TRACK-3 寄らばかしまし 1
強く抱き締められているために、ドミニクの豊満な胸が、エヴァンの胸に押しつけられている。しかし、姉弟同然に育ってきた彼女と密着状態にあって、邪な思いは微塵も湧いてこなかった。
十年振りに懐かしい人に会えた。これ以上の喜びはない。
いまやドミニクは、実質エヴァンより十歳年上になってしまった、ということになる。細胞置換というテクノロジーによるものなのか、マキニアンは押しなべて、外見老化速度が遅い。それゆえ、ドミニクは三十代前半であるはずだが、まだ二十代半ばか後半くらいの若々しさを保っていた。
しばらく抱擁していると、横で咳払いが聴こえた。レジーニだ。
「お取り込み中申し訳ないが、このホールドアップは解いてもいいのかな?」
何気なく口にしているが、声色にはたっぷりと厭味が含まれている。エヴァンとドミニクは慌てて離れた。
「すみません、どうぞ楽に」
ドミニクの許可が下って、レジーニはやれやれと腕を降ろした。
「レジーニ、こいつドミニクっていって、俺の同期兵なんだ。ドミニク、こっちは俺の相棒のレジーニ」
エヴァンは二人の間に立ち、それぞれを紹介した。レジーニとドミニクは礼儀正しく握手を交わす。
「どうも。エヴァンの同期兵というのなら、君もマキニアンか?」
レジーニの問いに、ドミニクは頷いた。
「ええ。とは言っても、彼は弟のようなものです。相棒だそうですが、ご迷惑をかけてはいませんか?」
「かけられっ放しで、もう当たり前になってしまってるよ」
「そうでしょうね、お察ししますわ」
昔を思い出したのだろうか、ドミニクは藍色の目を細めて微笑んだ。レジーニとドミニクの間に、一瞬にして何らかの絆が結ばれたのを、エヴァンは察知した。
「おいそこ二人、なんか暗黙のうちに共感し合ってねーか」
「そうかい?」
「気のせいでしょう」
二人そろって、軽く受け流すのであった。
「ところで」
と、レジーニは、ドミニクの背後を指差す。
「あそこの彼女たちも、そろそろ呼んであげた方がいいんじゃないかな」
振り返ると、崩れた壁の向こうから、誰かが顔を出していた。どうやら若い女性のようである。
ドミニクは慌てて、彼女たちに手招きをした。
「そうでした。来なさい、二人とも」
ドミニクの呼び声に応えて壁際から姿を見せたのは、二人の少女だった。歳は十六、七くらいだろうか。
一人は黒髪のショートヘアで、ジャージにスパッツという、スポーティな格好だった。ドミニクに呼ばれるや、物怖じすることなく、軽快な駆け足で近づいてくる。
もう一人は色素の薄い長髪の美しい少女だった。白いシャツと青いベスト、紺のプリーツスカートという、女子学生のような出で立ちの少女は、恥ずかしそうに俯きながら、静々と寄ってきた。
「あの子が、ここで強いメメントの気配を感じたというので立ち寄ったのです。入ってみれば雑魚しかいなかったので、駆除はすぐに済みましたが、あなたたちがやって来たので、隠れて様子を見ていました」
ドミニクは、長髪の少女を示しながら説明した。その少女を見た瞬間、エヴァンはあっと声を上げた。
「君、この前の」
マリーの誕生日パーティーの夜、アパートに帰る途中でメメントを倒した時に、エヴァンを「ラグナ」と呼び、姿を消した少女その人だったのだ。
「ドミニクの連れだったのか」
近づこうとすると、少女は黒髪の子の背後に隠れた。黒髪の子は、彼女とエヴァンを、興味深げに見比べる。
「ロージーが言ってたことは本当だったんだね。本当にラグナがいたんだ」
黒髪の子はエヴァンを恐れず、大きな橙色の瞳で見上げた。その瞳に、エヴァンはまたしても既視感を覚えた。
「この前の夜、変な気配がした先でラグナを見たってロージーが言ってたんだけど、ボクもドミニクもすぐには信じなかったんだ。まさかこんな所に彼がいるはずない、ってね」
