第三章 月下の悪夢
午前一時三十分。山道は月の光に薄く照らされていた。睦雄の影が、狐火のように揺らいで見える。懐中電灯の光が暗い小径を切り裂く。その光は、生命を照らすのではなく、死を指し示していた。
最初に訪れたのは、自分の家だった。
なぜそこから始めたのか。後に睦雄は供述した。
「親不孝の気持ちがあった」。
だが、それは虚偽だ。供述とは、他者に『自分は悪い人間ではない』と認めさせるための虚言である場合が多い。事実は、もっと複雑だった。
自分の家こそが、すべての苦しみの発信源だと思ったからだ。貧乏な家。病弱な自分を産んだ親。兄弟との比較。「お前がいるから飯が足りない」という父親の言葉。そこにすべてがあった。自分の人生の不幸は、この家から始まった。だから、この家から始めるのだ。そういう『象徴的な完全性』を、睦雄は求めていたのだろう。
祖母いねは、炬燵の中で眠っていた。七十五歳。人生の大半を、小作農の妻として生きてきた女だ。貧困の中で、何度も何度も、息子たちを産んでは、その子どもたちの将来の不確実性に怯えてきたに違いない。その祖母に、睦雄は何を感じていたのか。
同情か。憐れみか。怨恨か。
いや、おそらく何も感じていなかったのだろう。祖母は、単なる『最初の獲物』に過ぎなかった。彼女が人間であるという認識は、睦雄の中にはもう存在しなかった。
睦雄は、斧を持ち上げた。その重みを改めて感じた。これが、自分の破壊の始まりだ。これが、村への宣戦布告だ。そう思いながら、彼の手は上がった。
刃が振り下ろされた瞬間、祖母の目が開いた。
睦雄と目が合った。その瞬間、何が起きたのか。祖母は何を思ったのか。孫の顔に浮かぶ狂気を見て、何を感じたのか。『こいつは、自分を殺すつもりだ』という認識は、祖母にあったのか。それとも、すべてが一瞬の出来事で、何も理解されずに終わったのか。
だが、思考する時間は与えられなかった。
首が刎ね飛んだ。
その一瞬の光景は、おそらく人間が経験できる『最後の見世物』だったはずだ。自分の体から分離する首。その視野に映る天井。急速に暗くなっていく意識。そして、永遠の暗黒。
血が噴き出した。床が赤く染まった。睦雄の耳に入ったのは、血の流れる音と、自分の荒い呼吸だけだった。
その瞬間、何かが変わった。これまで彼の中に存在していた人間的な感情――躊躇、後悔、恐怖――それらが、すべて剥ぎ取られた。最初の殺人は、人間から怪物への『通過儀礼』だったのだ。
怪物になることは、思ったより簡単だった。
睦雄は、祖母の血に濡れた手を見つめた。それは彼自身の手だが、同時に『別の何かの手』に見えた。彼は、その手を使って、さらに次の家へ向かった。
次の家は、隣の茂一宅だった。母親と二人の弟が寝ていた。睦雄の脳は、すでに『猟奇的な計算』で満たされていた。この家の構造。窓の位置。逃げ道。誰が最初に起きるか。どの順序で殺すか。
彼はもう『衝動的な殺人』をしていない。これは『組織的な虐殺』だ。そう彼は感じていた。そして、その感覚が、彼の行動を一層凶悪にしていた。
母親は寝ていた。刀が閃く。母親の目が開く――その瞬間は存在しない。刀は素早かった。喉を掻き切った。母親の口から、鮮血が溢れた。音なく、彼女は絶命した。
弟たちの悲鳴が、睦雄の耳に届いた。だが、その悲鳴は、彼にとって『交響曲』のように聞こえた。それは『自分の勝利の音』なのだ。
二人の弟の小さな体は、刀の前には無防備だった。一撃。二撃。三撃。それぞれが確実に命を奪う。弟たちの目は、最後の瞬間、兄を認識したのだろうか。それとも、純粋な『恐怖』だけで満たされていたのだろうか。
睦雄はその答えを知らない。知りたくもない。知ることは、自分が『人間』に戻ることを意味するからだ。
部屋は血の臭いに満ち、壁に赤黒い飛沫が飛び散った。外では、夜風が木々を揺らし、遠くでフクロウの鳴き声が響く。まるで山の精霊が、この惨劇を静かに見守っているかのようだった。
睦雄は、家を後にした。彼の靴は、血で濡れていた。その足音は、確かで、躊躇がない。
