Doppelganger
――ドッペルゲンガー。
自分とそっくりの姿をした分身。自己像幻視。第三者によって目撃されるドッペルゲンガーの事例もある。
「……ドッペルゲンガー、か」
独り事典と向き合い溜息をつく。忙しい日々がなんとなく流れ、気づけば翠を見送ってから五年目になっていた。三十路ももう半ばを迎えようというのに、まだそんなものが燻っているとは思わなかった。
それを飲み下そうと、ウィスキーを注いだグラスに手が伸びる。
「痛って」
唇の傷に沁みたウィスキーが、穂高にそう叫ばせた。
「あのヤロ、思い切り噛みつきよった」
誰もいない気楽な書斎の気楽さからか、ストレートな愚痴がつい零れ出た。
――克美も辰巳を見た癖に。
真夏の夜の夢、と笑い飛ばすには、あまりにも悪戯が過ぎた。誰の、という穂高の自問に答えるモノは何もない。
「いっそ殴られて批難される方が、よほど気が楽やったな」
それは泰江への、八つ当たりに近い批判だった。下手な言い訳をやり過ごした彼女は、何もかもお見通しだった。
『個性の強い人達だったから、ドッペルゲンガーにされたお互いが可哀想だね』
その答えとともに浮かべられた同情の苦笑が思い出され、穂高に眉をひそめさせた。
幼稚園だったこれまでのように気楽に考えていてはダメ、とうに望の物心がついているから。薫のそんな危惧の声もあって、穂高と泰江はこの春に入籍した。
だからと言って、何が変わるという訳ではない。
心理士の免許を取った泰江に、カウンセリングサロンを兼ねた部屋として自宅マンションの二階を買い与えていたので、望はこれまでどおり、穂高の不在時は日中をそこで過ごしてから、この部屋で泰江に見守られて眠る。穂高が帰って来れれば、上階のここで父と過ごす。うがった見方をすれば、もう何年も通い婚に近い生活をしていたとも言える。だがそこにあるのは“望の保護者”としてのお互いだけで、夫婦としてのそれはまったくなかった。それは、今後も変わらない気がする。泰江は入籍後もそれ以前と変わりなく、当たり前のように挨拶を交わして二階へ帰っていく生活だった。
便利になったことと言えば、望に関する諸々の手続きに委任状の必要がなくなったことと、何かとやかましかった周辺が静かになったこと。そして何より気が楽になったのは、望がほかの子と同じように、泰江を「母」だと単純な説明が出来るようになったことだ。薫の心配がわからないでもなかった。穂高にもそう感じられるだけの変化が時の流れに従い育っていた。
密やかな楽しみは、相変わらず翠の映像を眺めること。彼女に恋焦がれる想いも、以前より随分懐かしいものへと変わっていた――はずだった。
子供達が小学校初の夏休みを迎える頃。毎年長期の休みになると、こちらへ芳音が来るか、望が信州の別荘へ赴き、大人達で提供する再会のひとときを満喫する。大人達の勝手に振り回されてしまった彼らへのささやかな償いのつもりだった。彼ら自身の行き来はあったが、芳音がこちらへ来る時、克美にも来るよう毎回声を掛けても、彼女はいつも遠回しに断り続けて来た。
「克美も来る、って?」
今年は色よい返事をもらえたと泰江から聞いた時は、思わずそう訊き直した。
穂高は彼女が来ない理由を、自分の所為だと思って来た。穂高は彼女の唯一無二とする存在と面差しが似ている。そんな自分と会えば、嫌でもその不在を思い知る苦痛を彼女が味わう。電話で時折彼女と話す時の声音でも、彼女の中にそんな不安と自覚から来る懸念が燻っていると感じていた。
「東京湾の花火大会を見たい、って。子供の頃、辰巳さんのマンションから見損ねたことがあるんだって。彼女からその名前が普通に出たのが、なんだか私、すごく嬉しくって」
泰江のまあるい笑みが、安堵と喜びを穂高に伝えた。克美が前を向く気になれたのだと思うと、穂高も泰江のそれに釣られた。
「いつ来るって? 俺も休暇の調整を取っておく」
