出会い 2
利夫は約束した日曜の前日、夜の八時に紀子の家に電話を掛けた。
『はい、齋藤でございます』
柔らかな声がした。緊張が度を越して、頭の芯がくらくらした。
「あ、あの、武井です。紀子さんは」
わたしですが、とまた鈴のような声がする。
『先日はありがとうございました』
「ああ、いえ、こちらこそ。あの、明日、なんですけど。」
『明日、お会いするんですよね。夕飯をご一緒に、……ということで。』
「えっ、ええ。ええと」
利夫は自分でもじれったくて仕方なかった。本意ではないことを告げなければならかったからだ。
「お見合いの日、そちらのお母さんにはお会いしたけど、お父さんはまだですよね」
ええ、という訝しげな声に気後れしそうになる。後ろでは母親が急かすように見ている。
「だから、お父さんの宗市さんに、一度お会いしておきたくて。」
母親がウンウンと頷いた。
『あの日父は用事があって、……だからそんな、お気遣いなく』
「迎えに行きますから、その時ご挨拶できればいいんです。あ、ほんと、ちょっとでいいんですから。」
紀子はかなり答えを渋った。なぜ、こんなことで深く悩むのだろう? 簡単なことだ、と利夫は思った。これから先どうなろうとも、単に顔合わせするだけの話ではないのか? 少なくとも、挨拶ぐらいするのが礼儀だろう。
利夫は、自分も特に相手の父親に会いたいわけではないと考えている。年長者に会うのはどちらかと言えば気が重い。だが、周りがそれを許さないのだ。見合いの席に来なかったのは、娘の結婚に反対だからではないか。実際に利夫に会えばどんなに素晴らしい青年かわかるというものなのに、と、これは特に瑠璃子が意見し、こちらはそのもっともらしい進言に従ったまでのことだ。それはあちら側とて予期していることだろうから、すぐに承諾するだろうと思ってさえいた。当たり前だ。最初から両親が同伴すれば済むことだったのだから。
『……じゃあ、わかりました。お待ちしています。』
ようやく許可を取った。受話器を置いて、深々とため息をつく。一抹の不安が、このときから既にあったような気が、利夫はしている。
チャイムを押すと、紀子が小走りに出てきた。白いカーディガンに真珠のネックレス。見合いの日の印象から、さらに若くなった気がした。玄関先で持参した菓子の袋を差し出す。紀子は恐縮したように肩をすくめた。そこへ紀子の母・きよ子がやってきて、是非上がってくれと言う。父親は茶の間にいた。
紀子の父・齋藤宗市は、去年の暮れにバス会社を定年退職したばかりで利夫の父義孝より五つほど年下になる。薄くなった髪を潔く五分刈りにし、恰幅のいい太鼓腹をしていた。彼は胡坐をかいたまま利夫を迎えた。
「うちのは、君より年上だからね。そこのところは、いいのかね。」
と、挨拶もそこそこに切り出され、利夫は緊張のあまりコチコチに固くなった。
「何せ消極的なものでこの歳まできてしまったのだが、……今の人たちは、いろんな考えがあると思って黙っていたら、こんなになっちまって。」
テーブルを囲んで、皆ぎこちない笑いをした。
「いや、俺たちは早くに結婚して、何もないところから始めて、貧乏で。だもんだから、一生懸命働いて。逆に、子供を甘やかせてしまったところがあると、俺は思っているんだね。……」
宗市は独り言のように、自分たち夫婦のことを語った。いかに大変だったか、どんなに妻に苦労させたか。
(酒なんか一緒に飲んだら、今みたいな話を延々と聞かされるのかな)
自分の親たちからは、そんな夫婦の苦労話はあまり聞いていない。日頃から農業という生産業の経営者としての苦労を見ているはずだから、おおよそ理解しているはず、と親自身が思っているからだろう。そんなことを頭の隅で考え、宗市の話をただ頷きながら聞いた。緊張のまま正坐しているうち、だんだんと顔が蒼褪めてくるのが自分でもわかった。足が完璧に痺れてしまったのだ。紀子がもういいでしょうお父さん、と言って止めなければ、まだまだ聞かされそうな気配だった。何度も帰りの挨拶を繰り返したら、思いのほか時間が経ってしまっていた。車に乗り込むと、思い切り安堵の息を吐いた。
