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私小説  作者: 松永日枇木
過去
7/10

冬の日

 その日は、雪こそ降っていなかったが、どんよりとした曇り空をしていた。昼間から晴れるのだと天気予報では言っていた。いつも朝食は軽く済ませる。薄く焼いたトースト、温めた牛乳。約束の時間は午前十一時、いつも通り五時には起きたが心が騒いでならなかった。それは、今でこそ胸騒ぎだったと思える。不安の予兆。

 ――利夫の心にはいつでも両親の言葉があり、絶えず期待が大きくのしかかっていた。それに見合う技量を持ち合わせていることを彼自身望んでいたのは確かだ。家を出て行ってしまった弟の分まで物事を考えなければならないのだ。次第によっては弟の人生まで背負い込まねばならなくなることも、容易に想像できた。だからこそ利夫は、自分の核になるもの、自分の家族を作ることを考えるようになったともいえた。逆に言うなら、自分の家庭を持つことで、今の家族とのつながりを絶とうとしているとも言えるものだったが。


 利夫は、親にあることを告げられていた。

“近いうちに、ご挨拶に伺わねばならないな。”

“ご挨拶”――。

 それは“結納の相談”とも言うものだった。

 見合いの日から、日にちこそ経ってはいないが、短期間のうちに4回も会っている。その間、利夫にとってはっきりとした事実が一つある。それは『自分についてきて欲しい』と紀子に言い、紀子もそれを承諾する意思を見せた、ということである。

 キスをうまくできなかったことには、紀子も謝罪の言葉を吐いた。そしてそれは後悔するほどのことではなく、次回に期待を持つことも気長に待つしかないことを利夫なりに善意に解釈して納得した。後は、地盤を固めるように状況を整え紀子の気持ちがまた揺るがないうちに事を運ぶ必要があった。結婚にはさまざまな手続きが必要なことくらい、利夫にだってわかっている。時間は待ってはくれない。紀子の年を冷静に考えれば、悠長なことは言ってはいられないはずなのだから。結婚が決まればキスも出来るし、何でもできる。そんな気も、していた。自分の立場がはっきりすれば、彼女も安心して身を任せるようになるのではないか。……そんな考えももちろんあった。いや、親や叔母にそう言いくるめられた。

 鏡の前で、利夫は身だしなみを整える程度に自分の姿を見てみた。

 スーツを着る必要はなかった。玄関先で、ちょっと彼女の親に『うちの親が今度ぜひこちらに伺ってご挨拶したいと言っているのですが』と言えば、すぐに察しがつく話なのだから。服は、これしかないと思われても構わないと思っていた。冬は寒いのだ。ダウンジャケットは何着か持っているが、中でも小奇麗な明るめのグレーを選び、シャワーも浴びた。シトラス系の香りのコロンをつける。紀子と会うときはこれをつけることにした。彼女は香水らしいものをつけてはいないが、それは逆に“香りをさせないように努力している”ふうでもあった。時折、ふっと感じることもあった。薔薇の香りのようでもあり、彼女自身の体臭のようでもあった。いつもは藁や草の匂いばかり嗅いでいる。そのせいか、女性の香り、特ににおい、というものに過剰に期待していた気もしている。母親は、化粧も薄い女であった。だが、母の匂い、というのはいつも懐かしくいとおしく感じるものだ。その母の匂いと、紀子の匂いは、その性質を異にしていた。紀子に気遣ってコロンをつけていたのだが、その実紀子の匂いが嫌いだったからこそ自分がコロンをつけるようになったのかもしれなかった。


 チャイムを押そうとすると、玄関のガラス越しに紀子のシルエットが浮かび上がった。甘い栗色と、濃紺のジーンズ。カラカラと戸が開き、上質そうなロングコートを纏った紀子が目に入った。――こんな時、自分と相手の年齢差を感じてしまう。清楚だけれど華のある装いをした紀子のことを、心からきれいだと思った。自分に合わせてくれている。気を使ってくれている。そんな気がしていた。これなら一緒に歩いても皆に引けを取らない。お似合いのカップル、そんなふうに誰もが言ってくれるだろう。……