また昔のように口喧嘩が出来るかも知れない。例えるならば、兄貴と妹のような感覚で。最後に見た克美の笑みは、無理やりかたどった寂しげなものだった。それを見た瞬間、穂高は望を連れ帰ることが、克美に対する加害ではないかという錯覚に陥った。未だに忘れられないその感覚は、決して心地よいものではない。克美の泣き顔は、翠を連想させる。そのまま消えてしまいそうに見えて、平常心を乱される。
オレンジの果実が弾けるような笑みを知っているだけに、穂高は早く克美のそんな笑顔を見たかった。
辰巳が死んでから、七年。まだ翠との約束が果たせていない。
――克美ちゃんを、お願いね。
彼女が前を向いて歩けるような手助けを。今となっては克美を閉じ込める鳥かごにしか見えない『Canon』から飛び立てるように。
翠のその願いを叶えてやれたら、今度こそ本当の意味で、皆が心からの笑みを浮かべて過ごしていける。
克美の来訪、その知らせが穂高にそんな淡い期待を抱かせた。
守谷親子が上京したら、温かく出迎えるつもりでいた。
『うわーっ、ホタ、久し振りっ。来ちゃったっ』
新宿まで迎えに行くから到着予定時刻を連絡しろと言ったのに。唐突にドアホンが来客を知らせたかと思えば、監視カメラがマンションのエントランスで佇むミニ辰巳とその母親を映していた。
「お前ら、人の話をスルーかぃ」
呆れた声でそう答えつつ、自動扉のロックを解除する。ブツンと映像が切れると同時に、穂高の口角がゆるりと上がった。
「芳音、来た?」
穂高の応対を聞きつけた望が、子供部屋から顔を出す。
「来た来た。泰江ママにも言うといて」
穂高は部屋で宿題を見てくれていた泰江にも、そんな形でふたりの来訪を知らせた。
一年振りに穂高自身が芳音を出迎えたことになる。
「お前、また背が伸びたな」
「うん、一四〇センチになった」
そう呟く声は小さい。その理由を考えると、穂高にも覚えのある悩みで苦笑が漏れる。
「中学になれば、逆にそのタッパが強みになる。せやさかいに、あまり気に病むな」
携帯電話の機種変更をしようと考えたこの春、古い携帯電話を芳音に与え、契約そのものは入学祝代わりにプレゼントした。その電話を使っての、第一便のメールが「身長の所為で、何かと誤解される」という悩みだった。
「まだ上級生にいちゃもんをつけられとるんか?」
「う……ん。でも、クラスに友達は出来た」
そんな会話の途中で、克美が遅れて顔を出した。
「ども、ご無沙汰。お世話になりまっす」
青白い顔が無理やり笑みをかたどり、形式的な挨拶を口にした。その手前で芳音がぎくりと肩を揺らす。
(母さんにはナイショだぞ。心配掛けるから)
唇だけでそうかたどる芳音が、多恵に気遣う幼い頃の自分と重なった。彼の話は気になるが、今はその話題を棚上げするしかなさそうだ。視線を芳音から克美に移し、彼女に声を掛けることで芳音に了解の意向を告げた。
「うっす。顔色が悪いな。体調がよくないんか?」
そう言って彼女から手荷物を受け取り、ふたりを中へ促した。
「さんきゅ。ただの人酔いと、暑さ負け」
背後からのその声に、一度視線を戻して問う。
「水族館でイベントをしてるさかいに、午後からでも連れて行ったろうかと思ってたけど、今日はゆっくりしとこか?」
「うん。東京って蒸し暑いのな。ちょっとボクらにはきつ……のんっ!」
話の途中なのに、突然克美の青白い頬に紅が差した。
「克美ママーっ」
穂高が声の方へ振り返れば、望の駆け寄って来る姿が目に映る。
「四ヶ月振りーっ!」
と望が思い切り穂高を突き飛ばし、克美に向かってジャンプした。翠譲りの栗色の髪が、小さな天使の翼のようにふわりと広がった。同時に淡いピンクのスカートが裾を翻らせた。
「って、こらお前らぁ!」
守谷家に未だしつこく居座っている特異な挨拶。穂高はその腹立たしさから、嬉しげに克美にしがみついて口づける望とそれを許している克美の両方に怒声を上げた。
「あ、そっか」
下方からそんな呟きが聞こえたかと思うと、ぐいとシャツの裾を引っ張られた。条件反射で身を屈めると、
「ホタ、こんにちは」
と芳音から共犯者に仕立て上げられた。
「……男からされても嬉しくないっ」
