利夫と椎名
「さっきからずっと黙ったままだな」
不意に椎名の声が車内に響いた。
小さな風船が弾いた感じが、利夫のこめかみで、した。とっさに“別に”と言おうとしたが、喉がからんで声にならない。そのまま再び黙り込んだ。
「まあ……お前が静かなのは、今に始まったことじゃないがな」
そういう椎名の横顔に、対向車のライトが流れていく。
――いつまでも若いと思っていたが、寄る年波には勝てないと言うのか。かすかに衰えが見える。肌のきめが粗い。……
そのように長年の友人の横顔を見つつ、利夫は助手席に座っていた紀子の視線を思い出した。彼女に自分の横顔はどう見えていたのだろう。
「……なあ、知ってる? この辺のこと。」
何気ないふうに椎名は話す。んん、と咳払いをして、なにが?と、今度は声に出して尋ねた。
道は国道だが、夜も更けたこともあって家の明かりもない山間の通りだ。深い群青色に灰色を被せたような空を透かしてみると、黒い森が浮かび上がって見えてくる。
利夫は急に、底なしの沼に沈んでいくような不安な心地になった。
車が止まった。
「なんだよ、思わせぶりに。止めるなよ」
椎名はライトを消すと車のエンジンはかけたまま、ふっと涼やかな笑みを向けた。
「この辺、明かりがないだろ。星を見るには絶好のデートスポットなんだとさ。知ってた?」
「ああ……そうなんだ」と、利夫は深く安堵の息を吐いた。幽霊話などされたのでは、たまったものではない。紀子のように。
カチリ、とシートベルトをはずした椎名は、ハンドルに手をかけてぐいと利夫に体ごと顔を向けた。
「ん? なんだ?」
「――もし、お前が女だったらな。俺が抱きしめてやるのに。抱いて慰めてやるのにな」
「い、いきなりなに言い出すんだよ」
利夫は椎名の瞳から目が離せなかった。この瞳なら、女はたやすく落ちるだろうと思われた。椎名の笑みを含んだ口元に不可思議な緊張感が加わり、それを感じると同時に利夫の体の一部にも緊張感が走った。相手の顔が、自分の顔に近づいたように思ったからだ。それは生まれて初めてするキスの瞬間を思わせた。ごく普通の男女がするような。
「な、なに?」
思わず利夫は、ドアに背中を押し付けた。逃げ出したい衝動に駆られた。
「何……って、――別に?」
何かを見透かしたような目だった。自分でも判らない秘密をかぎ当てられたような気がして、利夫は又小さく息継ぎした。
――また、紀子の顔が浮かんだ。キスをしようと考え、自分は車のルームライトをつけ、なるだけ怖がらせないようにと気を使って近づいたつもりだった。嫌われないように。それなのに、目に映ったのはひどく怯えた顔だった。不快の念があらわになった表情だった。今の自分の顔も、そうだったんだろうか。そう思うと、腹立たしさと羞恥心が複雑に入り混じった。そしてあの紀子が言った言葉がそこに被った。
“私は、男の人を愛せないの……”
利夫はぎっと椎名を凝視した。今まで考え付かなかったことが、そこに結びついた。電撃のような速さだった。
椎名が結婚せず、浮いた噂一つなかった理由。
「椎名は男が好きだったのか?」
言われた椎名は、おどけたように目を丸く見開いた。そしてさも愉快そうに笑い声を上げた。ハンドルを叩き、車体は軽く上下左右に揺れた。
「なんだよ、そんなに笑うなよ。笑うとこかよ。」
恥ずかしさを堪えているから笑うしかないのかと言う感じだった。
利夫もなにやら可笑しい気分になってきた。
「だってお前、断定的に言うからおかしくって」と、目に涙さえ浮かべて言う相手に、堪らず利夫も笑い出した。
“そうだ。同性愛なんて特殊なんだ。そんなにそうそういるものか”
“紀子の場合、付き合いを断るための口実だったのだから”
“そうに違いないのだから”
笑い声が小さくなり、利夫がふと右側に顔を向けたとき、それはすぐ間近にいた。
黒い影が前に被さり、顔の下半分に重みが乗った。かすかな煙草の香が鼻腔に漂い、唇は確かに相手の唇を感じていた。
利夫は目を閉じ、そのままじっとしてみた。
次は何をするのだろう。同性愛と言うのは、どういう手順を踏むのだろう。異性愛とはどこが違うのだろう。……
そう思っていたものの、椎名の舌が自分の上唇を舐め、左手に片手が触れたとき、利夫は反射的にその手を払っていた。
「ちょ、ちょっと待てよ」
相手は長年の友人だ。それも男だ。だがふざけるにもほどがある。
椎名の体が、離れた。
「……お前は、ほんとに女がすきなのか?」
「ん、んん、……なにが?……」
「どうして……とか。なんのために……なんて、考えたことがあるか?」
「なにがだよ」
「結婚のことだよ。お前はどうして結婚したいんだ? なんのために結婚したいと考えるんだ?」
椎名のまなざしは、あくまでも冷静だった。また唐突な展開に、利夫は意味もなく視線を泳がせた。
「俺をどうしたいんだよ」
考えたくない利夫は、相手に事の成り行きを任せた。こんなときは相手に下駄を預けるしかないと考えている。相手の出方を観てから答えを出せばいい。
「お前をどうにかしたいわけじゃない。……だけど、……ずっと思っていたんだが、お前には結婚は向かない気がする。」
「なぜ」
「なぜでもだ。……」
「お前は女が好きではないように見える。
俺が女を好きじゃないようにな……」