「迎えに来てくださって、ありがとう。今日はよろしく。」

 靴を履きながらそう言う紀子に、利夫はんん、と咳払いをした。

「ん、と。ウチの両親からちょっと言付かってきたんだけど……」

 紀子の眉が一瞬神経質そうに傾き、目を丸く見開いた。

「ちょっと、お父さんに出てもらえる?」

 そう言うと、紀子にはすぐに理由がわかったらしい。奥に向かって、お父さんちょっと来てくれる?と声をかけた。ややあって、父親の宗市が茶の間から顔を出した。

「おはようございます」

 宗市はいぶかしそうな、不思議そうな顔つきでやってきた。

「あの、うちの両親が、今度ご挨拶に伺いたいと言っているのですが……」

 老眼鏡をかけた丸顔が、呆けたように利夫と紀子を交互に見た。

「それはいったいどういうことなんだい?」

利夫は口の中でその言葉を反復した。

“それはいったいどういうことなんだい?”

「いや、あの、前々からこちらに伺いたいと申しておりまして」

「だからそれはどういう」

 鈍い人だな。心の中でチッと舌打ちをした。

「あんたら、結婚についてきちんと話し合ったのかい」

宗市が思いがけず端的に言った。

「それは、その……」

 利夫は傍らの紀子を盗み見た。彼女は固い表情をしていた。

「そのことについて、お話できたらと」

 緊張感が倍増した。何かがおかしい。不安も増した。

「あんたらがちゃんと決めてあるんなら、こっちも話が無いわけじゃないが……そこんとこがちゃんとしてないと話しにならないんじゃないのかね。」

“ちゃんと”ってなんだよ。

“俺たち、結婚するんだよな”

――そんな気持ちで紀子を見たが、その相手は視線を逸らせた。何かが違う。利夫は身の置き所が無い気分を持て余した。

「紀子、お前はどうなんだ。そっちのご両親が話があるってことは、大変なことなんだぞ」

 宗市の言い方は、ある種の怒りを含んでいるようだった。実際けんか腰のようにも聞こえた。

「……今はまだ、そんなのいいんじゃないかしら」

「いいってお前、そういうわけにはいかないんだぞ。ようく、二人で話し合わないことには、……ご両親が会いたいって言うのはそういうことなんだから」

「わかってるわよ。」

 聞いているうちに、利夫も事の重大さが自分が思っていることよりも更に暗黒の事態を招きかねないことに気づき始めた。

「いや、別に今すぐとは言ってません、忘れてください、」

また、宗市が何か言いたげな目付きで上から見下ろした。今にも怒鳴りつけそうな雰囲気であった。

「あんたら、ただ会うだけで、何の話もしてないんじゃないのかね」

 紀子は黙ったままだ。利夫にしても同じことだった。言うべき言葉など無かった。何を話すと言うのだ。ただ会って、とりとめもない話をすることだって重要なことではないのか。何かに急き立てられている感じがしていた。

「会ったらちゃんと、もっと話し合うべきじゃないのかね」

 だんだん、説教をされている気分にもなってきた。反論したいが、なぜかできなかった。

「――わかりました。うちの方は、まだいいって言って置きますんで」

と、それだけをようやく言って、とりあえず斉藤家を出ようとした。

「待って」

 紀子は急に茶の間へと入っていった。そして封筒を片手に戻ってきた。

「これ。ずっとお預かりしたままで」

 おいお前、と宗市がまた唸るように言った。それを無視して、紀子は利夫に封筒を渡した。

「丁度いい機会だから、お返ししておきますね。ずっと神棚に上げていてしまって。」

 それは暮れに渡した身上書と写真であった。

「――あ、別に、いいのに」と、何気なく受け取った。

「いえ、せっかくですから」

 ――何がせっかくなのだろう。自分も紀子の身上書を預かっている。これはいったい何か意味があるのだろうか。利夫には全くわからない。

 


