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帰り夢

作者: 高沢りえ

コバルト短編選外の作品です

 夢を見る。

 このところ、毎晩のようにおなじ夢だ。

 灰色の雲に覆われた空を、沙世はただ見上げている。日の光がさえぎられた、不気味な空を炎がなめている。建物も人も容赦なく飲み込もうと火の手を伸ばしてくる。

 おそろしいのに、逃げられない。うずくまり、耳をふさいで、ただじっとしていることしかできなかった。

 体が、重い。どうして動かないのかと、首を巡らし後ろを向くと、沙世の体におおいかぶさるように、黒い人影のような何かがはりついている。

 苦悶、怒り、恐怖。きざまれた表情はどれもおぞましくも悲しいもので、胸をつく痛みに沙世は息をのんだ。

「こっちだ」

 はっとした。声のするほうに、せいいっぱい手を伸ばすと、強い力で引き上げられた。泥にはまったかのように自由にならなかった体が、ふいに軽くなった。

 よろけながらも何とか立ち上がると、ひかれるままに、沙世は走り出した。どれくらい走ったろう。とうとう息が切れ、立ち止まった。

 目の奥まで焦がしそうな夕日が、沈もうとしているところだった。

「よくついてきたね」

 ふり返ったその子は、まぶしげに目を細めていた。

「あの・・・・・・」

 沙世とそう背丈も変わらない男の子は、気安くほほえんだ。

「さあ」

 彼が差し出した手の中に、赤く光るちいさな石があった。

「これは、かぎだよ」

 沙世はつばを飲み込んだ。

 ふれたらやけどをしそうだった。まるでちいさな炎だ。

「さわってごらん」

 ためらいすらも観察されている、そんな気がしておちつかない。丸をぐにゃりと引き延ばし、先端をとがらせた、不思議な形のそれを、あと少しでつかめると思ったとき。

 ふいに石は手からはじかれたように飛び上がった。

 そして、空高くのぼっていき、ついには輝く星になった。ほかの輝きをさしおいて、ひときわ強い光を放っていた赤い星は、やがてまたたくのをやめ、鮮やかな色さえも失って、ほかの欠片のなかにまぎれてしまった。

