3度目のデート
唐沢を殴ってしまった利夫は、椎名の運転で気を静めるためドライブに出た。その最中にも甦るのは、かつての見合い相手との会話だった。彼女はレストランで、自分は結婚に向かないと思っていると言い出した。あなたに人を愛せるの?と、言われたことがあるのだと。
他人の車だと言うのに、初めから自分の物のように椎名の運転はなめらかで無理がない。ゆったりとしたハンドル捌き。柔らかなブレーキング。利夫は自分の車がまるで高級車になったかのような気持ちになった。乗り手が変わればこうも違うのか。片肘をガラスに凭れ掛け、椎名の横顔を見つめた。わずかに上がった口の端が、微笑みを浮かべているように見せている。
「……なんだよ、どうした」
椎名が軽く首を振って、前方に顔を向けたまま聞く。
「……いや。……おまえってけっこう、美男子だよなと思って。」
「ははっ。どこか行きたいところはあるか」
「……いや。ない。適当でいい。」
オーライ、と、椎名はミラーで後方を見遣り、車線変更をした。
――利夫は、三度目に会ったときの紀子を思い出していた。
その前日にも、利夫は一度メールで「これから電話をしていいか」と尋ねてから電話を掛けた。度胸がないといわれても性分だから仕方ない。メールでもいいと思うのだが、声で話したほうが断然よいと何かのコラムに書いてあったのだ。その日は、紀子の習い事の日だった。茶道を習っているという。少しでも二人の距離を縮めたくて、迎えに行く約束を取り付けた。習い事の終了時間は午後8時半。ちょっと遅いが、軽い夕食でも一緒にできればいいかと考えた。「どこで待ち合わせしましょう」というのを、利夫は自ら教室のある階まで迎えに行きますと言ってしまった。どんなところで、何をしているのか興味もあった。
茶道。いかにも女性らしい趣味に思えた。自分の母親も、若い時分すこしかじった事があると言って初心者用の一揃いを持ってはいるが、茶箪笥に飾ったままになっている。見合いの席でもその話題になったとき、いずれみんなでお茶会の真似事などしてみたい、などといつになくはしゃぐ母親の姿が微笑ましかったのを思い出す。茶道と言っても、きっと大人になってからするままごとのようなものだろうと想像した。
「だったら、ぜひ体験して行って下さい」
教室には女性しか来ていないが、この日は人数が少ないから大丈夫だと紀子は言い、美味しいお菓子も出るので是非にと言うその声も華やいで艶やかに聞こえた。求められている、と思うと、心が躍った。
実際出かけてみると、ひとり、見覚えのある顔の女性がいるのに気がついた。利夫は自分の記憶力に自分で驚いたくらいだった。市役所の受付にいるフランス人形のような美貌の持ち主で、そこだけ清浄な吸気が漂うような、気高さを感じさせる美しさは、鄙にはまれなものだった。こんな出会いもあるんだな。利夫は思わず見とれた。
「きれいな人でしょう? 市役所にお勤めなのよ。」
利夫の視線の先にあるものに気づいたのか、紀子が言った。
「うん、知ってる。見かけた記憶がある。」
そう答えた。
「あら、それならちょっと、声を掛けたらいいのに。お会いしたことがありますねって」
「いや、別に」
「すごくきれいなのに気取ったところがなくて、とても気さくな感じの人なの。記憶力もいいから、あなたのことも覚えているかもしれないわよ」
「いや別に、……」
何を言っているのか、わからなかった。ただ“見とれただけ”だ。きれいなもの、美しいものに心惹かれて見つめてしまうのは、女性だって同じだろう。いや、女性のほうがその傾向が強いはずだ。
その場で何度か場面を振り返り考えた末、“これは嫉妬しているな”と思った。
確かにきれいな人で、その人と先に知り合えていたらよかったのに、と考えたのは、紀子が嫉妬していると感じてからだ。
「う、うん、……ン、ウンン」
「どうした? 武井」
「……ん……なんか、のどが詰まる感じがして」
「のどが? ……なんだよ、俺の運転じゃ不安か?」
「んん、……そうじゃ、ないよ」
利夫は痰を切ろうとして咳払いをしてみた。喉に何か詰まる感じがして息苦しくなるのは、今に始まったことではない。不安。ソウカモシレナイ。
「――ろくに知らない奴と一緒にいるわけじゃないんだから、そんな緊張するなって。なあ、武井?」
「ふっ、まあ、そうだな。」
答えながら利夫は、椎名の言葉にまた過去を思い出した。
あれから紀子と教室を出た後、どこで何をしようと考えあぐねていた。
いつまでも高嶺の花を追っていても仕方ない。それは少ないながらも経験上充分わかっている。ここにある花を、花として大事にしなければならない。それが男の誠実さというものだろう。そんなふうに前向きに考えていたつもりだ。だがもし紀子がその美女と友達で、その彼女とも親しくなれたら嬉しいかもしれない、と、考えないこともなかった。もし、あわよくばあの美女のほうから告白されたなら、その時はその時だ。好きです、付き合ってください、なんていわれたら、据え膳食わぬは男の恥と言う古いことわざも、適宜実践しなければ人生じゃないさ。そのぐらいの心のゆとりを持っているつもりだった。
小さなレストランで向かい合わせに座ったときには美女のことなどすっかり忘れた。それよりも、今日が三回目のデートだということの重大さに、胸の高鳴りを抑えられない思いだった。いつまでもひとつのことを考えていたのでは間に合わない。切り替えが肝心だと常に思っている利夫は、目の前の紀子の機嫌をどう取ろうかと、そちらに気が行っていた。先手を打つかと考えた。