 車に乗ると、利夫はまた喉に異変を感じて何度も唾を飲み込んだ。

「ごめんなさいね、なんだか、嫌な思いをさせちゃって」

 紀子が気遣わしげな声で言う。

「……いや。こっちこそなんだかヘンなことを言っちゃったみたいで……」

“ヘンなこと? 変じゃないだろう”

 心がそう反発する。ただ、時期尚早であった感は否めなかった。

「ちょっと、早かったかな」

「何が?」

「いや、うちの両親が会いたいなんていうのがさ。」

 紀子は黙り込んだ。話す気がないだけのような、気だるい雰囲気がある。

“この人はまた空気が変わった”と、利夫は初めて会った日から今日までのことを振り返ってみた。積極的でさえあったまなざしも声も、いつしか感じられなくなった気がする。こんな日が来るなどと、想像するのを避けてきた。利夫の心に、嘗て別れた女たちが去来する。全ては過去のことであった。もう思い出すこともないと考えていた過去たちだった。その時の出来事は、全て自分の中で消化したものばかりであり、経験値として残ってはいるものの、あえて忘却の彼方へ飛び去らせたものばかりだった。それが再生して蘇りつつあった。再生される過去たちは、全て自分から去っていった女たちであったし、また男の友人でもあった。自分がなぜこうも人に好かれないのか。なぜ何度も同じような理由で幸福を手中に出来ないのか、出口のない旅に出るような気さえした。


 早めの昼食を摂っている最中も、紀子の言動は利夫を幻惑させるようなものばかりであった。

「ああ、残念だわ、私の友達はほとんど結婚してしまったし。」

「利夫さんのお友達と会ってみたかったわ。そうね、合コンなんていいかもしれない。そしたら、その中でもっとすてきな人に出会えたかもしれないものね。」

 出合った当初よりもかなりくだけた物言いでそんなことを言う紀子に、利夫は不信感を募らせた。

「俺じゃだめだっていうの」

冗談めかして言ってみたが、相手は軽く眉を顰めて、視線を逸らした。そのくせ、やってきた食べ物を一緒に食べないかと誘ってきたりする。

 どうやら精神的に追い詰められたように感じているらしい。

 利夫はそう解釈した。

“マリッジ・ブルー”……世の中には、こんな言葉がある。結婚前から、結婚後の生活について、数々の不安が生じて心がいらだち、ついには結婚そのものを取りやめてしまうことさえある、一種の心の病気だ。特に紀子は自己評価が低い女だ。人並み程度の身なりをし、それほどひどい性格の悪さも感じられず、なにより服従するということしか能のない女。

 この女ほど人に愛されず人を愛したことがない人間もいまい。

 だからこそ、俺は選んだ。これでいいと決めた。結婚なんてそんなもんだ。相手がいる。鈍いところもあるが、超がつくほどの美人でもないが、会話をしていてわかるのは、根は人のいい家庭的な女であるということだ。適度に夫を立て、社会と付き合い、子を産み育てる。地味だが着実な、誠実な家庭がそこに出来上がる。自分に家族が出来たなら、きっときっと大切にする。誰よりも。そんな自負が利夫には大いにあった。自分にはその大役を確実に果たすことが出来る。そんな男に見出された女は、もっと手放しで喜ばねばならないはずなのだ。それなのに、紀子は違うと言い出した。結果的にはそういうことになる。紀子は俺と結婚したくないのだ。だから俺の親に会いたくないのだ。結論を先延ばしにしているニュアンスではない。面倒くさくなった。そんな雰囲気の方が今は強い。数少ない恋愛経験からでも、それは充分感じられる。なにが悪かったんだ。それとも昔からそんなふうにして男を振ってきたから未だに独身だったということか。

 そうか。

 それなら俺は、虚仮にされたというわけか。


食事代は紀子が全額受け持った。

「この店は私が誘ってつれてきて頂いたんですから」

というので、そう?などといい、財布は出したが紀子の言うままごちそうになった。

 その後映画を観た。

 人気のアニメ映画であった。

「ハウルの動く城」という、一人の地味な少女が呪いをかけられ、老婆にされるという話だ。若い姿の時は言いたいことも言えない少女だったが、老婆として暮らすうち、持ち前の機転の速さと勇気を持って自らの正義を持って進む、そんな感じの映画であった。