「ごめんなさいね、父ったら、自分のことばっかり」
(結局俺は何も話さなかったな。)
「いや、人に歴史あり、ですよ」
(あの人、つまり何を言いたかったんだろう)
ダウンジャケットを脱いで車の暖房を上げる。小雪がちらついてきた。
「“歴史”か……。良い言い方ですね。」
紀子が感慨深げに言う。褒められた気がして、利夫は自然と笑みになった。
相手のことを知るには、会話をしなければならない。つましい恋愛経験でもこれぐらいは学んだ。その中で、自分の家庭内のことも少しずつ織り交ぜて、今後の生活ビジョンを思い描いてもらわなければならない。早くても遅くてもいけない。だが、見合いと言う様式では、互いのことを知る段階が早いのがメリットでもある。まずは家業をすでに理解してもらっている。だから見合いを承諾したはずなのだから。後は細かい確認である。どう切り出したらいいものか。
「ときどき、ふつうのサラリーマンだったらなあって思うんですよ。」
「え? どうして?」
「ほら、親に使われている身分だから、逃げようがなくて。会社勤めで営業とかだと、外回りのふりして休めるんじゃないかと思って」
「営業してくるって言って、外に出ちゃえばいいのに」
「野菜売ってきま~す、って?」
ハハハ、と笑い声が上がる。
「うちの仕事はね、畑も広いから親戚同士で手伝いしあうんだけど、結構意見の衝突なんかもあったりして」
「意見の衝突?」
「そう。そういう点は、たぶん会社経営と同じです。なにをいつ売り出すか、市場や消費者の動向ですね、これは人気が落ちたから別な物を作ったらどうかとか。あとはいかに生産性をあげるか。肥料の種類とか、育て方とか。」
「いろいろあるんですね」
「案外、知的な仕事ですよ。みんな研究熱心だから。しかもほとんどがすぐには結果が出ないですからね。何年も自分なりのやり方で模索していくしかないんです。でもそれが、やり始めると、たのしい……」
んじゃないかな? と、おちゃらけたように言ってみる。
「意見の衝突があったときって、どうなさるんですか?」
車のサイドミラーを見るついでに、紀子の横顔を窺う。紀子の両手が、胸のところで祈るような形になっているのが見えた。
「そんなとき、自分は一番年下だから、黙ってるしかないんですよーははは」
「まあ、……それじゃ、調整役をしなければならないんですね?」
「そうそう。いちおう中立、ってことにしてますけど。なだめるのがたいへんですよ、もう、両方から苦情を聞く羽目になってしまって」
「きっと頼りにされてるからでしょうね。そうじゃなかったら、何も言ってこないでしょう」
(“頼りにされてる”……か。そうか、俺は頼りにされてるのか。)
他人に、それも異性にそんなことを言われるのは、これが初めての気がした。紀子は人の気持ちを引き立てるようなことを言う。それも、口下手なのに一生懸命伝えようとしている気配があった。年上なのに、まるで年下の女のような幼さが垣間見えた。つい、リードしなければ、と焦る。
夕食は、特に希望もない様子なので、自分と相手の懐加減を見計らい、うどん屋にした。麺に腰があっておいしいと評判の名店である。会話も、紀子が利夫の趣味のことを聞いてきて、それなりに弾んだ。
食事を終えたのが八時近く。「もうすこし、ドライブしませんか」と誘う。自分なりにタイムスケジュールを立てていた。まずは自分の家を遠くから見てもらう。冬だから農地には葱や大根、白菜などしかなく閑散としているが、どのぐらいの資産があるのか知ってもらうのも一つの手だと教えられたからだ。確かに威張るほどの土地や家屋ではない。だが、恥じるものはひとつもない。あくまでも今後の生活ビジョンを暗々裏に伝えたいだけだ。
「もうボロ屋で、何とかしなくちゃならないと思ってんですけど。」