不快に満ちた感触が、穂高に低い声を絞らせる。
「ホタは相変わらずだなあ。母さんはのんを取らないから、妬きもちなんか要らないのに」
「いやだからそうじゃなくてだな」
そう零しつつも、芳音の
「とか言って笑ってるし。だから僕、ホタも好き」
なんて甘えた声でにこりとされれば。
「……ここは日本やぞ。まったく」
深い溜息とともに、説教を諦めるしかなかった。
「のんっ、やっと四ヶ月過ぎたっ」
「うんっ、やっと夏休みが来たねっ」
「だ、か、らっ! すんなぁっ」
怒髪天を突く、という諺が脳裏を過ぎる。穂高は目の前で“家族のキス”とやらを交わす望と芳音の間に割って入り、容赦なく全力で引き裂いた。
「口と口は絶対禁止っ! 望、パパとはせえへんやんか!」
「パパは煙草臭いから、絶対にイヤっ」
「……」
やはり守谷流のそれは性に合わない、と思った。
通知表を見せ合って張り合う子供達に笑わされ、克美と泰江のやり取りが意外と掛け合い漫才のようで面白いと気づかされ。
こんな機会でもなければ日頃の様子をここまでつぶさに知ることは出来なかった。
「やっぱ、あづい。もっと薄手の服を持って来ればよかった」
幾分か動けるようになったのか、ソファで横になっていた克美が、起き上がって手荷物を漁り始めた。そんな彼女の服装と言えば、七部丈のジーンズに薄手のソフトシャツの袖を折り曲げた恰好で、その下から透けるプリント柄がTシャツも着込んでいると窺えた。
「向こう仕様で来るからや。夜はもっと蒸すで」
「マジか。ノースリーブなんか持って来てないやっ」
そう叫んだかと思えば、「う」と言葉を詰まらせる。
「ぎもぢわどぅい」
「早よトイレ行けっ」
「行ぐ……っ」
(手の掛かる女やな、しかし)
辰巳や芳音の気苦労が、少しだけ解った気がした。
「泰江」
克美の様子を確認してから、リビングへ戻って来た彼女に声を掛けた。
「はい?」
「翠の服、克美に貸してやれるか?」
「あ、うん。風はとおしてあるから、克美さんさえよければ」
いいの、と訊かれて戸惑う視線がじっと穂高の目を見つめる。
「別に。処分してええよ、って言うてあったやん」
「うん。でも、本当にいいのかな、って」
そう言って俯く彼女の頭をくしゃりと撫でた。
真っ白な顔色でトイレから出た克美にも同じことを言えば、今度は吊り目を一層上げて怒られた。
「おま、まだ置いてあったのかよ」
「片づける時間がないだけっつうか、めんどい」
「ふざけろバカ穂高」
「あ、ほら、克美さん、こっちこっち」
泰江が克美の手を引き寝室へ入ると、その扉が穂高の反論をパタンと拒絶した。子供達は子供部屋から一向に出て来る気配がない。
「……何、この損な役回り」
そんな穂高の小さな繰り言さえ、時計の秒針を打つ音に掻き消された。
放置プレイを食らってから、多分十分と経っていない。
「翠の服って、こんなんばっかだったのかよ」
そんな声とともに、寝室の扉が開いた。
「!」
真っ白なフレアワンピース。ぬけるような肌と同化する。頼りなさげな細い肩を、レースのカーディガンが慎ましやかに隠している。夏の陽射しで焼けた濡れ羽色の髪が、窓から射し込む西陽で穂高の目だけに栗色を見せた。
「あ。穂高、やっぱりホントは怒ってる」
そんな探りを入れる言葉までが、翠がいつか紡いだ言葉そのもので。穂高は一瞬言葉を失った。
「やっぱ自分の服でどうにか凌ぐ」
くるりと天使が踵を返し、今にも飛び去らんとばかりに髪が舞う。
「ええからっ」
「穂高?」
なぜ叫んだのか、穂高自身でも解らなかった。
「あ、いや。下手に我慢されてぶっ倒れても、お前は普通の病院に掛かられへんやろう」
「あ、そか」
東京は殺人的暑さだな、という他愛のない話に相槌を打つので精一杯になっていた。
(……びっくりした)
一瞬、克美を翠と見間違えた。
夜も更けて子供達が子供部屋で寝静まり、大人三人にほどよくアルコールが回った頃。
「うわ、もうこんな時間」
泰江のそんな切り出しが、お開きの時間を告げた。
