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私小説  作者: 松永日枇木
過去
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過去

 八月十五日・水曜日。夜七時。

 玄関先に向かうと、母親の和子が台所から出てきた。

「どこへ行くのこんな時間に。」

 みやげ物の入った紙袋を掲げて、利夫は答える。

「正彦おじさんのところだよ」

 そういうと、和子は複雑に眉をひそめた。そんな表情をする母親を、利夫もまた複雑な思いで見返した。が、すぐに笑顔を取り繕った。

「別に、お土産を置いてくるだけだよ、なんてことないよ。」

 すぐ帰ってらっしゃい、という母に、うんともああとも言わず、家を出た。出たところで父親に会った。家は農業を営んでいるが、父の義孝は数年前脳梗塞で倒れて以来、以前のようには動けなくなった。回復したのち、健康のためにと始めたのがウォーキングで、ここ何年も夕食後の散歩を欠かさない。

「どうした」

「うん、お土産を持っていこうと思って」

 紙袋を示すと、そそくさに車に乗り込んだ。父親の視線が、何らかの意味を持って向けられていることは容易に想像できる。《なぜそんなところに行くんだ》と言っているめであるということを。



 利夫の叔父の家は、高台の風雅な場所にある。辺りは竹林で隣家とも距離があり、ひっそりと孤立した感がある。叔父は妻の両親とともに、婿養子として暮らしていた。

 利夫はいつものように裏庭に回ると、ガラス戸に向かって声を掛けた。

「こんばんは、叔母さん。」

 叔母の瑠璃子は、眼を見開いて急ぎ駆け寄ってきた。

「まあ! ……まあ、よく来てくれたわね。」

 どうしたのよ、玄関からお入りなさいな、などと言いながら、奥に向かって「お父さんお父さん」と呼ぶ。

 玄関を使わないのには理由がある。それはこの叔父夫婦からしてそうだからだ。玄関側は、年老いた両親が暮らしている領域だ。自分たちは後からやってきて住まわせてもらっている居候のようなもの、と考えている節が叔父夫婦にはあった。単に、お互いのテリトリーに踏み込むのは鬱陶しいというのもあるのだろう。それらを踏まえて、利夫は気を利かせているつもりだ。自分も、ここの老人達を好きになれない。気難しく、曖昧を許さず、誰に対しても正論を振りかざした。それらは偏執狂じみたものに、利夫には映っていたのだが。

「これ、おみやげ」

「まあまあ。ありがとう、いつも優しいのね、利夫ちゃんは。」

 瑠璃子は華やかな笑みを浮かべて、目を細めた。子どもにするように、顔を撫でる。嫌だともいえないで、利夫もまた、笑顔を見せた。傍らの正彦は、口元に笑い皺を寄せてはいるが、目は呆けたようにあらぬ方を向いている。もさもさとポケットをまさぐり、煙草を取り出す。それを目ざとく見つけて、瑠璃子は「お父さん、外。」と、冷たい声を出した。夫は素直に立ち上がり、表に出た。

