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私小説  作者: 松永日枇木
過去
9/10

晩夏

 明けて日曜の朝早くに、武井家のチャイムがなった。

午前8時。この日は農作業を早めに切り上げ、利夫は朝食を取っている最中だった。

「あ、俺出るよ」と利夫は母親に声を掛けた。絹さやの味噌汁から湯気が立っている。好物の卵焼きにはまだ箸をつけていなかった。手で口をぬぐいながら玄関に出る。ドアを開けると、白シャツ姿の初老の大柄な男と、細い体の青年がのっそりと立っていた。

「県警の酒井と申します。あなた、武井利夫さん、ですか」

 初老の男が聞き役らしい。二人はそれぞれ警察手帳を開いて見せた。利夫は、思わず唾を飲み込んだ。

「数日前ですが、女性が殺された事件、ご存知でしょうか」

は?と聞き返す。

「新聞、ご覧になりませんでしたか。」

「ええ、あまり、読まないもので。……なにか?」

 若い方がじっと利夫を見つめている。さりげなくペンを取り出した。メモを取るらしい。

「はっきり言いましょう。斉藤紀子さん、って女性をご存知ですよね」

 その名を聞いた利夫の胸に、冷たい矢が刺さった。ドクドクと、心音が体を揺らし始めた。

「なくなったんですよ。殺人事件です」

――一瞬、利夫にはその刑事の言葉が理解できなかった。

きょろきょろと目だけで辺りを見回した。

“これはなにか悪い夢ではないか。”

“冗談を言って、担ごうとしているのではないか”

そう思ったからだ。

「8月15日。あなたはどちらにいらっしゃいましたか」

「……友人と旅行に出てまして、その日の午後に戻ってきたんですが……」

「何時ごろでしょう」

「それは、……4時半か……いや、5時半か。夕方ですね。時間は、よく覚えてません。」

「そうですか。では、自宅に帰られた後はずっと家にいらしたと?」

「いやっ。――7時ごろ、出ました。親戚の家に行くために。」

「親戚の家。ちなみに、どちらの」

「I町の寺前までです。郷尾正彦。……あ、家は、幹成って叔母の父親の名で出てます」

 刑事の酒井は、始めは鋭かった眼光を和らげ、人のいい笑顔をわずかに見せた。

「なるほど。――もう少し、詳しくお伺いしたいので、署までご同行して頂けますか」

「もう少し詳しくって?」

 思わず険のある声を出すと、利夫の背後からたどたどしい足音が鳴った。義孝が腰を抑えながらやってきたのだ。和子も一緒だ。

「警察の刑事さん、ですか。父親の義孝って言います。」

 義孝が頭を下げると、酒井もああこりゃどうも、と軽く頭を下げた。

そして、ああそうだ、と思い出したような目つきをした。

「こちらは義孝さん、とおっしゃるのですね。そうだ。――お父さん、お母さん。あなた方は8月15日の夕方、どちらにいました?」

「どちらにって、そうだなあ」

 と、妻の顔を振り返る。

「私は夕飯を作っていたし、お父さんは畑に出ててねえ。」

不安そうに見遣る和子に、義孝は頷いて見せた。

「で、なんだっていうんです、それが」

「それはですね」という刑事を差し置き、利夫は“お父さん”と振り返った。

「父さん。斉藤紀子さんが死んだんだって。――殺されたんだって。」

 えっ、と目を見開く両親に、利夫はその顔を面と向かってみることが出来なかった。

「ご事情など詳しく伺いたいんで、警察署までいらして頂きたいんですが」


ひとまず聴取が終わり、利夫が警察を出ようとすると、唐沢が入ろうとするところであった。二人とも互いの姿にはっとして、決まり悪く顔を背けた。

8月15日。その日は昼過ぎにコテージを出て、途中“道の駅”などで休憩を取りながらゆっくりと家路に着いていた。みなそれぞれ自分の車で来ていたので、途中からはバラバラになった。4時ごろ椎名が外れ、暫くして竹内が、そして唐沢と利夫は家同士が近いこともあって、ほとんど一緒に帰ってきた。唐沢の証言に拠れば帰宅時刻は午後5時25分頃。それぞれのアリバイは、今のところ成立してはいない。

死亡推定時刻は8月15日の午後4時から6時。季節が夏ということもあり、遺体発見が遅かったのでずれがあるかもしれないとのことだった。

“紀子が殺された。なぜ”

 利夫の身辺は、にわかにざわめき出した。


「どうだったの、話。」

家に帰るなり、母親の和子がエプロンの端を弄びながら眉根を寄せて聞いてきた。

息子の額に浮かぶ汗を見つけて、急いで台所に戻る。冷たい麦茶をいそいそと注いで、また利夫の下に小走りに駆け寄った。見慣れたはずの家の中が、なぜだか他人の家のような気になった。茶碗を受け取って、イグサの座布団に座り込む。縁側から、夏草の匂いが入ってくる。チリリン、と、申し訳程度に風鈴が鳴った。香ばしい甘みのある麦茶を一息で飲み干す。ようやく人心地が着いた。