 気づくと沙世は、一人で立ちつくしていた。さびしさと、おそれがふくれあがる。

「待って。ひとりに、しないで」 

 沙世は、叫んだ。

「おれと一緒に祭りをみるって約束も、忘れてるんだろう」

 智彦はため息をはいた。

 野の道は長雨のあとにきゅうに伸び出した草花でにぎやかだ。土手に生えた草を踏みながら、沙世は幼なじみの背中をおいかけた。川面のきらめきがまぶしい。

 畑仕事をする顔見知りに、手を振る。頭上の木の枝がしなったかと思うと、鳥が高い声で鳴いて、青い空を斜めに飛んでいくところだった。

 生まれ育ったこの村が、沙世は好きだった。

 景色も、ここに暮らすみんなも大好きだ。

 春は川の土手に植わった桜が、桃色の雲のように見える。

 夏はふいの夕立に身を打たせるのも楽しいし、ひぐらしがさかんに鳴くのに聞き入るのもいい。

 そうして秋には、みんなで収穫を祝うのだ。

 一年でもっともにぎやかになるのが、夏祭りの夜だった。村の守り神、龍神の八重垣さんを慰め、うやまい、秋の豊作と恵みをたのむのだ。

「おまえが巫女役だなんて、本当につとまるのか?」

「つとまるに決まってるでしょ」

 真っ黒にやけた智彦の顔を、沙世はちらりと見やった。

「見よう見まねの舞を、神さんが喜ぶかな」

 沙世はじっと見下ろされて、なんだか落ち着かなくなった。

「そ、そりゃ上手とはいえないかもしれないけど。こういうのは、気持ちでしょ」

 二人でこうしてゆっくり話す機会など、しばらくぶりだった。

「気持ちねえ」

 智彦は肩をすくめた。

 押し黙ったまま、二人はしばらく川べりの道を歩いた。丹塗りのはげた鳥居が見える。

 苔むした細い石畳のむこうは、うっそうと茂る木々が光をさえぎり、昼間でも暗い。智彦は鳥居の前で一礼した。沙世も智彦のとなりに並び頭を下げた。

「せいいっぱいお勤めしますので、どうぞよろしくお願いします。これでよし、と」

「なにが、これでよしだよ」

 ほかにも言いたいことがありそうな顔で、智彦はじっと沙世をみつめていた。落ち着かなくて、沙世は目をそらした。

「なあ、祭りの夜は、ごちそうもたくさんでるのを忘れてるだろ。神社にこもってたら、ぜんぶ食べそこねるぞ」

 はっとして、沙世は声を上げた。

「・・・・・・忘れてた! どうしよう」

 深いため息とともに、智彦はつぶやいた。

「知るか」

 ひぐらしが鳴く。西の空に細い雲がたなびいて、しかしそれも吹く風に流されて切れ切れになった。日は陰り、うす闇があたりをじわじわと染めていく。

 神社へと続く石畳の参道に、提灯のあかりがともった。

 身支度を整える祖母の手つきには、迷いがない。

「ほれ、猫背、猫背」

 背中をばちんとたたかれて、沙世はむせた。

「ほんとうにきれいだ」

 顔を出した父さんの声が、なんとなく潤んでいる。やっぱり照れくさい。

 鏡にうつっているのが、まるで知らない子にみえた。

 いつもはきつく結わえている長い髪を、きれいに梳いて背中に流しただけでも雰囲気がかわるのに、ほほにはおしろいを塗り、紅をさっとひくと、沙世という子はいなくなり、いっぱしの舞手が座しているようにも見えた。

 かたい肌触りの朱の袴、上衣はまっさらな白だ。袖を通すと立ち居振る舞いまで変わってしまうのが不思議だ。

「沙世」

 祖母が静かにささやいた。いつもとちがう。どこかこわい顔をしている。

「さあ、お飲み」

 小さな杯が、よい匂いのするもので満たされている。唇をつけるだけで、ぴりりと舌がしびれるほどに強いお酒だ。のどがやけるように熱くなった。

 遠くから鼓をならす音がする。祭りは、はじまったのだ。

 うまく舞えるか、不安はつきないけれど、もういくしかない。

 沙世は一息に飲み干した。

 湿った空気に、笛や鼓の音が絡みつくように響いてくる。神社のそばには、禊ぎの池と呼ばれるちいさなため池がある。

 池のまんなか、築山に設えられた舞台が、松明の炎に照らし出されているさまは、常のこととは違って見えて、不思議な感じがする。

 小舟に乗り込んだ沙世は、きゅうに心細くなって、振り返った。祖母の姿は、闇にまぎれてもう見えない。口も開かぬこぎ手は、沙世を島に届けるとすぐさま引き返してしまった。

 水面は、生き物のようにくろぐろとうねっている。

 階を踏み、沙世は一礼をして舞台に上がった。

 鼓も笛の音も、暗闇のむこう、この世ならぬどこか遠くから響いてくるようだ。

 四角く区切られた舞台は、供物を捧げ置くうてなに似ていると、沙世は思った。

 頭上に輝く満月と、そのまわりに羽衣のごとく光る月輪。まぶしくてみつめていられない。

 夏の夜は蒸し暑く、しかし舞台だけはしんとした冷たさが漂っている。

 笛が、甲高く鳴った。

 体は迷うことなく、舞の所作をなぞる。空に向けて掲げられた手のひらを、落花に似せてゆっくりと腰までおろす。足を力強く踏み込む。その繰り返しだ。十回で、一差し。素朴な舞だった。