朗らかに言うと黒髪の子は、背後に隠れた少女を、肩越しに見やった。
「なあ、君たち、俺と会ったことある? なんで俺の、その、昔の名前知ってんの?」
その疑問には、ドミニクが答えた。ドミニクは少女たちの傍らに経ち、一人ひとりを示す。
「覚えていませんか、エヴァン。この子はユイ、そしてこっちはロゼットですよ」
「ユイ?」
エヴァンが片眉を吊り上げると、黒髪の子は笑って頷き、
「ロゼット?」
後ろの少女はちらりと顔を見せ、またすぐに隠れた。
名前を聞くや、一瞬にして、虚ろな記憶に光が射した。脳裏に、幼い二人の女の子の姿が蘇る。
「この子たちも知り合いか?」
尋ねるレジー二に、エヴァンは満面の笑みを向けた。
「ああ、覚えてるよ! シェン=ユイ、ロゼット・エルガー。二人が子どもの頃に会ってる」
弄られた記憶の中で、わずかに残された思い出の中には、幼かった二人の少女がたしかに存在した。
「ということは、この子たちもマキニアンなのか」
「〈SALUT〉メンバー候補生だったんだ。ちっちゃい時に細胞置換を受けた、次世代型マキニアンだって言われてた。こんなに大きくなって」
少女たちとは、それなりに会話を重ねた仲だった。妹のような彼女たちの、成長した姿を改めて眺めるエヴァンの胸中には、表現しがたい様々な思いが湧いてくるのだった。
初めて顔を合わせたのは、彼女たちが四つか五つくらいの頃だっただろうか。将来正式な〈SALUT〉メンバーとして迎え入れることになる、と紹介され、かなり驚かされたものだった。
「十年前のあの出来事から今日まで、私たちは三人で大陸を旅してきました」
と、ドミニク。
「行く先々でメメントを倒しつつ、仲間と、そして安住の地を求めて。でも、マキニアンには出会えなかった。私たち以外のマキニアンは、あなたが初めてよ、エヴァン。凍結睡眠を施されたとは聞いていましたが、あの事故のさなかにあっては、生きて再び会うことは絶望的だと思ってました。目覚めていたなんて、それに本当のあなたに戻ってくれていたなんて」
すっと伸びた彼女の手が、エヴァンの頬に触れる。
「お前は全然変わってないのですね。私たちは十年分、歳をとったというのに」
ドミニクの双眸は、わずかながらにも潤んでいた。懐かしい顔ぶれにめぐり合えて、エヴァンも泣きたいくらいだ。が、再会に喜びの涙を流す前に、聞き捨てならない点を確認しなければならない。
「ドミニク、ちょっと待て。本当の俺って? 昔の俺はラグナって奴で、今の俺は記憶を弄られた結果なんだぜ。そりゃあラグナの時と比べれば、性格がかなり違うだろうよ。おまけに俺にはラグナだった頃の記憶がほとんど無いし。お前らのことは覚えてたけど、消された記憶の方が多くてさ」
するとドミニクは、目を丸くして首を傾げた。
「何を言っているのです。お前は昔からエヴァン・ファブレルですよ。ラグナ・ラルスという人格の方こそ、あとから上書きされたものではありませんか。そんなことも記憶から消されたのですか?」
「え?」
予想していたのとは違うドミニクの言葉に、今度はエヴァンが目を丸くしなければならなかった。
開いた口が塞がらないエヴァンに代わり、レジーニがドミニクに問うた。
「ドミニク。エヴァンは、凍結睡眠から目覚めた時に、以前とは別人になるよう人格矯正と記憶の改竄が施されていた。ラグナ・ラルスを恐れた政府保守派の差し金でそうなったと聞いている。今ここにいるエヴァン・ファブレルという男は、記憶と人格を操作されて生まれた人物である、というのが僕らの認識だ。そうじゃないのか?」
ドミニクはレジーニの言葉を真剣な眼差しで受け止め、そして首を横に振った。