「たいした話じゃなかったよ。ドラマで言うようなことを聞かれた。何か殺されるようなわけでも知りませんかってさ。」

 不貞腐れた言い方をしたせいか、和子は更に悲しげな表情になって両手を口元に当てた。

「本当に、こんな田舎で、なんてことかしら。しかも、全然知らない人じゃないし……」

「母さん!」

思わず大声になると、利夫は自分の態度を苦々しく思って視線を畳の上に落とした。

「――殺される理由なんて知らないよ。俺は知らない。もう関係のない人なんだから。」

「そんなこと言ったって、あなた……、全然知らない人じゃなし……」

「ちょっと黙っててよ!!」

バン!! 座卓を思い切り平手で叩く。利夫の目に、恐怖の色が浮かんだ母親の姿が映る。

その怯えたような顔には記憶がある。一つや二つではない。利夫が本気になればなるほど人が遠ざかっていった、その記憶さえ蘇る。

“なんでなんでなんでなんで”

「なんで蒸し返すようなことを言うんだよ。なんで蒸し返して来るんだよ。なんでだよ。何で……」

 利夫は頭を両手で抱え込んだ。じっとりと汗ばむ肌。がさついた手のひらで、自分の髪をかき回す。墨を塗ったように日焼けした皮膚が目に入り、利夫は無性に悲しくなった。

 顔を上げた先に、茶箪笥があった。そのガラス戸に自分の姿が映っている。細い顔、黒い肌の中に目だけがぎらぎらとして白く光っている。薄い唇は醜くへの字に歪んでいた。我知らず、涙が溢れた。

「……利夫。あんた、ほんとのことをいっても、いいのよ。もう。」

「なんだよ、ほんとのことって。」

「斉藤さんのことよ。ほんとのところ、どう思ってたの?好きだったの?」

 それなら何度も自分自身考えていたことだった。

 “同情”なのか。それとも、“打算”なのか。相手を見下していたからなのか。

 “人を好きになるというのはどういうことなのか”

 “結婚とは、どういうことなのか”

「……わからない。もう、わからなくなった。過ぎたことだから。」

 深くため息をついて、利夫は自分の思考を停止させた。それ以上考えると、自分がなにをしでかすか不安だった。

「それより貴弘はどうしてるんだ? 連絡よこしてるのかい」

 話をはぐらかされたと思ったが、和子も深く追求することを避けた。

「まあ、ねえ。」

「人んちのことより、自分ちのことを考えないとね。あいつ、もう戻ってくる気ないの?」

「わからないわ」

「なんで出て行ったのかな、あいつ。出て行く必要なんかないのに。」

「……分からないわ……」


《和子の回想》

 貴弘は利夫の3歳年下の弟だ。勉強もスポーツも、利夫のほうが優れていた。それでも、好きこそ物の上手なれ、と言う考えで、得意な分野に関する応援は十分にしてきたつもりだった。公平に。平等に。区別なく。

「どうしても兄貴に家を継がせるって言うんだな。

 いいよ、別に農家なんてやりたくねえし、農家なんかやりたいヤツが継げばいいさ。だけど、いくらオレがバカだからって、差を付けられるのは敵わない。実の親子なのに、オレに対するこの仕打ちは絶対許さねえ」

 差を付ける……この仕打ち……

 いったいなんのことだろう。和子には見当がつかない。

 なぜ、こんな子供に育ってしまったのだろう。



 利夫は、他の仲間たちもこの事件について警察から聴取を受けているのかどうか気になっていた。自分と行動を共にしていたのだ。警察が何より知りたい情報は、友人である他の三人の証言が必要になってくるのは間違いない。そう考えると、確かめずにはいられなかった。夜になるのを待って、唐沢の携帯に電話をかけた。

《……お前か。なんだ。》

唐沢賢司の声は、あまり虫の居所のいい声ではなかった。

「いや、――警察で、会ったよな。何きかれた?」

《何って。――まあ。8月15日の行動?ってやつ?》

「ああ、俺も聞かれた」

 耳の奥に、チッという音が響いた。

《お前のことについて聞かれたよ。恐らく竹内も椎名も。

 お前がやったのか? あの日帰ってからさ》

「んな……馬鹿なことを言うなよ。」

 唐沢の、いつもの鼻に抜ける笑いが微かに、した。

《お前が見合いして、振られたことはみんな知ってるんだよ。1月になって妙に付き合いが悪くなったと思ったんだ。その後も変だったしな。みんなそれなりにお前に気を遣ってやってたんだよ。それをなんだい。いつまでもウジウジウジウジしやがって。逆恨みじゃねえのか?なあ。それでやっちまったんじゃねえのか?おまえはやりそうなんだよ。いつでもやりたくってうずうずしてるんだよな。気分わりい。》