 十と数えたちょうどそのとき、すべての音がやんだ。

 四方の灯りが風に揺らめき、消えかかった。暗闇に吸い込まれそうになる。立ちくらみににた気分の悪さに、沙世はきつく目をつぶった。目を、ゆっくりと開けた次の瞬間。

 沙世はいつのまにか、うす暗い廊下に立っていた。

 うしろを振り返ったが、まったくの闇があるばかりだ。おかしい。へんだ。ありえない。

 それでも、じっと立ち尽くしていても仕方ないと、沙世は足音をしのばせて、ゆっくりと歩き出した。

 やがて廊下もつきたところ、ふすまの手前で沙世は立ち止まった。この奥に何があるか、見当もつかない。そうっとふすまをすべらせ、足を踏み入れる。

 ひんやりとした冷たい灰色の床に、沙世の影がぼんやりとうつっている。

 そこは奇妙な室だった。室というより、箱といったほうがぴったりかもしれない。つるつるした壁には装飾もなく、どこからか放たれる青白い光が、黒々としたもののかげを沙世の足下までのばしてきていた。

 白い寝台が置いてある。しわひとつない白い掛け布団の足の部分が、すこしだけくぼんでいる。誰かが座ったあとのように。

 冷や汗が背中を流れおちていった。逃げ出したいほどいやな感じがする。

「そこでおやすみ」

 風のうなり声のような、ささやき声が響いた。沙世は驚いて、あたりを見回した。

「やっとここまできたね」

 空耳ではない。

「あなたはだれ」

「こっちへおいで」

 寒々しい室の奥に、ちいさな扉があることに沙世は気づいた。扉を開けると、清い水の香りが鼻をかすめた。風がある。闇になれた目が、なにかうごめくものをとらえた。

 沙世は、水辺にいた。

 空には大きな満月が輝いている。

 月明かりで水面がゆらゆらときらめいている。(禊ぎの池?)

 戻ってきたのだろうか。

 神楽の舞台がある築山は、月明かりにぼんやりと照らされている。

「八重垣、さん?」

 うずくまったなにかが、ぞろりと動いた。犬などより、ずっと大きい。布団を頭からかぶって丸まった人のようにも見える。

 月光に照らし出されたそれは、一枚はがして胸に忍ばせておきたいくらいの、うつくしい鱗で体中を覆われていた。木の皮よりかたそうな瞼をおしあげると、紅玉の目がのぞいて、沙世をまぶしげに見返した。

「もっと近くへ」

 神社の古い絵巻にあるような、それはまさに守り神、龍神の姿そのものだった。長い尾をくねらせ、幼さの残る声で彼は言った。

「あなたが神様?」

 おかしがるような笑い声がした。

「神様だって。そんなのじゃない」

「じゃあ、あなたは何なの」

「ぼくは、たつき。はじめまして、かな。こっちは、きみをよく知ってるけど」

「たつき、さん」

「たつきでいいよ」

 何がなんだかわからなかった。沙世は、深呼吸をしてから、上等の翡翠から彫り上げたような、たつきの顔をみつめた。長い髭が、うごめいている。

「ぼくは、きみに帰り夢をみせてきた」

「帰り夢・・・・・・」

 聞いたことがない。

「深い深い夢から目覚める手伝いをするのが、ぼくの役目だよ。やっとここまでこぎつけた」

「救い出す。わたしを?」

「きみは、ここでは生きていないも同じだから」

 沙世が生きていないだなんて、そんなばかにした話があるだろうか。

「わたしは、生きているわ。心臓は休まずに動いてる。どこへだって行ける」

「そうだね。行ったつもりには、なれる」

 あわれむような声で、たつきは言った。 

「きみが見ているのは、よくできたまぼろしだ。どんなに手をさしのべても、ふれられない。花一本、手折ることはできない」

 沙世は思いついて、苔の上に身を横たえ、不思議な色をした目を、じっとのぞき込んだ。もっと近くで見てみたかったのだ。

「あなたはまぼろしには見えないわ」

 ねずみのしっぽを何倍にも伸ばしたような龍のひげが、沙世がふれるとぴんと張りつめたのがおかしかった。

「こうして、ここにいるでしょう。さわることだってできるし」

「この生き物は、きみがつくりあげた、きみの夢の中にだけ住むものだ。ぼくは、その姿を借りているだけであって」

 沙世は皆まで聞かずに、すり寄った。ひどくいい匂いがする。木の皮か。松葉の香りか。それとも、花の蜜がさせる匂いだろうか。かたいはだに触れると、ためいきがもれた。

「わたしを、どう手伝うの?」

「・・・・・・調子狂うな」

 たつきは不機嫌そうにつぶやいた。

「きみは、あの寝台で眠るんだよ。かぎを離しちゃだめだよ」

 沙世は首を横に振った。

「あんな病室みたいな部屋。いやだ」

(病室・・・・・・?)

