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INTRO

 アトランヴィル第九区サウンドベルの飲食店〈パープルヘイズ〉は、午前九時に開店する。

 仕込みは万端。本日のランチメニューは、牛頬肉のビーフシチューだ。

 グラスはピカピカに磨き上げられ、窓から射し込む日光を反射し、クリスタルのように輝いていた。

 店内は、挽きたてのコーヒー豆の良い香りに包まれている。各テーブルのミルクポットとシュガーケースの中身を確認して、減っているようならば足す。

 掃除も抜かりない。店主自ら隅々まで掃除した後、自動清掃機オートクリーナーをかけて、細かな塵を除去している。

 客を迎える準備が完璧に整ったのを見ると、熊のような風貌の店主――ヴォルフ・グラジオスは、満足気に一人頷いた。

 スクリーンシャッターが解除され、入り口に掲げた電子看板が「OPEN」の表示を刻む。数分経って、本日最初の客がやって来た。近所の顔馴染みである。いつものようにコーヒーのテイクアウトをオーダーし、昨日のデーゲームの勝敗がどうのこうのと、他愛のない話をして帰っていった。

 そのすぐ後に、別の顔馴染みが来店した。その客は窓際のテーブルで、モーニングセットを黙々と食べる。

 それから立て続けに十人程度の客がやって来た。全員近所に住むご贔屓客だ。彼らは皆、いつもと同じオーダーをし、ヴォルフと世間話をして帰っていく。彼らの相手をしているうちに、窓際の客も、モーニングセットを平らげて出て行った。

 忙しくなる昼時までは、こんな調子で馴染み客とのやり取りが繰り返される。毎日ほぼ変わらない顔ぶれとオーダー、世間話。

 変化はないが、飽きることのないこのひと時を、ヴォルフは大切にしている。彼が本来身を置いている“世界”とは決して交わらない、平和で温かな光景だからだ。

 平凡で、ごく当たり前ながら、無くしてはいけない大事なものである。



 ひととおり朝の恒例事項が終わり、店内がヴォルフ一人になった頃、カラン、とドアベルが鳴った。

「いらっしゃい」

 ヴォルフはグラスを磨きながら顔を上げ、来店した人物に声をかけた。

 来店者は小柄な老人であった。初めて見る顔だ。このあたりに住む人間じゃない、と、ヴォルフは思った。長年、闇に生きる猛者もさたちの相手をしてきた彼が、経験によって培ってきた勘である。

 長い白髪を後ろで束ねた老人は、仕立てのいいシャツにループタイを巻き、濃いブラウンのベストとスラックスを着て、本牛革の靴を履いていた。地味ながらも品質のいい服を纏っていることから、富裕層の人間であることが察せられる。

 老人は、不機嫌そうな顔つきでヴォルフを一瞥すると、彼の正面のカウンターに着席した。

 店内に他の客はいない。どこに座るも自由だが、何を好んでこの席を選んだのか。

 ヴォルフの勘がざわめく。盗み目で老人を観察する。どう見ても堅気の人間だ。こちら側・・・・とは無縁であろう。

 だが、漂わせる静謐な空気の中には、少量のスパイスにも似た鋭さが隠れているように感じられた。口に含んだ瞬間は分からないが、喉を過ぎればその存在感を発揮する。

 ヴォルフは老人に対し、警戒心を強めた。 

「何にするね」

 オーダーを訊くと、老人は店内に書かれたメニューを見て、

「エスプレッソを」

 と、静かに答えた。

 しばらくして、老人の前にエスプレッソのカップが置かれた。老人はカップを取り、香りを楽しんでから、一口二口喉に通した。

「あんた、ここらへんの人間じゃあないな」

 ヴォルフが言うと、老人はカップをソーサーに置き、ゆっくり頷いた。

「うむ。こちらへは、今日初めて足を運んだ。我が家はホーンフィールドにある」

「ほう、ホーンフィールドかい。てことは、いいとこのご隠居さんってわけか」

 ホーンフィールドは同じ第九区の地域で、イーストバレーの先にある閑静な高級住宅地区である。開発途上のエリアで、奥の方へ進むと、未開拓の土地がまだ残されている。そこには、地名の由来でもある、角のように尖った奇岩が点在しており、ちょっとした観光名所になっていた。