「なんだよそれ、訳わかんないよ」

《もう気分悪いんだよ。もうオレは知らんからな。お前のことなんか知らない。今度こそ……絶交だ。いい加減付き合いきれん。》


 一方的に電話を切られ、利夫は体が震えだすのを感じた。受話器を置く手が不自然にぶれた。

 唐沢とは幼い頃から“親友”として過ごしてはきたが、幾度となく喧嘩別れしたこともある。その度に何らかの形で仲直りをしてきたつもりだが、小さな誤解や小さな嘘が、つもりつもって限界に達したような感じがした。自分から謝る事が多いと感じていた利夫には、理不尽という思いが強かった。自分の方がいつだって怒りをこらえていると思っていたからだ。体の震えは“怒り”のせいだ。それはどこにもぶつけようのない憤りでもあった。

「ふざけんな!」

利夫は思い切り低く吠えた。一度吠えると、何かを壊したい欲望に駆られる。利夫は深呼吸して、それを耐えようとした。だが、胸苦しさに息が詰まり、浅くしか呼吸できない。

“ふざけんなふざけんなふざけんな!!”

 荒々しい息が辺りにこだまする。

“俺は悪くない……俺は悪くないんだ”

 そうとも。

 オレは人殺しなんかしていない。

 少なくとも、そのことに関しては俺は無実だ。


 “こんな時、誰かの優しい手があったなら。……”


 誰かに相談をしたい。心からそう思った。だが両親には心配をさせたくない。彼の脳裏にあと二人の友人の顔が浮かんできた。けれども彼は、頭を振ってそれを払った。警察はこの二人にも事情聴取をしているだろうから。例え、相談したとしても、答えはありふれた同情だろう。心配はしてくれるだろうが、なにか助言を請うのは無理な気がした。自分が逆の立場だったらどうだろう? ――何も言えないのではないか。

 利夫の指は、勝手にある番号を押していた。

 ほどなくして、期待していた声が聞こえてきた。

《郷尾ですが》

 利夫はその言い方に、なにか違和感のようなものをふと、感じた。

「あの、利夫です」

そう告げると、すうっと息を吸う音がし、いつも通りの華やかな声が返ってきた。

《まあ、利夫ちゃんなの。誰かと思ったわ》

「え?誰だと思ったの?」

受話器の向こうで、少女じみた含み笑いが小さく響いた。

《どうしたの、なにかあったの?》

 叔母の瑠璃子の声は、利夫の耳にいつも優しい。

思わず甘えた口調になった。

「うん、あの……ちょっとね。」

言いかねて、黙り込んだ。充分間が開いた頃、瑠璃子は言った。

《利夫ちゃん、これから、うちに来ない?》

「え?」

《家の人も今日は遅くなるって言うし、孝太郎にしても、やっぱり遅いのよ》

「んでも……これからじゃ遅いし……」

《ごはんぐらい、家で食べていきなさいよ。大丈夫、二人とも帰りは9時半だから。お話しするのに、そんなに時間かかんないわ。それとも、どこかで食事しながら話しでもする?それでもいいのよ。お話、したいわ。》

 その言葉に、利夫の脳裏にまた憂鬱な過去が蘇った。

(あの時も、ほんの少し話をすればすむことだった。

 はっきり言ってくれれば、すぐに済むことだった……)

 ――紀子と別れた日のことが、再び思い出される。

 しかもそれは、その日だけではすまなかった。二重に輪をかけて過ちを繰り返した。だから、こうして思い出してしまうのかもしれなかった。

 こと紀子との問題に関しては瑠璃子が最大の理解者であり、功労者でもあった。相談するべき責任者は、瑠璃子を置いて他にない。責任。

「――うん。じゃ、これからそっちに行くよ。」

 そう告げて、受話器を置いたところで、利夫は父親が後ろに立っていることに気が付いた。

「父さん。……大丈夫なの?腰」

 いつも仏頂面した厳しい顔つきをした義孝だが、夕暮れの薄明かりのせいか、どことなく気落ちした風にも見える。

「叔母さんのところに行くのか」

「うん、ああ……ご飯食べに来い、なんて言うから」

 利夫は軽く嘘をついた。義孝の目が、見透かすように利夫の目を射た。

「そうか。――そういうことなら、仕方ないかも知れん」

 そういうと、すぐに腰をかばいつつ座敷に引っ込んだ。

「ちょっと母さん、正彦叔父さんのところに行くから。ごはんはいい。」

 台所に立っていた母の後姿に向かって言う。

「そう」

 母親は野菜を刻みながら、そのまま振り返らなかった。ザクザクザクザク……

キャベツを刻む音だけが、辺りに響いた。


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