 ラブロマンスでもあり、自分もそんな愛する人が欲しい気分になって、思わず涙が滲んだ。紀子も涙にまつ毛を光らせていた。

 映画館を出ると、紀子が言った。

「これからなにかご予定は?」

「別にないですけど」

そうですか、という紀子の声が沈んで聞こえる。

瞬時に“なにか話があるんだな”と感じた。

「家まで、送りますよ」と誘い水をかける。男たるもの、家まで送り届けるのは当然のことだと考えている。

「のどが渇きません? なにか飲みませんか?」

 んん、と咳払いをする。確かに、喉がからからだ。映画館の中は飲食禁止だったから。他に飲食可能な映画館もあるのだが、紀子が指定し、券も紀子が用意したものだった。今日は一銭も金を出していない。いつも自分のものは自分持ち、のような関係でいることを望んだ利夫だったが、こう全部相手に出してもらうのは不本意である。考えればこちらが車を使って送り迎えしてやっているのだからガソリン代くらい時には融通して欲しいと考えないこともない。だからといって、女に金を出してもらうほど金がないわけではないし、相手の懐具合もだいたいわかっているのだ。彼女の家の作りからしても、彼女の父親の職業からしても、自分の家よりも収入が低いことは容易に想像できる。彼女の仕事にしてもそうだ。地味な身なり、ブランド物など、いままで身に着けているのを見たことがない。この歳まで独身だったのだから、預金はそれ相応あるだろう。なに、金を出してくれるというのを遮ってしまうのも相手に悪かろう。そう思ったから、あえて紀子に金を出させていた。後で半額返せばいいだけの話であり、そのぐらいの金は当然持ち合わせているのだから。

 利夫はふと、思い当たった。

 “俺ってケチだったかなあ”

よく、男が全額支払っているのだということを聞いている。そこから比べれば、自分たちは充分“大人らしい関係”であった。より対等で、平等な男女関係を築けていたと考えていた。べったりと寄り添われるのも実は苦手だ。友達感覚で夫婦になれたら最高だった。そういうことを踏まえて、紀子は案外拾い物だったかもしれない。紀子にしても同様だろうと思っていた。案外、いい物件だったかもしれない。


 その考えは全て砂上の楼閣であることを、次の喫茶店で思い知ることになる。……


「マロンラテを」

ドトールに着くと、紀子は店員にそう告げた。時刻は午後の3時半。彼女はミルクレープやモンブランなどが並ぶショーケースを見つめているが、それを頼むことはしなかった。利夫がこういった店に入ることは、まず、ない。ぎこちなく自分で注文をした。自分のものは自分で頼む。そういうことなのだと利夫は解釈した。