「寝ない。あなたが、ここで何をするのか見てる」

「・・・・・・勝手にしたら」

 たつきはそれきり、押し黙った。

 目もくらむようなまぶしさが襲ってきて、沙世をひるませた。


 沙世は雲一つない青空と、中点にのぼりつつある太陽の下にいた。

 禊ぎの池から、一瞬にして沙世を別の場所に移したのも、たつきのしたことなのだろうか。

 問いただしたくとも、たつきの姿は見あたらない。沙世はひとりきり、川べりの小道に立ち尽くしていた。

 遠く、家々が見える。

 桜の並木道は、神社へと続いている。よく智彦と歩く道だ。

 ゆるやかに蛇行する川に沿って植わった桜が、ぽつぽつと咲きそろい始めている。立ち枯れたままのススキが風に揺れている。

「春だわ」

 数歩さきに、光を照り返すものがある。転がっていたのは、きれいな赤い石だった。

 この石のことを、どこかで見た気がする。

「たつき」

 沙世は声を上げた。

「わたし、よく夢を見るの。赤い石をもらう夢。たしか、こんなのだった」

 夢であった男の子は、なんと言っただろうか。

「あの子は、かぎだと言ったわ」

 かすかに笑う声が、どこからか聞こえてきた。

「そう。かぎだよ。村の外へ行ってみたいと思ったことは?」

「・・・・・・ないわ」

 考えたこともなかった。

「もうそろそろ、考えてもいい頃だよ」

 たつきは苦く笑った。

「きみにとっては一眠りの間。ぼくらにとっては、百年前」

「何を言っているの」

 いつのまにか咲きそろい、早咲きを散らしはじめた桜は、風に吹かれて花びらを舞いあがらせた。沙世の手のひらにおさまった石は、ゆるやかに輝いている。

「きみは、ここに残るべきかもしれない。そのほうが、しあわせなのかもしれない」

 静かな声で、たつきは言った。

「作り物の世界だ。厳しさを切り捨てた、都合のいい夢の世界だけれど。でも、ずっと見ていたくなる。きみがここにいる風景を、ずっと」

 沙世は目をみはった。わずかに瞬きした間に、あたり一面が真っ白にそまっていたのだ。

 森も、近くに見える木々も、家も、真っ白なもので覆いつくされている。舞い落ちるものを手のひらにとろうとするが、沙世の手をすり抜けていくばかりだった。

「きれい」

 たつきは、吹き出した。

「どうして笑うの」

「なんでもないけど、おかしくて」

 よくわからないが、たつきの笑い声は好ましかった。沙世もつられて愉快な気持ちになるのがふしぎだ。

「どこまでが夢で、どこからが現実なの」

 やや間があったが、たつきはゆっくりと答えた。

「・・・・・・どうかな。わからない。もしかして、現実さえも・・・・・・よくできた夢かもしれない」

 絶え間なく降りしきるもの。これは、雪だ。

 沙世の生まれたところでは、降ることもつもることもないもの。映像でしか、みたことがないものだ。

 たつきは突然、はりつめた声をあげた。

「追っ手がきた」

「追っ手?」

 沙世は息をのんだ。

「思ったより早かったな」

 駆けてくる足音がした。

「沙世!」

(智彦?)

