TRACK-2 変異の系譜 3
その古い雑居ビルは、ジャングルの大木の如く建ち並ぶ高層ビルに囲まれ、ぽつんと時代に取り残されていた。
築三十数年、十階建の物件だ。リフォームもままならず、結局買い手がつかなかったこの建物は、先週取り壊しが決定した。
午前八時過ぎに、解体業者が雑居ビルを訪れた。小太りな主任を先頭にして、四人の従業員が建物内を見て回り、解体工程を確認していった。相手は一昔前のデザインの古いビルである。作業自体は難しくない。だが、周囲を他の高層ビルに囲まれているので、慎重さを欠いてはいけない。
一通りの確認が終了し、一行は、解体用重機とともに外で待機する残りの仲間たちのもとへの帰路についた。
と、小太りな主任は足を止めた。視界の端で、妙なものを捉えたからだ。彼は、崩れかけた壁の向こう、光が当たらない薄暗い奥の部屋を凝視した。つい今しがた、あちらのほうで白い影が動いたような気がしたのである。
「主任、どうしました?」
部下の一人が声をかけた。
「いやな、さっき、人影のようなものを見た気がしたんだ」
見たままを正直に口にすると、部下たちが苦笑いした。
「こんな所に我々以外の人間がいますか。もしかして主任が見たのは、幽霊ってやつなのでは?」
主任は真面目な顔つきで首を振る。
「何を馬鹿な。幽霊などいるわけがないだろう。俺の気のせいならいいが、もし近所の悪ガキが入り込んでいたら危険だ。確かめてくる」
心霊の世界など信じない彼は、決然とした足取りで奥へ向かう。
「主任、三十分後に作業開始ですよ」
「分かっているさ。お前たちは先に下へ降りてろ」
「お化けがいたら、ぜひ写真に収めてくださいね」
部下のからかいに、雑に手を振って答え、彼は歩を進めた。
長いこと人間の手が入らず、打ち捨てられた雑居ビルは、瓦礫と埃と雑草で埋め尽くされていた。
風雨に晒され砕かれたガラス片が床に散らばり、射し込む日光を反射してちらちらと光る。同じく、射し込む光に照らされた埃が、海中のプランクトンのように浮いている。
作業主任はガラス片や瓦礫を踏みしめ、鼻をくすぐる塵に辟易しつつ、白い影の行方を追った。
「おーい、誰かいるのか。いるなら出ておいで」
陽の当たらない、暗い壁の向こうに隠れているかもしれない何者かに向けて、声をかける。
「ここはもうじき取り壊される。中にいては危ない。いたずらはやめて出て来るんだ」
すると、安全ヘルメットを被った後頭部に、何かがこつんと当たった。小石か何かを当てられたようだ。振り返るとそこには、白い人物が立っていた。
なぜ“白い人物”なのか。それは、着ている衣服から、肌、そして髪までも、あらゆる部分が白いからであった。
身長は百六十センチ程度だろうか。佇まいから、まだ子どもだと察せられた。おそらくは少年だ。髪は年寄りのように白くぼさぼさで、伸ばしっぱなしの前髪に両目が隠れている。
変わった衣服を身に付けていた。上着は短く、腹部が露になっている。肩の開いた袖は、足首に届かんばかりに長く、腕が見えない。膝丈のぴったりとしたズボンと、脹脛を覆うロングブーツを履いている。そして、上着、袖、ズボンにブーツ、すべてに黒いベルトや硬質の留め具のような装飾が付いていた。
何より異様なのは、服に負けじと白い肌と、ちゃんと栄養を摂取できているのか心配になるほど痩せた身体ことだ。むき出しの肩や腹、膝の肉が薄い。育ち盛りの年頃の子がこんなにガリガリだとは。作業主任の脳裏に、厭な想像が浮かんできた。
「君、こんな所で何をしてるんだね。勝手に入っちゃいかん。さあ、こっちにおいで。一緒に外へ出よう」
白い少年を刺激しないよう、なるべく優しい口調で話しかける。
少年は、一瞬とまどいを見せたが、ゆっくりと歩み寄ってきた。近づくと、少年の白肌には、いくつもの細かな傷痕が、うっすらと残っているのが分かった。
更に、両の頬には、亀裂のような酷い傷が刻まれていた。