次なる標的は西川家。トメという女が住む家だ。
トメ。彼女は、睦雄を『使った』女だ。金で肉体を提供し、その後、簡単に捨てた。睦雄は、その女への恨みが、特に深かった。なぜなら、トメとの関係が、『自分がどれほど価値のない存在か』を最も直接的に教えてくれたからだ。
トメは、寝ていた。睦雄の銃口が、彼女の上腹部に向けられた。
引き金を引く。銃声がした。銃弾が、トメの内臓を貫いた。彼女の目が開いた。驚愕の表情が浮かぶ。『なぜ』という問いが、その目に映った。だが、その『なぜ』に答える時間は、彼女には与えられなかった。
トメの口から、血泡が溢れた。彼女の体は、床に崩れ落ちた。即死ではなかったのかもしれない。だが、意識はもう『この世界』にはなかった。
睦雄は、トメの死体を見つめた。その顔は、『驚愕と苦痛の中間』で固まっていた。彼女は、自分の死に、納得していない表情で死んだのだ。
『いい気持ちだ』。睦雄はそう思った。『お前は、自分の死を理解しないまま、死ぬんだ。お前が俺にしたことと同じように』。
銃声が夜の静寂を切り裂き、隣家にまで響いたが、誰も起き上がる勇気を持てなかった。停電のため、懐中電灯の光だけが頼りだった。その光が見える限り、睦雄は『圧倒的な力を持つ存在』に見えた。逆らえば死ぬ。そう村人たちは本能的に理解した。
四軒目の岸田高司家。高司は二十二歳。内妻の智恵は、二十歳。妊娠六ヶ月だった。
睦雄は、その『妊娠』という事実を知っていた。そして、それが重要だった。銃弾が二人を貫く。一発で二人が死ぬわけではない。高司の胸部。智恵の腹部。それぞれが別々に撃たれた。
胎児もろとも命を落とした。一説には「三十一人殺し」とも呼ばれる所以だ。あえて妊婦を狙ったのか。それとも『偶然』だったのか。睦雄の心理は、その点を明確にしていない。だが、結果として、彼は『未来の命まで奪う者』となった。
智恵の腹から零れ落ちる血と羊水の混じった液体が、床に不気味な模様を描いた。新しい生命が、この瞬間に『始まる前に終わった』。その事実は、単なる『殺人』ではなく、『人類への冒涜』だ。
睦雄の目は、ほぼ虚ろだった。もはや『人間的な感情』の欠片も残されていない。ただ純粋に『破壊を続ける機械』としての身体だけが、動き続けていた。
五軒目は寺井ゆり子宅。睦雄が最も憎んだ女性の一人、ゆり子を狙ったが、彼女は不在だった。
その時、睦雄の心に、一種の『落胆』が生まれたのかもしれない。初恋の相手を殺せないというのは、最後の人間的な感情だったのだろう。だが、その落胆は、別の『怒り』に変わった。『ゆり子がいない。ならば、彼女の家族を皆殺しにしてやる』。
代わりに、父・政一(60歳)、弟・貞一(19歳)とその妻、妹二人(15歳、12歳)が犠牲に。銃声が連続して響く。刀が何度も振られる。
窓辺で逃げようとした妹の一人を、廊下で撃ち抜く。銃弾が体を貫通し、腸が露出した少女の姿は、生き残りの証言で今も語り継がれている。
「銃声がして、妹の悲鳴が聞こえた。血の海の中で、彼女は動かなくなった」
その証言の中には、目撃した者の『永遠のトラウマ』が刻まれている。人間は、一度、そのような光景を見ると、心の一部が永遠に死ぬ。睦雄は、村全体に『心の死』を与えていたのだ。
六軒目の寺井好二家。好二(22歳)と母・トヨ(45歳)。トヨもまた、睦雄と金銭で関係を持った女だった。銃で撃ち殺され、母子の血が一つの染みとなった。
七軒目、八軒目――孝四郎家では、孝四郎が素手で抵抗した。彼は、床に伏せていた妻を守ろうとしたのかもしれない。銃弾二発を受けながら、刀を左手で押さえつけた。傷跡から、壮絶な格闘の跡が窺える。だが、最後には刀で喉を掻き切られ、倒れた。
その時点で、睦雄の『殺人の効率』は最高潮に達していた。二分間に三人。迷いはない。躊躇はない。ただ『破壊する機械』として動く。
倉家では、母屋二階に隠れた一少年が奇跡的に生き延びた。母・はなは逃げる最中に右腕を撃たれ、十二時間後に息絶えた。