 白い景色は、霧がはれるように消え去った。灯火のぼうっとした光が、横たわる龍をてらしている。くらく狭い室の中、龍はもぞもぞと頭を巡らせた。

 息を切らした智彦が、手斧をかざして沙世の真ん前に立ちふさがっていた。沙世は智彦の腕に取りすがり、叫んだ。

「やめて」

「下がってろ、沙世。これは、たたるものだ。よくないものだ。まぼろしをみせて、人を狂わせるんだ」

 智彦は、家畜を殺すときのように、ためらいなく斧をふりあげた。

「だめ」

 深く考えるひまもなかった。沙世は、智彦に体当たりをすると、たつきをだきしめた。

「やめて、智彦」

 大きな声も出せなかった。だが、智彦は鋭い叱責を受けたかのように動きを止め、沙世に向き直った。

 疑いと焦り、怒りが智彦の顔にうかんでいる。

「おまえを、行かせない」

 沙世は目をみはった。

 これは、智彦なのだろうか。それとも、もしかして。沙世の心を鏡のようにうつした、沙世自身なのだろうか。

 沙世は、ゆっくり立ち上がった。

「たつき。これも夢なの?」

 唐突に動きを止めた智彦の手から、斧を受け取ると、沙世はたつきに向き直った。手斧といえど、ずっしりと重い。よく研がれた刃先に、沙世は人差し指を押し当てた。血の玉がふくれあがり、手首に伝った。

 智彦のほうを見ることができなかった。後ずさりをして、沙世はかすれた声でささやいた。

「たつき。何とか言って」

 痛みはほんものだ。

 けれど、沙世はつねならぬものを見てきた。うつりかわる風景と、失われた季節を、たしかにこの目で見てきたのだ。

 涙で視界がにじむ。

 夢から覚めるまぎわ、これが夢だと気づくことがある。沙世は唇をかみしめて、智彦をしっかりとみつめた。

(どうして。忘れていられたの、わたしは)

 治癒する見込みのない病。

 何万人に一人発症するかどうかの、奇病に沙世の体はおかされていた。

(忘れていたかったからだ・・・・・・)

 昨日ひとりでできたことが、目覚めるとできなくなっている。自分の体が、自分のものでなくなっていく。・・・・・・こわかった。そのうち、泣くことすらもできなくなると思うと、たまらなかった。

 病の原因が解明できる時まで、肉体を眠らせる技術があると。

 放っておけばすぐに消えてしまう命を、つなぐすべがある。

 はじめは半信半疑だった。

 きゅうくつなカプセルに横たわり、凍ったまま何年も、何十年も眠り続ける。両親が生きている間に原因が突き止められるかもわからない。智彦が生きているうちに、治るかどうかもわからないのだ。

 だとしても、未来に希望を託せるなら。

 ・・・・・・もしかして、それは沙世の願いというよりは、周りの人たちの心底からの祈りだったのかもしれない。

 さいごまで反対していた智彦は、沙世が眠りにつく日も、顔を見せなかった。

 智彦はきっと、許さないだろう。

 ずっと一緒にいようと、そう言ってくれた智彦を裏切ってしまった。大切な、大切な双子の兄を。

「智彦。ごめんなさい」

 斧を取り落とした沙世は、しゃくりあげながら言った。智彦は、沙世の手をきつくにぎりしめた。

「・・・・・・おまえに」

 握らされたのは赤い石だ。炎を籠めたかのように、明るく光る石。

(これは)

 今なら、わかる。

 これは誕生日に智彦がくれたものだ。

 双子の兄は、いつだって沙世を気にかけてくれていた。きっと、沙世が眠りについたあとも。

「何もしてやれなかった」

 沙世は、首を横にふった。あらたな涙がこみあげて頬を流れ落ちた。

「ずっとそばにいてくれて、ありがとう」

 目を細めて、智彦は笑った。

 かぎは、解き放つものだ。閉ざされた道の先を開くものだ。

 ずっと、目覚めをうながされてきた。でも、起きるのを拒んでもいたのだ。やさしい世界に抱き留められたまま、甘い眠りをむさぼっていたいと、沙世は心のどこかでそう思っていたのだ。

「そろそろ帰ろう。準備は、いい?」

 とおく、たつきの声がした。沙世はうなずいた。

 そっと目を開くと、周りがぼやけてみえた。

 きゅうに息を吸い込んだせいか、沙世はひどくせきこんだ。

 思えば沙世の病気は、風邪からはじまったのだった。ひやりとしたが、落ち着いて呼吸をするとすぐにおさまった。

 腕からは管がのびている。にぶい痛みに、沙世は顔をしかめた。

「大丈夫?」

 横たわったまま、あたりを見回す。眠りについた場所とも、どうやらちがうようだ。

 ふと、だれかが顔をのぞきこんだ。目を細めると、ほほえむ人と目があったのがわかった。

(たつき?)