 席に着いて、一口すする。「甘い」と、紀子はおどけたように顔をしかめて見せた。暫く沈黙が流れた。

「何か話したいことがあったんじゃないの」

そう先手を打った。紀子は考え込む目つきをした。

「……ああ、……今日は、付き合ってくださってありがとうございました。」

「――それだけ?」

それだけって?と首を傾げる。その様子が、なんだか芝居じみて見えた。

「他に話があるから、ここに来たんじゃないの?」

また、紀子は顔を傾けて目を軽く見開いた。わからない振りをしている、と思った。

「……今朝のことだったら、あれ、なかったことにしていいから。」

自分でも、何から話せばいいか、わからなかった。

「あれって?」

「ウチの両親があいたいって言ってる話。別に、今すぐじゃなくてもいいわけだし、それで焦らせようとしてる訳じゃないから。うん。」

「……確かに、はっきりさせなきゃいけない時期に来てるのは、よくわかってるの。」

紀子は、いつものように両手を組んで頬杖を付いた。

「そうよね、もう、決めなきゃならないのね……」


「まだ会って間もない気がしたけど、もう1ヶ月近くになるのね。」

「ああ、そう……なるかな」

「会うのはこれで何回目?5回?6回目かしら」

「ん、んん、……そ、そうかな」

「まだそれしか会ってないけど、もう決めなきゃならないのね」

「いや、そういうわけじゃ……そうかな……」

「そうよね。失礼よね、はっきり言わなきゃって、思ってたの」


「もう少し、時間がほしかった。せっかく……ようやく慣れてきたところだったの。でも、お別れしなきゃならないのね」

「ちょっと待ってよ、なんでそうなるんだよ」


「親に反対されてるとか、そういうのなのか?」

「そんなんじゃないわ」

「じゃ、俺の家の職業が農家だからか?確かに家の仕事は大変だし、いろいろあるけど、でもそれって……」

「そうじゃないわ」

「家の仕事が原因じゃないってなると、なんなんだ?わけわかんないよ」

 利夫は笑顔を取り繕おうとしたが、笑えるところではなかった。自分の気を立て直すのに懸命だった。


「年が明けたばかりよね。今年はいい年にしたいでしょうね。」

「ああ。いい年にしたいね」

「お祖母さんはお元気?」

「ああ、相変わらずだけどね。先は長くないね」

「そうなの?」

「仕方ないね。」

 紀子はふうっと息を吐いた。

 この相手が何と言って自分を言いくるめるのか、見極めてやろう。そんな気持ちがなかったとは言えない。

「理由を言ってくれよ。言ってくれなきゃわかんないよ」

 それでも紀子は押し黙ったままだ。マロンラテを少しずつ飲みながら、なにごとか考えているだけだ。

「ね、なにが悪いんだよ。何が不満なんだよ。わかんないよ。お父さんが、反対しているから?」

 また、紀子は深くため息をついた。

「……ウチの父が心配しているのは、……私があなたを傷つけるんじゃないか、ってことよ。性格だって、――よくないわ。躁鬱気味だし。嫁に行ってもうまくやっていけないんじゃないか、って。返されるんじゃないか、って、心配してるの。……」

 なんだ、やはり結婚した後の心配から来てるのか、と、利夫はやや安心した。

「そ、それって、マリッジブルーってやつじゃないの?そんなの杞憂だよ」

「ううん、それに……」

まだあるのか?と嫌な心持がした。

「私自身、あなたに対してお姉さんのようにしか振舞えない。だって、弟と同じ年なんですものね。年下の方が気楽かな、そう思ってたけど、……。男の人は、いくつになっても若い人と結婚できるけど、女の人はそうはいかないですもんね。やっぱり、若い方がいいですよ、女だって、若い人がいいですもん。」

 “若い人”……。そんないい方をする紀子を、利夫は横目で盗み見た。

 二十代の女性と比べれば、紀子はやや疲れが見える。街を歩けば振り返って見たくなる様な美しい女性が、鄙とはいえ、いないわけではないのだ。それを目で追う度、自分はダメだと思うような弱い女性では、扱いが大変だ。そう思うと、面倒くさい気持ちになる。しかし、今ここで見合い相手を逃したら、自分はどうなるのだろうとも考えた。

 これは、相手に振られた事になるのだろうか。

前にも断られた理由。自分に農家は務まりそうにないから。

また、そんな理由で断られるのかと思うと、うんざりした。武井利夫という人間を全く無視して、家の職業の事だけ考えて断られるのは、不本意だった。自分という人間をもっとよく知ってから、物事を判断して欲しい。そんな気持ちも手伝って、今回ばかりは利夫は粘りに粘ってみるつもりだった。

「……ねえ。俺たちって、知り合い方が悪かったのかな。見合いってことにこだわってるの?見合いで知り合ったのがいけないの?……だったらさ、こうすればいい」

 利夫としては、自分では“かっこいい考え”だと思ったのだ。

「今日、ここで出会った事にすればいい。この喫茶店で、初めて会って、そこから始めるんだ。ああ、それっていいと思わないか?」

 紀子は悲しげな顔つきになった。気落ちした表情でもあった。

「ここで、誰かと知り合うなんてことはないわ。あなただって、こんなところでナンパなんかするような人じゃないし、第一……有り得ないわ。あなたに声が掛けられるの?声を掛けられても、それで付き合いが始まる、なんてことは、私にはないわ。」