「中の間から睦雄が入ってきたんで、奥から飛び出した。夜でも見えていたんじゃあ」
その生き残りの証言は、こうして残された。睦雄の懐中電灯の光が、闇夜を切り裂き、逃げる村人を次々に捉えていく。まるで死神の眼光のように。
時間が、止まっているかのように感じられた。午前一時三十分から午前三時。わずか一時間半。その間に、睦雄は三十人近くの人命を奪った。
だが、彼の心に満足感はなかった。むしろ、何かが足りないような、そういう虚無感がある。
なぜか。それは、彼の『怨恨の対象』が、あまりに広大だったからだ。彼が本当に殺したかった相手――初恋の娘、村全体を代表する人間たち――彼らすべてを殺すことは、不可能だった。村全体を滅ぼしても、『自分の不幸そのもの』は消えない。『自分が受けた侮辱』も消えない。
つまり、彼は『永遠に報復できない何か』に対して、血眼になって報復していたのだ。
警察に追われながら、睦雄の目は冷たかった。気づかなかった、というより、気づけなかったのだ。人間を死に瀕しるまで追いつめると、人は『自分の行為の重さ』を感じる能力を失う。それが『精神的な防御機制』なのだ。睦雄の場合は、村全体への『正義の報復』という言い訳が、その防御機制になっていた。
山中を逃げ回った数時間。警察は近づいていた。銃声。犬の吠える声。懐中電灯の光。警察官たちの怒号。それらすべてが、睦雄の耳に届いていたのだろう。だが、彼はもう『逃げる』ことだけを考えていた。
逃げて、どうするのか。捕まるのは時間の問題だ。だから、彼は既に『次の計画』を立てていた。
自死。それが、彼の最終的な選択だった。
午前十時三十分。山中の茂みの中で、睦雄は銃を握っていた。
逃げ回った数時間。警察は近づいていた。そして、睦雄の心は、すでに終わりを望んでいた。何かが完成した。すべてが終わった。そういう感覚があった。
『俺は、これ以上、何もすることがない』
彼の人生は、その瞬間に『完結した』のだ。村を破壊した。村人たちを殺した。自分の怨恨を、血に変えた。それで十分だ。残されているのは、『自分の消滅』だけ。
銃口を、自分の口に当てた。
その時点で、睦雄の心に何があったのか。後悔か。悔恨か。それとも『満足感』か。
誰も知らない。彼の心は、銃声と共に、永遠の沈黙へと落ちていった。
引き金を引く。銃声がした。睦雄という青年は、その瞬間に消えた。現場に残されたのは、血と、銃と、そして『最大の悪夢の終焉』だけだった。
朝日が、山々に射し込んだ。鳥たちが、いつものように鳴いていた。だが村は、もう昨日の村ではなかった。三十人以上の命が消えた。生き残った者たちは、一生、あの夜を背負い続けることになる。
現場は、血の海だった。警察官たちが駆けつけたとき、彼らは何を見たのか。
枕を覆う布に必死で噛みついた遺体。おそらく、絶命する直前まで、誰かが抵抗していたのだろう。その布には、歯形と血痕が残されていた。人間が、いかに『死に抵抗するか』の物理的な証拠。
腸を引きずる子供の死体。銃弾に貫かれた小さな体が、どのように苦しんだのか。その光景を見た警察官は、一生、その映像を心に抱え続けることになる。
首のない胴体。武器によって、頭部と胴体が分離された人間の遺体。それは『人間の尊厳』の完全な破壊を象徴していた。
村人たちは朝になって初めて、血の臭いと静寂に気づいた。いや、気づくより先に『何かが起きたこと』を本能的に感じていたのだろう。停電。銃声。そして、圧倒的な沈黙。
警察が駆けつけた時、集落は死の匂いに満ちていた。
その光景を見た警察官、医者、そして近隣の村人たち――彼らは皆、同じ『精神的な傷』を抱えることになった。人間が、一度、このような『究極の悪夢』を見ると、その瞳には、永遠に『現実への不信』が刻まれる。
八十年以上が経った今でも、その痕跡は残っている。津山の山奥には、『怨念の夜』の記憶が、ゆっくりと腐食しながら、沈殿し続けているのだ。
続く