 声を出そうとしたが、うまくいかなかった。口から出たのは、うめき声だけだ。

「焦らないで。目覚めたばかりだ」

「た、つ、き」

 なんとか声が出せた。彼は唇をゆがめた。

「そうだよ。ぼくは、八重垣たつき」

 八重垣。おなじ名字だ。

「智彦はぼくの曾祖父だよ。もうずいぶん昔に亡くなったけど。沙世ばあちゃんのこと、さいごまで気にかけていたよ」

 胸がつかれたように苦しくて、息ができなくなりそうだった。

「わたしの病気、治ったの」 

 のどから押し出した声は、かすれてはいたけれど、聞き覚えのある自分のものだった。

 たつきは、ただほほえんだ。

「数値は安定してた。いつ目覚めてもよかったんだ。でも、きみが・・・・・・あんまり安らかな顔をしてたから」

 まどろんでいられた時には、もう戻れない。寂しさが押し寄せてきて、沙世は唇をかみしめた。

「この世界も、悪くはないよ」

 起こしてもらうと、ガラス窓に情けない顔をした女の子がうつっていた。

 あの日のまま、なんにも変わらない沙世を残して、みんないなくなってしまったのだ。

 きつく握ったこぶしを開くと、智彦のくれた石がある。肌のあぶらにくもった、光りも輝きもしない石は、けれど沙世にとって何より大事なものだ。

(これだけ・・・・・・)

 これしかないのだと。そう思うと、心細くてたまらなかった。もう一度夢の中に戻りたいと願うほどに。

 何かが、ちかりと光った。気づけば、窓の向こうには、山が見えた。真っ白な、雪山だ。

 せかされる思いで、沙世は言った。

「外へ行きたいの。今すぐ」

 たつきはためらうように頭をかいたが、うなずいた。

「少しだけだよ」

 肩を貸してもらい、足を引きずるようにテラスにでると、冷たい風が身を包んだ。

 ふりしきる白い花びらが、手につかもうとしてもそのさきから溶けていく。ほてった頬を、冷たい雪がなでてくれるような気がした。

 まだ眠りにまどろんだ頭が、しだいにはっきりとしていく。風の凍えるような冷たさ、重たい体は現実のものだ。

 沙世がうらみ、にくんで。それでも生きたいとすがった現実だ。

「また、つもりそうだ」

 夜が明けようとしていた。山の端からゆっくりとのぼってくる朝日が、雪のつもった山肌を照らしてゆく。

「ばあちゃん、寒くない?」

 もう戻れない。深く呼吸をすると、沙世は山並みをみつめた。

 涙がこぼれた。帰り夢は、沙世を現実にみちびいた。病を癒すことができる未来へ。

 でも、本当に帰りたかった現実は、もう手の届かない過去へ過ぎ去ってしまった。

「ばあちゃん?」

 顔を上げてみつめると、面食らったように彼は見つめかえしてきた。

「ばあちゃんっていうの、やめて。たつきのほうこそ、わたしより、ずいぶん年上に見えるけど」

 夢の中より、ずいぶん背が伸びて、沙世はつま先立ちしてもかなわない。

「ずいぶんって、これでも二十歳なんだけど」

 寒さがやわらいだ。たつきが、毛布を沙世に巻き付け、くるみ込んだのだった。長い腕がしっかりと抱きしめてくれる。泣いた子をあやすように頭をなでられて、沙世は唇をかんだ。

 智彦も、先に大人になったのだろう。そうして、沙世を案じながら行ってしまったのだ。

 声をころして、沙世は泣いた。

 雪が、降りかさなっていく。

 悲しいのに、景色はきよらかに美しい。 

 沙世は、灰色にけむる空を見上げた。


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