 はっ、と息を呑んだ利夫には、それが何を意味するのか判らない訳ではなかった。

“あなたに一目ぼれすることはない”

――そういうことか。

そういう……。

「やっぱ、弟にしか見えないの?」

 紀子は微かだが、笑った。

「うん、そうね。」

ようやく理解できたのか、といった、教師のような笑みだった。

「――もうこんな時間になったのね。もう、今日はこれでさよならしましょう」

その言葉に時計を見ると、時計は五時に近かった。話す言葉は少なかったが、間合いが長かったせいだ。利夫自身、こんなに時間が経っていようとは思いもしなかった。

「一旦、外に出よう。別なところで話をしないか」

 別なところで?と、紀子はふいに怯えた眼をした。

「私は、もうないわ。」

「やっぱり、納得できない。これ以上付き合わないってことだよね。」

「……そうね。」

「……やっぱ、わかんない。それだけの理由で断るって、そんなのって……だから、話しよう。」

 紀子の腕を取ろうとしたが、それをあからさまに払いのけられた。

「――気分が悪いのよ。一人で帰りたいの。だから、あなたも一人で帰って。」

と、椅子にひっついたまま動こうとしない。

「気分が悪いなら送っていくよ、さあ」

「一人で帰れるわよ。定期券も持ってきてるの。どうぞおかまいなく」

その意固地な態度に、利夫もかちんときた。

「じゃ、俺ももう少しいようっと」

「明日は仕事でしょ。帰ったら?私は本を読んで行きたいの。」

「そ、じゃ、俺も本を読んでこうかな」

わざと明るいように言ってみる。紀子はまたあからさまなため息をついてみせた。いきなり立ち上がった。本屋は自動ドアを開けてすぐとなりにある。先に行こうとすると、紀子が二人のカップを持って、食器を下げに行った。怒った様な、きつい横顔だった。

“自分で片付けなければならなかったのか……”

 その様子を眺めながら、これはやっかいなことになった、と唇を噛んだ。

“結婚したら、こんなことが日常茶飯事なのだろうか”

 いやでもそんなことを考えてしまう。些細なことでけんかをしたり、言い合いになることはどのカップルもあることだろう。もともとは育った環境も違う他人の二人なのだ。考え方も男女差がある。

“恋愛する前からこんなことでは、先が思いやられるな。”

 そう考えて、利夫は自分の考えに虚を突かれた。

“恋愛……今の状態が恋愛なのだろうか”と。

 紀子が言った様に、自分たちはまだ付き合い始めて日が浅いのだ。

 確かに、まとまる縁はとんとん拍子で進んでいくものらしい。日取りさえ合えば、付き合いだして半年でゴールするのも遅いくらいだ。自分たちも、そんな風に着々と進んでいくものだと思っていた。自分を見る紀子の目。じっと見つめてくる瞳。懸命に話しかけてくる様子。その様を思い出すと、今日のこの日がまるで悪夢のような気さえする。

 自分は紀子を嫌ってなどいなかったはずだ。

 紀子も自分を嫌いではなかったはずだ。

 ――自分の方が年上だ……とか、自分は美しくない……とか、性格が、とか、自分のことばかり挙げへつらって卑下するのは、全く持って疎ましい感じがした。けれど、何とかして修復しなければならなかった。

 それは第一に両親のためでもあった。

 実は、利夫の両親が今度の結婚話に乗り気になっているのだ。両親からしてみれば、紀子はおとなしい感じのいい娘さんであり、来てくれるだけでありがたいと何度も言い含められている。その二人の期待を、紀子の我儘で台無しにすることは出来ないと思った。一時的な気の迷いなら、取りあえず現状維持に持ち込めば、なんとかならないこともない。そんな気がしていた。何と言っても、いざとなれば叔母の瑠璃子がいる。瑠璃子の言うことなら、紀子も聞きそうな気がした。女の気持ちは、やはり女でなければ判らないところもあるのだろう。そう、いざとなったら瑠璃子がいる。そう思ったら何とかなりそうな気がした。