「せやな。朝一番でテーマパーク、って言ってたよな、チビども」
「だな。寝坊したら当分拗ねられそうだ」
顔を見合わせ苦笑を交わし、克美と泰江が腰を上げた。
「克美さん、洗い物をお願いしていい? 私、お布団を用意して来るね」
「らじゃ。ありがとう」
そんなやり取りをBGMに、穂高は名残惜しげにもう一杯ウィスキーをグラスに注いだ。
「それじゃあ、おやすみなさい」
泰江がいつものように、リビングにいるふたりに向かってそう挨拶を残して踵を返した。
「え?」
克美がそう言いながら、穂高を鋭く見つめる気配がする。彼女と視線を合わせずに、泰江に向かって「おやすみ」とだけ声を掛けた。
「泰江」
その声を最後に、克美もリビングから消えた。玄関先で囁き合う声が聞こえる。何を話しているのかまでは解らないが、妙に苛立ちが増していった。
「余計なお世話だ」
この形態は、穂高が望んだものではない。なのに周囲は自分だけを責める。やっと薫を黙らせたのに、思わぬ伏兵からの不意打ちを食らった心境だった。
穂高のウィスキーを空けるペースが次第に速くなっていった。
廊下とリビングを隔てる扉の開く、ぼんやりとした小さな音が穂高の耳を掠めていった。
「ビール、もらうよ」
平坦なアルトがそう言い放ち、穂高の答えも待たずに冷蔵庫の開閉する音が漏れた。
「穂高」
呼び掛けのあとに、プシュ、というプルタブが開く音。おもむろに視線を上げてみれば、声の主が二重に見えた。
「翠がお前に宛てたディスク、どうした?」
尖る声音に苛立ちが増す。同じ声、同じ表情で咎める相手は翠ではないと解っているのに。
「……」
答えられなかった。
――いつか思い出にしてくれるわよね。縛られないでね。
儚い微笑が、泣きそうな顔で穂高に乞う。
「捨てて、ないのか」
「余計なお世話だ。それより」
そんな説教はたくさんだ、と思っていたことは確かだ。だが逸らした先の話題は、前々から克美にもう一度打診しようと思っていたことでもあった。だから悪びれもせずに彼女を見据え、二重に見える吊り目をまっすぐ捉えて批難がましい命令をした。
「人に偉そうな説教をする前に、自分こそどうなんや。またプロポーズを断ったそうやな。とっとと芳音を俺に寄越して、お前は自分の人生をやり直せ。芳音の悩みのひとつも気づいてなんかおらん癖に」
再度の打診ということと酔いで抑え切れなくなった苛立ちが、穂高に余計なことまで喋らせた。
「悩みって、なんだよ、それ」
「学校で上級生に睨まれてること。教師には実年齢以上の扱いを暗に要求されてること。それに応えられないことで、あいつは教師から、ふた言目には『身体ばかり大きくても』と説教をされてるんやで。それと、お前自身のことも負担になってる。自分がいる所為だって、あいつはまだガキの癖にお前の心配ばかりしてる。芳音は男や。男親の方が母親よりも必要なはず。お前には荷が勝ち過ぎる。芳音を俺に寄越せ」
克美が返す言葉もなく蒼ざめる。勢いを借りるとばかりに二本目のビールをあおる姿が穂高の視界の隅に映った。
「余計なお世話だ」
同じ言葉を返された。そして空になったビールの缶が、緩い勢いで飛んで来た。幾重にも見えるそれをどうにかキャッチして、乱暴にテーブルへカツンと置く。
「芳音の話じゃ、お前を子供の頃から知ってる気のいい男らしいやんか。あいつもその男なら父親と呼べるって」
「黙れっ」
突然彼女が立ち上がり、大きな声で穂高への反撃に出た。
「ボクはお前と違うっ。ほかの人が住んでるまんま、違う人となんか何食わぬ顔で過ごせない」
勢いよく立ち上がったものの、旅疲れと人酔いに加え、急なアルコール摂取が彼女の酔いを早めたらしい。ふらりと傾いたかと思うと、踏み込んだ彼女の脚がフローリングの上を滑った。
「おぁ?!」
「阿呆っ」
穂高も咄嗟に立ち上がっていた。一気に視界がぐるりと回る。
(やべ。俺も回っとる)
気づいた時は、自分も身を崩していた。辛うじて彼女の腕を掴み寄せ、床から食らうはずだった直接のダメージは避けられたが。
「克美?」
