に終わるだろう。
「会わせたい人がいると呼び出されて行ってみれば、知らない女性が三人も。そのうちの一人は幼なじみで、子どもの頃から知り尽くしている。呼び出しておきながら、自分をそっちのけにして昔話で盛り上がられちゃ、そりゃあ面白くないに決まってる」
押し殺した本音は、レジーニの口を通して吐き出された。ずばりと言い当てられることほど、恥ずかしいものはない。アルフォンセは頬を染めて俯いた。だが、レジーニを恨む気はない。彼の発言が、悪意を込めてしたものではないと分かるからだ。
胸の内に秘め、発散させることなく無理に消化させようとしていた想いを、彼が代わりに処理してくれたのだ。
「私は、心が狭いですね」
「そんなことはないさ。むしろ聞き分けが良すぎる。君はもう少しわがままになってもいい」
「わがままじゃないですか?」
「まだまだ足りないね」
そんなものなのだろうか。
アルフォンセは、男性ときちんと付き合ったことがない。当然のことながら、同い年の女性ならすでに経験済みであろう、男女の様々な営みについても、ほぼ無知である。駆け引きなど論外だ。男性と交際を始めるにあたって、一体どんな段階を踏めばいいのか、皆目見当もつかないのである。
エヴァンの気持ちを知りながら、自身の経験不足のために一歩を踏み出せずにいるのは、わがままだからではないのだろうか。
「たとえ友人だろうが、自分を放ったままなのは許せない。黙ってこっちを見ろ。くらいの勢いがあったっていいほどだよ」
「そ、そんなこと出来ません」
「だろうね」
レジーニは、ちょっとだけ苦笑した。それから、ひと呼吸ほど間を空けると、こんなことを言い出した。
「アル、明日の夜、君の仕事が終わってから、気晴らしに僕とデートでもするかい?」
「ええっ?」
これほど予想外の発言があろうか。アルフォンセは深海色の目をいっぱいに開いて、隣の彼を見上げた。
レジーニはいたずらめいた蟲惑的な微笑を、アルフォンセに向けていた。