 紀子は、どうしても今日ここで決着を付けたいようだった。この場で、利夫に「わかった。この見合いはなかったことにしよう。」と言わせたいのだと思った。絶対に言うもんか。利夫の中の天邪鬼が顔をもたげた。一人帰ろうとする紀子について、歩き出した。

「どうして付いて来るの」

「駅まで送るよ」

 呆れ顔の紀子に、どこまでもついていく。

「……俺たち、何で別れなきゃならないんだろう……」

 言った後、クサい台詞だなと思いつつ、それに酔った。

“この人は、俺に未練があるのだ。だから無下にも出来ず、こうして一緒に歩いているのだろう。それはこの人が俺のことを好きだからなのだ。何かほかに理由があるのだ。何もなければ付き合える何か。俺と付き合いたいのに自分から誰か他の人に譲ろうとしているのだ。俺のことが好きなのに。”

 目の前の信号が、赤になった。辺りは既に暗く、気温はかなり下がって寒いばかりだ。広い往来では、ライトを皓々とつけて車が走り去っていく。自分の車は、駐車場に止めたきりだ。こんな時、車だったら暖かかったものを。

「どこまでついてくるつもり?」

「いや。……駅まで」

「すぐそこだから。寒いでしょ。車で帰れば?」

「いや、別に平気だから。送るから。」

 迷惑そうな顔も、自分を好きなくせに無理をしていると思うと、なんだか嬉しい気がしていた。もう一押しかもしれない、と思った。

 ――そしてそれは、功を奏した。

「私も寒いわ。車で送ってもらえる?」

 やった!と、利夫は小さくガッツポーズを取った。

 だが、それも長い長い、悪夢の始まりだった。


 紀子の家まで近くなった頃だ。

「やっぱり、納得できない」と、利夫は車を別方向に変えた。

「だって、わけわかんないもの。俺たちがどうして別れなきゃならないのか」

 

「別れる……?」

 紀子は目を細めた。人を見下した目だった。

 利夫は、当てもなく車を走らせた。どの辺りを通っているものか、自分でも判らないような気がしてきたが、とにかく時間が必要だと思っていた。


利夫にしても、その日のうちに紀子の言い分を撤回させたかったのだ。紀子は、自分からべらべらとしゃべる女ということも、この時点でわかってきた。

 つまり、紀子は好きな男がいたということ、だが結局は結ばれなかったということ。人を好きになったことがない、などというのも嘘だったし、人を愛せない、というのも嘘だったということも。

自分の殻に閉じこもっているだけだ。

俺のことが好きなら、俺は受け取ってやってもいい。おかしな理由付けをするぐらいなら、もっとましな言い訳をして欲しかった。ちくしょう。


「前にも言ったと思うけど、私、……人を好きになれないの。もっと言うと、男の人を、好きになれないの。感じないの、なんにも。もう、心も体も枯れ果ててるの。あなたは結婚して家族を作るっていう未来を夢見てるかもしれないけど、私はあなたとその夢を実現させることは出来ない。」

 紀子はその場を取り繕うことにだけ専念していた。利夫に、想像力を要求していたのだった。ぼかしたものの言い方をしているが、本心を察してくれと、ムリな望みを抱いていたのだ。男の利夫には、そこまで気がまわるはずもなかった。

『気があるようなそぶりをして、俺を虚仮にしやがった』

『もう、女なんて訳がわかんねえ』

紀子は紀子で、どう言えばうまく言い逃れができるか、そればかり考えていた。

要点としては、つきあいたくない。結婚もしたくない。ただそれだけだが、その理由として、なにを出せば相手が納得して引き下がるか。その札をひたすら探しているのだった。

紀子にしてみれば、幽霊話に本気で殴りかかろうとした暴力男の影を見つけてしまい、すっかり臆病になってしまったことと、自分から好きになったわけでもない男にいずれ身を任せることに対しての不快感が、全てを支配していた。