「いや、まだ隠居はしていないよ。これでも現役のワーズワース大学教授だ」

 と、老人は首を振る。

「へえ、何の専門だい」

「生物学を。もっと正確に言えば、生態学だがね」

「生態学ってやつは、食物連鎖とか、そういうもんかい」

「そうだ。平たく言えば、生物と環境が相互に与える影響と作用を研究する分野だよ。例えば」

 老人はエスプレッソで喉を湿らせてから、話を続けた。


「とある乾いた平原に、数日降り続けた雨によって、大きな水溜りが出来たとする。そこに渡り鳥が水を求めて飛来した。鳥の体に付着した植物性プランクトンが、水を飲んでいるうちに水溜りに落ちていく。

 プランクトンは光合成によって有機物を生産し、酸素を排出する。風に飛ばされてきた植物の種が発芽し、植物を食べる昆虫もやって来た。すると、その昆虫の捕食者――カエルやクモも集まってくる。更にその上の捕食者であるヘビや鳥も棲みつく。

 植物を求めてノウサギが訪れれば、それを捕食するワシも現れる。捕食者の食べ残しである死骸は、やがて土中の微生物によって、二酸化炭素、窒素塩などの無機物に分解され、その無機物は植物の養分となり、植物は再び有機物を生産する。

 生物が生きるための環境が整えば、そこに必ず生態系が生まれる。生物と生物、生物と環境。この世界のありとあらゆる自然物は、互いに密接に関係していて、絶妙なバランスで支え合い、一つの巨大な循環系を形成しているのだ」


 カップの中身がなくなった。エスプレッソは、老人の言葉の養分になったのだろうか。彼の話は止まらない。


「もう一つ例を挙げよう。その昔、ある島国では、オオカミによる家畜の捕食被害が相次ぎ、深刻な問題になっていた。人間は家畜を守るために、オオカミを駆除してしまった。だが、オオカミが人里に降りて家畜を襲った理由は、人間による森林伐採が原因で、オオカミの生活環境に変化を生じさせてしまったから、と考えることが出来る。

 人間の飼い犬から、狂犬病がオオカミに伝染し蔓延した、との説もあるが、どの説をとっても人間が絡んでいるのだ。結果、その島国のオオカミは絶滅してしまった。

 森林間食物連鎖の頂点に立つオオカミが死に絶えてしまうと、果たしてどうなるだろう。天敵のいなくなったイノシシやシカが繁殖し、森にあふれかえる。餌が減ってしまい、イノシシやシカたちは、オオカミに代わって人里に降り、農作物を食い荒らすようになる。生態系の崩壊だ。

 人間が自分たちの生活域をわきまえていれば、生態系は保たれていたのだ。オオカミが絶滅することもなかった。海外のオオカミ種を導入し、生態系を復活させる試みもあったが、うまくいかなかった。クローン技術での復元も試されたようだが、よい結果にはならなかったようだ。絶滅した生物は、二度と戻らないのだよ。生態系のほんの一部を壊してしまっただけで、すべてが崩壊する」