仰向けに倒れた所為で、後頭部が痛い。だがその鈍い痛みよりも別の場所の方が激しく痛み、穂高の憤りを別のものにすり替えた。
「……お前が、言うな……っ」
か細い声で、克美が途切れ途切れに訴える。その顔で、そんな声で、同じことを言うなと、泣く。
「……泣くな……」
どこかでやめろと警笛が鳴る。今すぐ身を起こして、彼女から離れろと誰かが命じているのに。
「……泣かれると……」
細い肩がむせび泣く。堪えた末に溢れるモノが、華奢な細身を震わせる。栗色の毛先が小さく揺れて、翼をはためかせたように小さく震える。そんな錯覚が、酔った穂高の目に焼きついた。消えそうな儚さが、守りたいと思わせる。
「……忘れるとか、ムリ。……だって……」
――出逢った瞬間から、最初から、本当は好き、だったんだもの。
焦がれた天使が、やっと帰って来た。同じ声、同じ言葉が、穂高にそう思わせた。
「やっと……帰って、来た」
気づけば呟いていた。不意に向けられたその吊り目の下で、薄桃色が広がっていく。
「帰って、来た……?」
彼女が同じ呟きを繰り返す。彼女は、誰だ。酔った頭で考える。
「よかった……夢、だったんだ……」
甘ったるく耳許で囁かれたそれが、穂高に夢ではないという温もりを感じさせた。幾重にもぶれた輪郭で見えていたものが、更にぼやけて曖昧になる。
「今度こそ、離れないんだから」
何度も悔やんだ穂高のそれを、彼女が初めて願い出た。
「もう、手離したりなんか、しないでよ」
もっと早く気づいていればよかった。翠のささやかな変化の理由を。辰巳を忘れられなくて信州へ帰った訳じゃない。青臭い闘争心や嫉妬心で心の目が濁っていて、そんなことにも気づけなかった。
「……ごめん」
奥底で燻り続けていた後悔が、穂高に懺悔の言葉を呟かせた。
懐に納まる懐かしい温もりを力いっぱい抱きしめる。くるりと身を翻して柔らかく彼女を押さえ込めば、名残惜しげに細い身体がしがみついて来た。触れ合った頬に、彼女の涙を感じ取る。それに誘われるまま頬を滑らせると、彼女がわずかに唇を開いた。
「ん……」
小さな吐息混じりの呻きが、燃料と化す。取り零した時間を取り戻すとばかりに、貪欲なまでに互いを食み続けた。
今度こそ帰すものかと、心の中で何かに抗う。飛び立つ翼を手折ろうと、彼女の唇を貪ったまま肩に手を滑らせた。すべらかな素材のカーディガンは、彼女と穂高の動きにひとつも抗わず、あっさりとその任務を放棄した。脱がせ慣れたワンピースのファスナーを手探りで引き下ろす。傷ひとつないきめ細かな背中に這う穂高の掌が、滑らかな肌を認識させた。
(ち、がう)
同時に自分の首筋に絡められた腕がぴくりと一度揺れて、止まった。
「!」
途端、唇に肉の砕かれる小さな音が、激痛とともに走った。思わず彼女の長い髪を強く引いて身を剥がした。
「……ボクは、翠じゃ、ない」
上がる息を殺しながら、噛み砕くように呟かれた。
「……俺かて、辰巳やない」
彼女の彷徨った腕は、確かに辰巳の長い髪を探していた。
空調で快適な温度だったはずのリビングに、妙な冷気が滑り込む。強張る彼女を解放し、むき出しの背を包むべきワンピースのファスナーを引き上げた。
「……って、責任転嫁は見苦しいな。俺が飲み過ぎた。悪い」
今度は彼女の頭だけを軽く抱え込む。まともに顔など見れなくて。克美が拒むのならそう出来るように、緩い力で抱き支える。
「……ボクも、飲み過ぎた。ごめん」
克美の頭がことんと穂高の胸に自重を預けた。
「……帰って来てくれたのかと、思った」
「あのおっさん、死んでもお前を離さへんつもりかぃな。いい加減に、忘れろ」
「全部、ボクが悪いんだ。きっとまた北木さんから逃げた罰。穂高を巻き込んで、ごめん」
「北木?」
「プロポーズしてくれた人」
大好きなのに、男として見れない。辰巳以外の前では、女になれない。克美は独り言のようにそう零した。
「四回目なんだ。どうしても兄貴みたいな風にしか思えない。また傷つけちゃうって思うのに……北木さんといると、辰巳を思い出す。だからつい甘えちゃう。なのに、応えられない。……すごく、ヤな奴だ、ボク」