その上、こんなふうに車で引っ張りまわされたのでは、たまったものではなかった。どこへ連れ込まれてもおかしくない状況だと感じていた。時刻は午後の七時を回っている。この時間にはもう、家に帰りたい紀子であった。車を運転しているのは、利夫である。主導権は利夫が握っている。飛び降りるわけにもいかず、穏便に事を済ましたかった紀子にとって、利夫の行動は恐怖しか生まなかった。この時の恐怖心は、場慣れした者にはわからない感情だろう。なにをしでかすかわからない不気味さを、この時の利夫は醸し出していた。

ようやく家に近づいても、利夫は紀子の家の前に車を止めなかった。すぐそばの空き地に止めた。また、同じ話の繰り返しになった。

「どうしてもだめなのか。」

「私がいつまでも車に乗っているからダメなのよね。もう、降りるわ」

「だめだ、まだ済んでない!」

 

「何でだめなんだよう……どうしてっ……どうしてっ……」

 利夫は、自分が惨めな気がしてならなかった。

 なにが悪いんだ。俺は悪くない。誰が悪いんだ。紀子に決まってる。なにがよくなかったんだ。俺は悪くない。なのに紀子は俺に悪者になれという。…………


「私がよくないの。だから、もう付き合えないの。」

 そうだ、確かにあんたの方が悪い。でも俺は、別にいいって言ったじゃないかよ。

「男の人を愛せないって言ったね……ああ。もしかして女なの? 女の人が好きなの?」

「そうよ。」

 軽い衝撃が走ったが、又嘘をついているかもしれない。それを試したい気になった。

「――それなら、できるかどうか、試してみればいいじゃないか、男が本当にだめなのかどうか」

 利夫は紀子の手を握った。農家をしているせいで手がかなり荒れている。自分だって、こんな汚い手をしてるけれど、女としてあんたを愛撫することだってできる、ということを知ってほしかった。

 紀子もまた、手を握り返してきた。ぼろぼろと涙をこぼしながら。

「こうして手を握っても、何も感じないわ。握ることは出来るけど、私には……」

できない、と、真顔で訴えてきた。

「映画を見たでしょう?――あのソフィは、私よ。私の心はもう、おばあさんみたいに萎びてるの。結婚、――私だって夢見ないこともなかった……でも、それは違う世界のことなの。私には、縁のないことだったのよ」

「――そんな……」

「夢を見てるみたいだった……普通の人らしいデートなんかして……もう、そんなのないと思ってたから……30代のいい思い出になったわ……」

「なんでだよ……どうしてそうなるんだよ……」

「これでいいのよ、これで……私には、合わないんだもの……」


 時刻は、午後の9時近くになっていた。


 ようやく、踏ん切りがついたことにしなければならないと思った。


「じゃあ、俺たち、別れよう」

それに対して、紀子からまただめ出しが出た。

「……申し訳ないんだけど、そちらのほうから断ったことにしていただけないかしら。」

「え?」

「この年になって自分から断った、なんて言ったら、私、……父に、殴られます。冗談抜きで。」

「……ええ?……」

「ですから、どうかあなたから断ったことにしてください。悪者にしてしまって申し訳ないんですが……よろしくお願いします」

 なにか、理不尽な言い訳のような気がした。

 断ったほうが悪者になる……というのも理不尽な気がしたし、それを押し付けられるのも不本意だった。確かに選ぶ側が男だとするのなら、それは女性の方が同情を寄せられていいかもしれない。むしろ本来なら女の方が断るのが、女側のプライドを傷つけられずに済むのではないかという気もした。

 訳がわからない思いがしたが、とりあえず「うん、判った」とだけ言った。


別れたんだ別れたんだ別れたんだ…


 ばかやろう。ばかやろう。


家に帰ると、即刻親に「今日、紀子さんに断られたから」と告げた。


母親は慌てて「どういうことなの?」と聞いてきた。

「わかんない。年下だからとか、いろいろだよ」

「いろいろって何よ、農家だからって言うこと?」

「そういうことだから。身上書も返されたし。別れたんだよ」

 母親は電話口に飛んで行った。きっと瑠璃子に言うだろう。そして瑠璃子は紀子に掛け合うだろう。……

 


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