侯爵家でのエレンの日常
重厚なマホガニーの扉が、音もなく開く。
私は両手で銀のトレイを支え、磨き上げられた寄木細工の床を踏みしめるようにして私室へと足を踏み入れた。
ここは、アストレイア侯爵家の当主――ルイス・アストレイア様が執務を行われる「深緑の間」だ。
国政の枢機に携わり、冷徹無比、誰に対しても一切の隙を見せないことから『氷の貴公子』と称されるお方。
今日も今日とて、山のように積まれた機密文書に囲まれ、その美しい横顔には絶対的な静寂が張り付いていた。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
声のトーンを均一に保ちながら頭を下げる。
上級メイドである私に許された役割は、影のように存在を薄くし、ただ主人の日常を滞りなく支えることだ。それ以上でも、それ以下でもない。
ルイス様は、羽ペンを止めることすらなかった。
漆黒の瞳は書類の文字を捉えたまま、低く、しかしよく通る声で呟く。
「……遅かったな、エレン。三十分と十五秒だ」
心臓がわずかに跳ねた。
だが、表情筋は微動だにさせない。
「大変失礼いたしました。中庭を通りました折、美しく咲き誇る薔薇に目を奪われ、つい歩みが緩んでおりました」
言い訳ともつかないそれを告げると、ルイス様は初めてペンを置き、冷ややかな視線を私に向けた。
「薔薇か。……我が家の庭に咲く花に心を奪われるとは、随分と余裕だな。それとも、私の領地で暇を持て余していると見えるか」
なんて物騒な表現だろう。
けれど、それがこのお方の通常運転だ。冷酷な言葉の裏にある、微かな退屈と、過剰なまでの警戒心。
「いえ、その薔薇は誰に咎められることもなく、ただ誇らしげに咲き誇っておりましたよ。ルイス様のように」
「……っ」
不意打ちだったのだろう。ルイス様の眉が微かにぴくりと動いた。
私は慌てて視線を伏せ、彼の右手側に、特製の銀のポットから淡い琥珀色の紅茶を注ぐ。
その手元に置かれた、薄手で繊細な耐熱ガラスのカップとソーサーが、かすかな震えでカチリと澄んだ高い音を立てた。まるでわずかな衝撃で砕け散る硝子細工のように、彼が纏う厳格な仮面は張り詰めている。
「口が過ぎるぞ、エレン」
声にはわずかなトゲがあったが、その実、非難の色は薄い。
ルイス様はカップを手に取り、香りを確認するように鼻を近づけた。
「……今日のブレンドは、いつもよりベルガモットの香りが強いな」
「はい。今朝のルイス様の執務の負荷を考慮し、神経を鎮めるハーブを多めに配合いたしました」
「……ふん。私の体調まで勝手に案じるか。上級メイドとしての仕事を超えた、過剰な配慮だな」
そう言いながらも、彼はカップに口をつけ、ゆっくりと喉へと流し込んだ。
張り詰めた硝子細工のようだった彼の表情に、ほんのひととき、緊張が解ほぐれる瞬間が訪れる――私はその一瞬の隙を見逃さない。
この高位貴族が纏う圧倒的な重圧と孤独。そのすぐ隣で、ほんのわずかな言葉を交わし、こうして彼の一番近くの日常を覗き見るのが、このお屋敷で働く私のささやかな愉悦なのだ。
「お気に召していただけたようで何よりです」
私は再びトレイを胸の前に抱え、完璧なまでのカーテシーで深く頭を下げた。
「……退がっていい」
ルイス様の声には、先ほどまでの刺々しさはすっかり消えていた。
ただ、どこか名残惜しそうな、けれど気恥ずかしそうな響きが混ざっているのは――きっと、気のせいではないはずだ。
私は静かに扉を閉め、侯爵家の長い廊下へと戻った。
明日もまた、この美しい檻の中で、彼の一番近くの日常が始まる。