そこにいるのは穂高の焦がれてやまない天使ではなく、不器用な妹分という存在だった。
「その北木って奴は、泰江みたいに、それ込みでお前をホールド出来る奴なんじゃないか?」
「だとしても、ボクがそれを許せない」
「芳音が辰巳を思い出させるからと違うのか」
今日三度目の言葉をダメ元で口にした。
「お前はまだやり直せる。自分の人生をやり直せ。辰巳の作った鳥かごなんかで、いつまでも縮こまってんなや」
「……芳音はボクと――辰巳の子だ。穂高の息子じゃない。渡せない」
それが克美の答えだった。ゆっくりと身を退いて客間へ向かう彼女に、それ以上言葉を掛けられなかった。
翌朝、克美は独りで帰っていった。
「やっぱり店が気になるから。芳音、お前はゆっくりさせてもらいな」
引き止めることなど出来なかった。子供達もなぜか不満を口にはしなかった。ただ泰江だけが、彼女を自分の部屋へ引き入れようと小さく足掻いた。彼女のその目は、観察の鋭さを伴っていた。克美にもそれが解ったのだろう。誘いを固く辞退し、それでも笑みを浮かべて去っていった。
「パパさん、飲み過ぎたでしょう。ゆっくりお休みしてていいよ。私が芳音君とのんちゃんと一緒にテーマパークを楽しんで来るから」
泰江はそう言うと穂高の返事も待たずに、子供部屋へ行ってしまった。
「……何、この損な役回り」
昨日とはまったく重みも意味合いも異なる感覚で、同じ台詞を口にした。
その夏以降、芳音と会うことまでが叶わなくなった。
あの日の昼、克美からメールが届いた。
――やっぱりボク達は会わない方がよさそうだ。今までありがとう。
甘えてるから、穂高に色々誤解させたんだと思う。ボクだってちゃんと芳音の親をしてる自覚も自負もある。もう穂高の支援は要らない。
芳音の携帯、解約しておいて。
穂高にばかり我慢させるのはアンフェアだから、ボクものんと会うのは我慢する――。
返信はしなかった。納得なんか出来なかったから。
何もかもをお見とおしな出来過ぎる後妻は、あの日子供達を寝かしつけてから、リビングに戻って来て穂高を自分の隣に座らせた。
「あ~、えっと、別に俺、疚しいこととか、ないし」
「焦らずに、時間が思い出にしてくれるのを待とうね、穂高さん」
そう言って苦笑しながら、穂高の頭を子供のように掻き抱いた。
「……」
「まだ、四年と少ししか経ってないんだよ。穂高さんにとって翠ちゃんは、そんな簡単に割り切れる存在ではなかったでしょう?」
泰江の紡いだその声は、限りなく優しかった。
「……堪忍」
「辰巳さんにしても翠ちゃんにしても、個性の強い人達だったから、ドッペルゲンガーにされたお互いが可哀想だね」
柔らかな声が少し険のある声に変わり、穂高に決して抜けない杭を突き刺した。
「私ね、今でもやっぱり、翠ちゃんを好きな穂高さんが好き。でも、ほかの人を巻き込む穂高さんはイヤだよ? 私が克美さんと芳音君を見守っていくから、穂高さんは自分のことに専念しててね」
何ひとつ言い返せなかった。芳音のことを諦めるしかなかった。
今でもまだうっすらと跡の残る、翠が最期に残した肩の噛み傷。それが今でも時々疼く。
――思い出にしてくれるよね、って、言ったのに。
あの夏以来、その疼きが翠の自分を責める言葉に感じられて痛かった。
芳音は穂高にとって息子に等しい存在だったが、今は間接的に見守っていくと決めた。まだ互いの恋人のドッペルゲンガーを見て揺らぐ内は、克美と会うべきではないと痛感した。
「笑って……か」
いつ克美に本当の笑みが宿るのだろう。どうしたら辰巳から彼女を解放してやれるのだろう。
そう考えては頭を振る。まずは自分だと自分を戒める。今の自分が出来ることは、自分を確立させることしかない。
時流れ、最愛の天使の願いが叶う時。全ての人に幸舞い来たる時。
「それまで家族が全部そろうのはお預け、か。……キツいな」
仕事以上の高いハードルに、穂高は知らず溜息をついた。