「仕事はいつまでになるのかなあ」
「まだ、これから給与計算みたい」
「これから……たいへんだよなあ。」
「そう、たいへん。」
「どうするの、そのあと。」
利夫としては、ここで「うちに来い」と言いたかったのだ。うちの嫁になれば、就職なんてしなくていい、と。
だが、話の流れはうまくは運ばなかった。
「あの、……私、ちゃんとお話しなくちゃ、と思ってたんですけど」
紀子が両手を膝の上に重ね、居住まいを正してそう切り出した時、嫌な予感がした。
「私、……おばさまにも言ってあったんですけど、……結婚に向かない、って、思ってるんです。」
「え、なんで」
「人を愛せない。そう、呪いをかけられているからです」
なんだそれは。
どういうことだ。
呪いと聞いて、利夫の顔の筋肉が強張った。冗談なのか本気なのか、瞬時には測りかねた。表情が固くなるのを、自分ではどうしようもできなかった。それを見た紀子は、目を伏せた。
「高校時代、友人にそういわれたんです。あなたに人を愛せるの?って。それ以来私は人を好きになれないのです。ごめんなさい。」
「は? そ、それって、……」
利夫は思わず“俺の存在はなんなんだよ”となじりたくなった。けれども、かろうじて大人の自分がそれを抑えた。
「それ、ひどいこと言う人がいるんだなあ。――別に、呪いって、話だけでしょ。ていうか、冗談でもそんなこと言っちゃだめだよな。その人も。君も。君、今まで人を好きになった事、ないの?」
「――人を好きにならなかったから、今まで一人だったんだと思うわ。」
そう低く言う紀子の声は、芝居がかったものに聞こえた。
利夫は思った。
俺のことが嫌いなら嫌いと、なぜはっきり言わないんだ。
呪いなんて言葉を持ち出しやがって。
そう思う反面、「何てかわいそうな人なんだ」と思う自分がいた。人並み程度の容姿を持ち、社会人としての経験ももう充分積んでいるはずの大人の女性のはずなのに、なぜこんなにも自信がなく、自らその気配すら消そうとするのか。万事控えめなのは、その気の弱さゆえか。優しさなのか。利夫には正直判らなかった。ただ、この時の利夫は、自分が白馬の王子になれるような気がしていたのだ。
「ほんっとに、好きな人がいなかったんですか?」
誰か他の男のことが忘れられなくてそんな嘘をついていることも考えられる。拙い経験でもそのぐらいの想像はついた。だが、相手は無言で俯いたまま、頷くだけだった。涙の気配が立ち込めた。
とりあえず、この場をしのいでおこうと考えた。それは、「ひとまずこの女をキープしておくか」というのと同等の、そんな厭らしい考えではなかったとは言えない。
「でも、こうして俺と会ってくれてるじゃないですか。どうして、見合いなんかしたんです?」
「前にも申し上げたと思いますが、私だってどなたかいい人がいたらいいなと思ったりしたのです。私だって。でも、……」
「その気持ちがあればいいじゃないですか」
――面倒くさい。
「せっかくこうして出会えたのも、なにかの縁ですよ。自分を変えたくて見合いをしたんでしょ。もっと、自信を持って。前向きに考えようよ。」
――ああ、面倒くさい。
「――前向き?」
紀子が身を乗り出すようにして見つめてくる。
「そんな性急に考えなくても、いいんじゃないかな。ゆっくり行こうよ。前に進まなきゃ。徐々に分かり合えばいいんだし、……ねっ」
紀子が泣きそうになったので、利夫は悪いことをしているような気がしたが、気にしないことにした。“呪い”などという言葉で自分を遠ざけようとしたこの女が悪いのだ。そう。悪いのは紀子のほうなのだ。だから帰り道、キスぐらい迫っても拒否したりはしないだろう。誰かいい人がいたらと思いそれで見合いしたということは、そういうことだ。出方次第によってはそれ以上のこともこの夜、起こり得るのだ。とりあえず、結婚だ。それから辻褄を合わせるようにして仲良く愛し合えばいいのだ。とんとん拍子に行けばゆくゆくはそうなるはずだ。それまでが面倒くさいだけだ。結婚すれば、世界が変わるかもしれないと考えるのは、案外男も同じかもしれないと、その時は思った。
だが、その帰り道で利夫は重大なミスを犯していた。キスをしようとして、拒絶されたのだ。ドラマに出てくる俳優ではないのだからスマートに事が運ぶはずもなかったが、相手の紀子が非協力的すぎた。
なんでだよ。何が悪いんだよ。――利夫にはまるで理解できなかった。
「ごめんなさい私、……中学生みたいで。幼くて……」
紀子は助手席でドアに張り付くようにしながら、ただそれだけ言った。ひどく醜い顔で怯えていた。
“中学生みたい”……だが今時、中学生のほうがずっと進んでいるはずだ。初体験も低年齢化している世の中なのに、このおとな気ない仕打ちときたらどうだ。
利夫は我知らず頭を抱え込んだ。
「おい武井? 大丈夫か?」
狂おしい感情が、彼を支配していた。その当時は思いもしなかった心の内が、月日が経つにつれて腐臭を放ってきたようだった。何度も繰り返される記憶の数々。その度に熱く、また逆に凍りつくほど冷たく湧き上がる不可解な感情。
それをどこにぶつけたらいいのか、利夫には判らなかった。