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私小説  作者: 松永日枇木
過去
8/10

利夫と椎名

「さっきからずっと黙ったままだな」

 不意に椎名の声が車内に響いた。

 小さな風船が弾いた感じが、利夫のこめかみで、した。とっさに“別に”と言おうとしたが、喉がからんで声にならない。そのまま再び黙り込んだ。

「まあ……お前が静かなのは、今に始まったことじゃないがな」

そういう椎名の横顔に、対向車のライトが流れていく。

 ――いつまでも若いと思っていたが、寄る年波には勝てないと言うのか。かすかに衰えが見える。肌のきめが粗い。……

そのように長年の友人の横顔を見つつ、利夫は助手席に座っていた紀子の視線を思い出した。彼女に自分の横顔はどう見えていたのだろう。

「……なあ、知ってる? この辺のこと。」

何気ないふうに椎名は話す。んん、と咳払いをして、なにが?と、今度は声に出して尋ねた。

 道は国道だが、夜も更けたこともあって家の明かりもない山間の通りだ。深い群青色に灰色を被せたような空を透かしてみると、黒い森が浮かび上がって見えてくる。

利夫は急に、底なしの沼に沈んでいくような不安な心地になった。

車が止まった。

「なんだよ、思わせぶりに。止めるなよ」

 椎名はライトを消すと車のエンジンはかけたまま、ふっと涼やかな笑みを向けた。

「この辺、明かりがないだろ。星を見るには絶好のデートスポットなんだとさ。知ってた?」

「ああ……そうなんだ」と、利夫は深く安堵の息を吐いた。幽霊話などされたのでは、たまったものではない。紀子のように。

 カチリ、とシートベルトをはずした椎名は、ハンドルに手をかけてぐいと利夫に体ごと顔を向けた。

「ん? なんだ?」

「――もし、お前が女だったらな。俺が抱きしめてやるのに。抱いて慰めてやるのにな」

「い、いきなりなに言い出すんだよ」

利夫は椎名の瞳から目が離せなかった。この瞳なら、女はたやすく落ちるだろうと思われた。椎名の笑みを含んだ口元に不可思議な緊張感が加わり、それを感じると同時に利夫の体の一部にも緊張感が走った。相手の顔が、自分の顔に近づいたように思ったからだ。それは生まれて初めてするキスの瞬間を思わせた。ごく普通の男女がするような。

「な、なに?」

 思わず利夫は、ドアに背中を押し付けた。逃げ出したい衝動に駆られた。

「何……って、――別に?」

 何かを見透かしたような目だった。自分でも判らない秘密をかぎ当てられたような気がして、利夫は又小さく息継ぎした。

 ――また、紀子の顔が浮かんだ。キスをしようと考え、自分は車のルームライトをつけ、なるだけ怖がらせないようにと気を使って近づいたつもりだった。嫌われないように。それなのに、目に映ったのはひどく怯えた顔だった。不快の念があらわになった表情だった。今の自分の顔も、そうだったんだろうか。そう思うと、腹立たしさと羞恥心が複雑に入り混じった。そしてあの紀子が言った言葉がそこに被った。

“私は、男の人を愛せないの……”

 利夫はぎっと椎名を凝視した。今まで考え付かなかったことが、そこに結びついた。電撃のような速さだった。

椎名が結婚せず、浮いた噂一つなかった理由。

「椎名は男が好きだったのか?」

 言われた椎名は、おどけたように目を丸く見開いた。そしてさも愉快そうに笑い声を上げた。ハンドルを叩き、車体は軽く上下左右に揺れた。

「なんだよ、そんなに笑うなよ。笑うとこかよ。」

 恥ずかしさを堪えているから笑うしかないのかと言う感じだった。

利夫もなにやら可笑しい気分になってきた。

「だってお前、断定的に言うからおかしくって」と、目に涙さえ浮かべて言う相手に、堪らず利夫も笑い出した。

“そうだ。同性愛なんて特殊なんだ。そんなにそうそういるものか”

“紀子の場合、付き合いを断るための口実だったのだから”

“そうに違いないのだから”

 笑い声が小さくなり、利夫がふと右側に顔を向けたとき、それはすぐ間近にいた。

 黒い影が前に被さり、顔の下半分に重みが乗った。かすかな煙草の香が鼻腔に漂い、唇は確かに相手の唇を感じていた。

 利夫は目を閉じ、そのままじっとしてみた。

 次は何をするのだろう。同性愛と言うのは、どういう手順を踏むのだろう。異性愛とはどこが違うのだろう。……

 そう思っていたものの、椎名の舌が自分の上唇を舐め、左手に片手が触れたとき、利夫は反射的にその手を払っていた。

「ちょ、ちょっと待てよ」

相手は長年の友人だ。それも男だ。だがふざけるにもほどがある。

 椎名の体が、離れた。

「……お前は、ほんとに女がすきなのか?」

「ん、んん、……なにが?……」

「どうして……とか。なんのために……なんて、考えたことがあるか?」

「なにがだよ」

「結婚のことだよ。お前はどうして結婚したいんだ? なんのために結婚したいと考えるんだ?」

 椎名のまなざしは、あくまでも冷静だった。また唐突な展開に、利夫は意味もなく視線を泳がせた。

「俺をどうしたいんだよ」

 考えたくない利夫は、相手に事の成り行きを任せた。こんなときは相手に下駄を預けるしかないと考えている。相手の出方を観てから答えを出せばいい。

「お前をどうにかしたいわけじゃない。……だけど、……ずっと思っていたんだが、お前には結婚は向かない気がする。」

「なぜ」

「なぜでもだ。……」


「お前は女が好きではないように見える。

 俺が女を好きじゃないようにな……」



 


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