 老人の講義を聞き、ヴォルフは関心をもって頷いた。

「なるほどな。人間は今や、全生物の頂点に立っている。その人間こそが、種を滅ぼす要因だってわけか」

 皮肉を込めて鼻で笑うと、老人もまた、口の端を歪めた。

「そうだな、これまではそう考えられてきた。これなでは、な」

 含みのある老人の物言いに、ヴォルフは片眉を上げる。老人は鋭い眼差しで、ヴォルフを見上げた。


「仮に、人類の上に立つ存在が現れたとして、それこそが人類を滅ぼしうるものであるとしたならば、君はその存在を信じるかね?」


「人類の上に立つ? なんだそりゃ、神様ってオチか?」

「いや、どちらかというと、悪魔だろうね。

 かつて人間よりも前に、そして長い長い期間、この地上を支配していた種があった。恐竜だ。全地上に繁栄していた大型生物である恐竜が、なぜ滅びたのか。様々な説がある。

 最も有名なのは『隕石衝突説』だが、『伝染病蔓延説』もあるのだ。もしもこの伝染病が、絶滅の本当の原因であったとしたら、つまり、こういう結論が出る。

『種を滅ぼしうるものは、必ずしもより大きなものではなく、目に見えるものでもない』と」

「ウイルスってことか、人類の上に立つ存在ってえのは」

「ウイルスであれば、顕微鏡で確認することが可能だ。私が言いたいのは、顕微鏡ですら捉えることの出来ないモノのことだよ。目に見えず、肌にも触れず、ひそやかに、だが確実に。“それ”は人間を含む、あらゆる生物の体内に入り込み、身体組織を変化させ、まったく別の生命体に変えてしまう。そんな恐ろしいモノが、この世に存在するとしたら、君は……信じるかね?」

 老人の眼差しは鋭さを増していた。ヴォルフは喉の奥で唸る。

 信じるも何も、老人が言って聞かせたような存在に該当するものを、ヴォルフは知っているのである。

 確かに今、この世界には不可思議なモノが存在している。“それ”は目視出来ず、故に触れられもしない、未知なるモノだ。だが確実に存在し、闇の中で蠢きながら、人類を脅かしつつある。

“それ”の存在を知る者は、の世界にいない。闇を渡り歩く仕事人たちによって、秘密裏に片付けられているからだ。

 そしてヴォルフは、彼らのような仕事人――裏稼業者バックワーカーたちに“仕事”を斡旋している。これこそ、ヴォルフの本来の役目であった。

 ヴォルフが堅気の人間でないことが他人に知られてしまうのは、それほど大した問題ではない。

 ここで注視するべきは、目の前の老人が、“それ”の存在を知っているという事実だ。ひょっとしたら同業者なのか。いや、やはりそうは思えない。

 老人の問いかけに、ヴォルフはすぐには答えなかった。彼の目的が何であるかを見極めずに、こちらの持ちカードを明かすわけにはいかない。

「じいさん、生物実験でもしすぎたんじゃねェのか。そのSFみてェな設定使って、論文じゃなく小説でも書いてみちゃあどうだい」

店主マスター、私は真面目な話をしている。私がつい今しがた語ったことは、現実に起きているのだよ。君には分かるはずだ」

「さあ、分からねェな。俺は教養がェからよ、あまり難しいこたァ考えられねェ」

「私が何も知らずにここへ来たと思うかね、店主マスター

 老人は一歩も引かない。姿勢は変わらないのに、ぐいぐいと押してくるような気配を感じる。

「長い間、君のような人種を捜していたよ。“奴等”の存在を知り、尚且つ裏社会のあらゆる事情に精通する稀有な人物を、私はずっと捜していた。表社会のやり方ではどうしようもない。今、私に必要なのは、君らのような人々だ」

「何しにここへ来た。お偉い大学講師様が、俺に一体何の用だ」

 老人の瞳が、きらりと光った。

「君に仕事を頼みたい。実に奇妙な仕事だ。それはいつ始まるか分からず、また、いつ終わるかも分からない。困難ではあるが、報酬はきっちり払う。それに必要があれば、出来る限り協力しよう。私の持つ人脈コネを活用してもかまわない」

 炯々たる老人の瞳は、蝋燭の灯火ほどにも揺らぐことはなかった。枯れようとしつつある肉体に、命を懸けてもかまわぬという、鋼の覚悟を忍ばせている。

 その、老人の覚悟を汲み取ったヴォルフは、こう返さずにはいられなかった。

「何をしろと?」


「怪物を探し出してくれ。人間から変じた、巨躯の怪物を」


 五年前、ヴォルフ・グラジオスと生物学者シーモア・オズモントは、このようにして出会った。


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