「いいえ、違います。エヴァンはエヴァンです。性格も昔のまま、私が彼と出会った子どもの頃と変わりません。ラグナ・ラルスという人格を植えつけられてからは、すっかり別人になってしまって、私ともこの子たちとも関わることはなくなりましたが」
黒髪のユイが、ドミニクに同調して頷く。
「そうだよ。ボクとロージーが初めて会った時のエヴァンは、すごく優しくて面白い人だった。けど、しばらく経ってから再会した時には、もう違う人になってた。すごく冷たい、機械みたいな目をしてた。今のエヴァンは、昔の優しいエヴァンだって分かるよ」
「俺は、俺なのか? “本当の俺”は、ラグナじゃなくて、俺なんだな?」
声が震えそうになるのを抑え、エヴァンはドミニクに言った。幼なじみは、しっかりと頷いてくれた。
「そっか、俺は、俺なんだ……そっか」
呟いて目を閉じ、深く息を吐く。
誰にも――レジーニにもヴォルフにも、アルフォンセにも打ち明けていなかったが、胸の奥底にずっと不安を抱えていたのだった。
ラグナという人格こそが、本来の自身の姿である――それは認めたくないことだった。大量破壊を目的に能力強化され、ただ冷徹に任務を遂行するだけの存在だったなどと、考えただけでもぞっとする。
本当の自分を仲間に知られるのが嫌だった。
レジーニやヴォルフは受け入れてくれただろう。だが、アルフォンセにだけは知られたくなかった。
昔の姿を知られて、アルフォンセに恐れられ、拒絶されるのだけは耐えられない。
そんな恐怖を、今まで潜ませていた。
(俺は、俺だ)
事実を噛み締め、エヴァンはもう一度深呼吸した。
何気なく相棒に視線を送る。慰めや同調が欲しかったわけではない。しかしレジーニは、普段の厳しい眼差しを和らげて、わずかにではあるが頷いてくれるのだった。
「本来のあなたがラグナだと思い込むようにされていた、と言うことでしょうか?」
ドミニクは怪訝な顔つきで、顎に指を当てた。
「いや、俺も聞かされた話だったから、そうなんだろうと思ってたんだ。今の俺が上書きされた方の人格だって」
「聞かされた? 一体誰に?」
ドミニクの疑問は当然のものだが、答えるのはためらわれた。その間違った情報をもたらしたのはかつての仲間であり、エヴァンとの死闘の末、生死も行方も不明なのだから。
だが隠しているわけにもいかず、エヴァンは渋々ながら口を開いた。
「サイファーだよ。サイファー・キドナ。覚えてるだろ?」
瞬間、ドミニクの表情が固まった。藍色の双眸をいっぱいに開き、穴が開くほどエヴァンを見つめる。
「サイファー……ですって? 彼に会ったの? いつ、どこで?」
「えっと、それは話すと長いんだけどさ。急にどうしたんだ、ドミニク」
幼なじみの反応は、他の仲間も生きていたと知っての驚き、とは、どこか違うように思えた。動揺している。
ドミニクはしかし、平静を取り戻し、少し笑ってみせた。
「どう、というわけではありません。ただ、無事だった仲間がいたのかと、それだけです」
「そうか? まあ、だけどその、無事かどうかは、なんて言うか」
「私たち、お互いに話すことがたくさんありますね」
「だな」
かたや十年間眠らされて、かたや十年間放浪し続けていた者同士である。話したいこと聞きたいことが山と積まれているのは、当然であった。
レジーニが、中指で眼鏡を押し上げて言った。
「それなら、場所を変えよう。どの道ここにはもう用はないんだ」
メメントも、解体する作業員もいなくなった廃ビルを去る際。ロゼット・エルガー一人だけが、一度きり足を止めて振り返った。
もはやネズミ一匹すら動く気配のない建物を、悩ましげに見上げて、ロゼットは呟く。
「終わってないわ。去っただけ」
そよと吹く風に、豊かな髪がなびいた。
「私が感じた気配は、あんなものじゃなかった」




