晩夏の夕暮れ
郷尾家は、いつものように静けさの中にあった。残暑の続く蒸し暑い夕暮れは、闇の気配を天蓋を任せつつあった。竹林からはサヤサヤと笹の葉の風に吹かれる音がしてくる。母屋はひっそりと暗い。見渡しながら、利夫は改めて思う。“寂しいところだ”と。
瑠璃子の趣味であるガーデニングは数年掛けてようやく形を成してきたところだった。玄関へと続く石畳の両側に、サルビアの花がラインを作っている。門の前には金属のバスケットに入った観葉植物にはwelcomeのスティックが刺さり、小さなソーラーライトがあちらこちらにうすぼんやりと光っている。青く沈む色彩の中で、ナスタチウムのオレンジ色が翳りを帯びて目に映る。突然、ガラス戸が開いた。
「利夫ちゃん、来たの」
瑠璃子だった。利夫は条件反射のように笑顔を見せた。いつものように、窓から部屋に入った。リビングのソファに腰掛けると、どっと疲れが出た。暑いわね、と、瑠璃子がぽそりと呟き、部屋を出るとすぐにグラスを片手に戻ってきた。コースターの上に置いたグラスが、ゴトン、と鈍い音を立てる。周りのあまりの静かさに、些細な音まで大きく聞こえた。麦茶の入ったグラスの表から、水滴が流れる。利夫の気分に合わせるかのように、部屋の電気はつけないままだ。
「叔母さんは、もう、知ってた……?」
「なにを?……」
「――彼女……紀子さんが、死んでしまったんだ。」
「なぜ?」
「わからない。」
低く呟いた後、利夫は黙り込んだ。窓の外で夕日の残影が血の様に赤く空を染めているのを、食い入るように見つめた。瑠璃子はそんな甥を急かすことなくじっと待った。
「……叔母さん。俺が人に愛されるなんて、あるんだろうか。」
「……なぜそんなことを言うの?」
促されるまま、瑠璃子の肩に頭を預ける。瑠璃子はいつものように利夫に優しい。
「自分では、誠意を持って相手に向き合いたいと思ってるんだよ。でも、その相手が見つからない。俺が真面目に考えてることを、みんな嘘だと思ってる。」
「まあなぁぜ? なにが嘘なの、どこが嘘なの?」
「――きっと、叔母さんにはわからないよ。……どこの馬の骨かも分からない生まれの人間の悲しみなんか、誰にも決して判らない……」
利夫ちゃん、あなた――という瑠璃子の声が、夕闇に沈んだ。
「自分は孤児院から貰われてきた子供だって知った時、正直驚いたさ。でもそれも小説とか、ドラマとか、まるで他人事みたいだった。それより、もっとドラマチックな感じがして、自分が悲劇の主人公みたいな気がして、面白がってさえいた。弟が……貴弘が俺が養子だと知って距離を置き始めたのだって、心の奥では悲しくなんてなかったんだ。むしろ、自暴自棄になって勝手に腹を立てているのを、傍でこっそり笑ってた。馬鹿じゃないかって見下してた。楽しんでたんだ。」
「楽しんでたなんて、……面白がってたなんて」
「そうなんだよ、叔母さん。むしろ養子でよかった、何て思ったときもあった。何かに付けて気を使ってくれる。そうだったろ? 親でさえも養子であることに引け目を感じて財産さえ俺に相続させようとしてくれてる。長男だからって。長男として育てたからって。本物の実の息子を差し置いて、氏素性の知れない、赤の他人の血を優先させようとしてくれてるんだから。ははっ」
その声は乾いて空しく響いた。瑠璃子の瞳が揺れ、その手は利夫の腕に添えられた。
「利夫ちゃん、利夫ちゃんちょっと待って」
「……なんだかんだ言っても、家を継げとか、農家をやれなんて、とんだプレッシャーだよ。俺は時々押しつぶされそうだった。今もそうだ。」
「利夫ちゃん。何事も悪い方に捉えちゃいけないわ。そんな、“氏素性の知れない赤の他人”だなんて……お父さんお母さんが聞いたら悲しむわよ」
「いや、思ってるさ。俺の中に流れる血……どんな人が親だったのか、全くわからない。……もしかしたら、殺人鬼だったかもしれない。そうじゃなくても暴力を振るっていたかもしれないし、子供を虐待していたかもしれない。なにせ子供を捨てるような人間なんだから。奥さんになった人を大事にしないで、浮気ばかりしていたかもしれないし、女を食い物にするような、そんな商売をしていたかもしれない。悪い人間の子供かもしれないんだ。だから人に好かれないし、彼女も出来ない。結婚も出来ない。違うだろうか。」
利夫は自分の膝を強く摑んだ。その手が震えているのを、瑠璃子は見た。
「俺は、愛する人が欲しかった。人を愛したかった。俺という存在を、ありのまま認めて欲しかった。それだけだった。」
「…同じことを言ってるわ、あなたたち。」
「紀子さんがそうだった。自分は愛されない、愛することもない人間だって。似てたのよ、あなたたち。だから合うと思ったの。」
“私、呪を掛けられているんです”
そんなことを言った紀子のことを思い出した。
「だから引き合わせてあげたかった。あの人に話を持って行った夜から、ずっと思ってた。この二人なら“合う”って……」
「……でも……合わなかった。彼女にしてみれば、俺は“対象外”って訳だ」
「余計なことをしたわね。一生一生謝り続けるわ」
瑠璃子の手が、利夫の腕を逆上がる。肩を撫で、髪を撫でる。
慈しみの吐息が洩れる。利夫は、嘗てしたように瑠璃子の胸に顔をうずめた。
「そうだおれは何一つ悪くない。俺に悪いところなんて一つもない」
ギチギチと何かが軋む音が絶え間なく続く。
高揚した顔の、眉間の部分が更に朱に染まっている。荒い息づかい。息を吐く音が重なる。
感じる角度を求めて、探し回る。回す。突き上げる。
「俺は悪くない――――――!!」
「いつだって来て頂戴ね、利夫ちゃん。いつだって私は、あなたの、味方、なんだから」
瑠璃子は利夫の耳元で、何度もそう言い続けた。
利夫のためならなんでもする。昔からそう思ってきた。自分の体を投げ打ってでも、全て真正面から受け止めてやろう、時には盾になり、時に真綿のように包んでやろう。……
瑠璃子は深い感動を覚えていた。自分は、このときを待っていたのだとさえ思えた。