二つ並んだ建物は、母屋と農機具を仕舞っている納屋だ。遠くから見る我が家の明かりは、なんとはなしに感慨深い気持ちにさせた。独り言のように言った利夫に、紀子は黙ったままだった。まあいい、と、利夫は一人頷き、とりあえず互いの家の外観を確かめたことはなったということだけでこの日は満足することにした。
なにかもっと話をしなければ。
「あのもうちょっと、ドライブ、しない?」
紀子は左手首を返してちらりと時計を見た。それでもまだ八時二十分ぐらいだ。
「いいですよ」
その言葉に安心して、国道を進んだ。走りながら次はどこへ行こうと考え、北の方角を目指す。殆ど無意識のうちに、たいていの場合自分の磁石は北を指すと思われた。ただ運転するだけでも苦にならない性分だ。
「……あ、履歴書、……身上書、見て、どう思った?」
と聞いてみる。戸惑っているのか答えがない。
「高校卒業して、二年も経ってからうちを手伝い始めたんだけど、実はその間東京にいたんですよ。」
紀子が頷くのを視界の隅で見遣る。
「俺ね、教師になりたかったんだ。意外でしょう」
「学校の先生?」
「無理を言って予備校にも通わせてもらって、一年浪人して東京の大学に入ったんだけど、そのとき疲れがたまってたのか、俺、倒れちゃってね。」
「まあ――それは、ご両親も心配なさいますね」
「いろいろあって帰ってきたんだ。」
「後悔している、とか?」
「でも、納得して戻ったわけだから、別に悔いはないんだ」
そう、と、紀子が呟くように言う。しばらく会話が途切れる。
「身上書、っていうと、わたしもね」
紀子が話し出す。
「転職回数、多いんです。書かなかったけど。あんまり人付き合いが上手じゃなくて」
「や、俺もそうですよ」
「人に、何かしなければならない、とか、間違いを注意しなきゃいけない、なんていうと、すぐ心臓がどきどきしちゃって。過換気呼吸症って、わかります? 息を吸いすぎて、普通に呼吸することができなくなるの。パニック症候群とも言うかも」
国道のせいか、時間がそうなのか、大きなトラックが列を成して脇を掠める。
「それ、俺がそうですよ。畑に出ていると、うちの親と親戚のおじさんが言い争いになって。もう急に呼吸ができなくなって、救急車呼ばれたんですよ。苦しいのになかなか信じてくれなくて」
大変でした……と話した。
人柄を知るにはエピソードを多く聞きださなければならない。そのためには、こちらの心配談など笑えるマイナス点を小出しにしておいて、実は相手に自分を喋らせなければならない。これも利夫が学習したもののひとつだ。そして大事なことは“協調”することだ。意識をシンクロさせる事、お互いは同じ心を持っているのだと思わせること。
これはうまくいったと思ったし、相手も会わせようと努力しているのがよくわかった。――こうやって何事も協力し合えば、やっていけるかも知れない。誰もが結婚に対して言う、「結婚は忍耐だ」と。こんなふうに互いに気を使えば、うまく対処していけるかもしれない。そもそも見合いで結婚すると言うのはそんなものだ。大恋愛をして、熱情に浮かされ、欠点にも目をつぶって挙句不幸になるより、多少地味でも堅実な相手と誠実なセックスをしたほうがいい。――
車が少なくなる。明かりも少なくなった、と思った利夫に、紀子は「あの」と声を掛けた。
「随分遠くまで来たようですけど……どちらに行こうとしてるんですか?」
ええっ、と思わず険のある声を出した。いつの間にか県境まで来ていた。時間は九時を回っていた。
「特にどこって訳じゃないですが」
「ただ運転するだけって、辛くなりませんか」
「なりませんね。当てもなく車を走らせるのも楽しいです」
そういえば、ペーバードライバーだといっていた。必要上仕方なく車に乗る、というタイプなのだな。
「あした仕事ですもんね。戻りますか」
「そうしてください」
――なんだ、帰りたいなら言えばいいのに。確かにかなり遠くまで来てしまった。
雪がちらちらと降ってきた。フロントガラスを、左右に分かれて線を描くようにして飛んでゆく。車内がしん、と静まり返る。車の中は暖房が効いている。唇が乾いてきた。