《大変だなあ》

 利夫は正直言って、叔母のこの仕打ちをあまり快く思ってはいない。だが健康のため夫に煙草をやめさせようと、こんなきつい言い方をするのだろうと考える。

「ねえ、利夫ちゃんは煙草も吸わないし、お酒だって飲まないし、ギャンブルもしない、こんなにいい子なのにね」

 瑠璃子は言いながら、髪を撫で、肩をさすった。心なしか、目が涙ぐんで見えた。

「叔母さん、もうちゃんづけで呼ぶような歳じゃないよ。……いいこでもないし。」

「なに言ってるのよ、いい子だわ。」

 そして改まった口調で、付け加えた。

「――そうね。確かに大人になった。男らしくなったわ。」

 瑠璃子は利夫の手をきゅっと握った。

「男の色気を感じるわ」

 ……利夫は一瞬ぎくりとした。だが、叔母の表情は母親そのものだったので、心の中で自分の妄想を少なからず恥じた。

 瑠璃子は年齢の割りに若く見える。五十歳をすぎた頃だが、大きな瞳と色白のきめ細かい肌が美しい。

「私がお嫁に行って初めて会ったとき、あなたはまだちいちゃかった」

「そうだね」

「……お正月、家の人たちがみんな出かけてしまって、そのあと私と、うちのお父さんと、あなたと、三人だけになったことがあったわねえ。覚えてる?」

 その話は、何度も聞かされている。

 正彦と瑠璃子は結婚してから数年、利夫の家族と同居していた。肩身の狭い思いをしていることは、子供心にもよくわかった。正彦の収入も少なく、職も不安定だったからだ。

「あれって、僕が小学一年ぐらいだよね」

「そうよ、三人でバドミントンをしたわねえ。思い出すわ……」

 当時は手伝いの人間も含めるとかなりの大家族だったので、日頃から常ににぎやかだった。それが皆、他の親戚の家に挨拶に行くなり帰省するなりで一度にいなくなったので、妙にひっそりと静まり返ったのである。

「静かでいいねえ……って、……あなた、言ったのよ。静かでいいねえ……って……」

 当時を思い返してか、瑠璃子はしみじみと感慨深い声をした。他人ばかりが住む家にぽんと入れられて、淋しい思いを抱えていた叔母は、自分に同じ寂しさを見出していたのだろう。――利夫はそう考えている。家族として迎えられていながら、その実、赤の他人としてしか接してもらえなかった、と。

「あなたには、……幸せになって欲しいと思っているのよ。だってそうじゃなきゃ、報われないもの。幸せになるべき人なの、あなたは。」

 ひたむきな熱を帯びたまなざしに、利夫は萎縮して目を逸らした。

「あなたのお父さん、お母さんには、本当、口で言い表せないほどお世話になったわ。その恩返しがしたいの。あなたにはきっと幸せになってもらう。私がその手助けをする。きっと幸せにしてあげる。」

 瑠璃子の手が、利夫の大腿部に熱く乗せられている。彼は心まで硬くなった。

「ま、……前にもそう言ってくれたね。でも、……そんなふうに言われても……」

「ううん。あなたを愛してくれる人は、きっといる。必ずいる。私にはわかる。あなたは愛される人。愛することが出来る人。きっと出会える。引き合わせてみせる。」

 瑠璃子の瞳はますます輝きを増した。

《自分に暗示を掛けているようだ》

 利夫はその視線を振り切るように頭を振った。

 以前にも、その暗示にかかったがために自分も、そして他の人間たちも辛い過去を背負うことになったからだ。――そのときは、そんなことは何一つ考えなくていいのだと思った。叔母の言の葉に踊らされていたのを、純粋にありがたいとさえ思っていた。

 こんな自分に、見合いの相手を探してくれた。

 自分の行く末を案じてくれる人がいる。

 ――それだけで、充分だったのに。


「もう、それはいいよ、叔母さん。傷ついたのは、僕だけじゃないもの。」

 ひいっ、と息を吸い込む音が、彼女ののどから漏れた。

 ひし、と抱きしめられ、思いがけず豊かな胸の弾力が頬骨に当たる。

「――傷ついた。傷ついた傷ついた傷ついた! そう、あなたは傷ついたのよね。それなのに他の人を気にかけてあげるなんて、あなたはなんていい子なの」

 芝居がかったその声と動きに、利夫は軽く恐れを感じた。幼い頃から知っているこの叔母は、美しかったが時々言動に神がかったところがあった。霊感も強いらしく、見えないものが見えるようなことを言い、周りの者には不可解と思える行動も少なくなかった。今も彼女には何かが見えているのかもしれない。そう思うと、利夫の不快感は増した。だが、無下にも出来ない。こんなにも自分を思ってくれる人間は、他にいない。親でさえも、自分をこうまで思ってくれてはいないだろうとさえ、思えるからだ。

「……待ってて。任せてちょうだい。あたしに、全部任せて……待ってて……」

 瑠璃子の胸が大きく波打つ。幼い頃、母親代わりに抱きしめてくれた日のことが、おぼろげに浮かぶ。白い肌にうす青い血管の浮く、柔らかい乳房を吸った記憶……。

「ウン、……」

 ――利夫はかろうじて自分を押さえ込み、それだけをようやく答えた。



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