やはり、と作業主任は確信する。この子は虐待を受けているのだろう。満足に食べさせてもらえず、痩せ細ったうえに、こんな痛ましい傷までつけられて。近い年頃の子どもを二人持つ身として、少年の親に対し嫌悪感と怒りを覚えた。
「そんなに痩せて、かわいそうに。腹は減ってないか? ハンバーガーは好きかい?」
同情を禁じえない主任は、少年に気遣いの言葉をかけた。
近づいてきた少年は、彼を見上げた。目を前髪に隠したまま、口の端を持ち上げてにこりと笑い、長い袖に覆われた右腕を差し伸べる。
主任はほっと胸を撫で下ろして、少年の手を取ろうとした。
垂れ下がっていた少年の長い袖が、ゆっくりと起き上がった。まるで彼の腕が伸びているかのように。
「な、なんだ?」
少年の袖口から、鈍く光る銀色の物体が出現した。それは、少年の胴体ほどもありそうな大きさの、
「は……鋏?」
誰しもが日常的に使用する鋏そのものである。大の大人でも抱えられるかどうか、というほど巨大な鋏を、骨と皮ばかりの少年は片腕で軽々と持ち、無造作に前に突き出した。
じゃきん、という音とともに、作業主任の首が太い胴体から離れた。真っ赤な水飛沫がスプリンクラーのように噴き上がる。
おびただしい量の鮮血が、朽ち果てた室内の四方八方に飛散し、瞬く間に赤い部屋へと変貌させた。
血の雨は少年にも降り注ぐが、しかし彼はいささかも濡れていなかった。目に見えない膜が彼の周りを覆い、赤い雨から保護しているのだ。
首を失った作業主任の胴体は、落ちた首を探すように両手を伸ばし、びくびくと痙攣しながら数歩歩いた。そして最期に背をのけぞらせて倒れ、二度と動くことはなかった。
少年は右腕を横に払う。巨大鋏にねっとりと付着した血液が壁に飛び散り、どす黒い一直線を描いた。
巨大鋏が縮み、袖の中に収まっていった。少年は死体を静かに見下ろし、自らが無惨に斬り落とした首を、片足で無造作に転がした。
すると、奥の暗がりから、低く太い唸り声が聴こえてきた。餓えた獣か、地の底から這い出てくる亡者の如き恐音が、部屋の片隅に滞った闇の中から発せられている。
少年は口元に嘲笑を浮かべ、爪先で弄んでいた生首を、唸り声のする闇に向けて蹴った。
赤い飛沫を捲きながら転がっていった首は、闇の手前で止まった。次の瞬間、毛むくじゃらの巨大な腕が伸び、生首を鷲掴みにすると、闇の中に消えた。
間もなく、その闇から音がし始める。ガリガリ。ゴリゴリ。ビチャッ。ズルリ。
正常な精神の人間であれば、あの闇で何が起きているのかを悟った瞬間、あまりのおぞましさと恐怖で我を失いかねない。しかし白い少年は、ほんのわずかにも動揺しなかった。
少年は闇への興味を放り投げ、首を失った胴体の側にしゃがみこんだ。死体の着衣をまさぐり、何かを探す。
ベストのポケットの中からチョコレートバーを見つけると、口元を綻ばせて包みを開けてかぶりついた。唇や顎をチョコレートまみれにしながら完食すると、再び死体の持ち物を漁った。
食料はなかったが、棒状通信機を見つけた。しげしげと観察していると、レシーバーの先端が緑色に光り、ゴマ粒のようなちいさなスピーカーから、男の声が聞こえた。
『主任、聞こえますか。あと十分で開始時間ですよ。お化け探しはやめて戻ってきてください』
少年の口がにんまりと開く。唇を持ち上げて歯を見せ、愉快そうに笑う口は、下弦の月にも似ていた。
少年はレシーバーのマイクを、顔に近づけた。
抑揚のない、淡々とした口調で、通信相手に話しかける。
「すまない。足をくじいてしまった。誰か来てくれないか」
少年の喉から発せられた声は、今しがた彼が惨殺した人物のものであった。
レジーバーの先端が緑に光る。
『ええっ? 大丈夫ですか? 分かりました、すぐに行きますから、待っていてください』
通信は、そこで終了する。
白い少年はレシーバーを投げ捨て、首なし死体の腕を片手で掴み、苦もなく奥へと引きずり込んでいった。