「喉、渇きませんか? なにか飲んでいきません?」
紀子が言い、利夫は(自分と同じことを思っていたのか)と感激した。
午後の九時半。ようやく見つけた喫茶店で、紅茶を頼んだ。壁の作り棚に人形が飾ってある。紀子はそれらをちらちら見た。
「かわいいわね」
それは手の平に乗るほどの小さな女の子の人形だった。利夫もかわいいねと言ってみた。同じ感情を共有することが大事なのだ。そういう意味で、あえて同調した。
「ね、この人形、生きてるみたい」
なにやら思わせぶりな口調で言う。俺しょうじき怖い話って苦手なんだよねえと先手を打ってみる。
「俺、幽霊の出るバンガローの近くに泊まったことがあってさ。友達が肝試しに行ったけど、俺絶対行かなかったぐらい。」
「うちの高校にも怖い話があったわ。学校って、そういう話が多いですよね」
そうかな、と、思い返す。
「“開かずのトイレ”があったんです。自殺した生徒がいるとかで」
思いのほか、このひとは怪談話好きらしいなと利夫は思った。他の話より生き生きして見えた。
「それで、中がどんなふうだか見たくって」
「覗いたの?」
「そう。隣の個室からよじ登って。そしたら、だれも使ってないから全然綺麗なの。埃がうっすら溜まってるぐらいで。でもね。」
と紀子は少しもったいぶった。
「一番ぞっとしたのは、トイレのドアが内側からくぎで打ち付けられていたってこと。ぐるっと一周、細かく釘が打ってあったの」
「うわあ~~~~~」
話も怖かったが、そんな怖いことをする紀子がもっと怖かった。
すぐに閉店の時間になったので、その喫茶店を後にした。駐車場に向かった。その時、人影があったような気がした。客は自分たちだけと思ったので、何だか妙な気分になったのだ
「ちょっと、誰かいたような気がしない?」
紀子が「いませんよ?」と言いつつ辺りを見回す。そうかなあと呟きながら車のドアを開けた。乗り込もうと身をかがめた瞬間、
「こんばんは」
女の声がした。利夫はその声に「ウオッ」と叫んだ。
「……え? ほんとにびっくりしちゃった?」
紀子は目を丸くして、それでも利夫が頭を抱え込んでハンドルにうつ伏したのを見て、心配そうな声を出した。
「え、うそでしょう? そんなに驚かなくても」
「うわあ、今ほんっとに驚いた。ああ、運転できない」
「やだ、代わりましょうか」
大丈夫、とは言ったが、やたら気分が悪い。車を走らせるとすぐ、気分転換にCDを入れた。平井堅の「瞳を閉じて」が流れる。
「ダイジョウブ? 歌聴いて、気分直して」
「ほんっとおーに怖かったんだから」
まさか本気にするとは思わなかったのよ。とか細い声をしたが、「ほんとは私が怖いだけだったりして」と、また茶化すように言った。笑っている。その様子にまた、気分がささくれ立った。ごめんなさいの言葉がないじゃないか。かっとした。
怒るぞ! と、こぶしを振り上げてみせる。紀子は片手を挙げて防御の姿勢を取りながら、それでもまだ笑っていた。
「殴るならどうぞ。その代わり、私も殴るから。」
ひやりとした。そうだ。これは単なる冗談だったと思い直す。殴んないよ。とだけ言って、前を向いた。
女なんか殴らねえよ。
そう思いながらも、軽く頭に来たのは本当だ。極自然に、その後の会話はすっかりなくなった。そして紀子の家に着くまで、利夫はどうしようかと考えていた。
付き合うのか、付き合わないのか。
会話を振り返ってみる。感覚はずれているところもあったが、このぐらいなら近似値なのではないか。なにしろ会って二度目なのだ。今日などは初めてのデートと言っても過言ではない。とりあえず、まだ結論は早い。そうとなれば、次々と段取りよく行かなければならない。
「――え? 次……ですか?」
紀子は意外そうな声を出した。しばらく会社が忙しいんですけどという。
「あなたの勤め帰りに逢いましょう。また夜に電話します。八時ごろで。いいですよね」
紀子は利夫の積極性に押し切られた形となった。
それでも、雪の轍の中をゆく利夫の車を見送ることを、忘れなかった。義務のように。