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怨念の夜 ーー津山事件に基づく小説  作者: はまゆう


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第二章 綻びはじめた理性

五月十八日午後。睦雄は家の奥に引きこもり、両親と弟たちの気配が畑の土に溶けるのを待った。家は空洞の殻。誰もいない静寂が、彼の肺に染み込み、息を腐らせる。古い茶色のノートを握る手が、脈打つ。ページに『五月十八日』と刻む瞬間、筆の先が皮膚を裂くように紙を抉った。線を引く音が、心臓の膜を剥ぐ。


遺書か。死の吐息ではなく、破壊の毒を吐き出すためのもの。この言葉を綴るたび、睦雄の内臓が紙面に転写される感覚。カリカリという摩擦音が、脳の髄を削り、無視された存在を物理的な棘に変える。『俺はここにいる。村よ、俺の声を聞け』。文字が血のように滲む。新聞の遺書は妻への甘い言い訳ばかり。睦雄のそれは違う。怒りの膿、村全体への腐食液。『今日決行を思いついたのは夕方である』。手が震えず、思考が筆を追い越し、乱雑な字が噴出する。言葉にすれば現実。計画に変わり、殺戮の獣が目覚める。


筆が止まる一瞬、理性の残渣がよぎる。この手で母の友を、幼子を裂くのか。良心の声が囁く『やめろ、引き返せ』。幼き屈辱の連鎖――視線の針、兵役の烙印、娘の歪んだ顔、父親の呟き『お前が飯を食うから』、トメの冷めた肉体――それらが心腔に凝固し、黒い塊を成す。良心など村の嘲笑に潰された幻。怨恨だけが実体を持ち、血管を太くする。躊躇は蒸発。『村の奴ら全員、皆殺しにしてやる』。字が肥大し、走り書きが脳の裂け目を映す。理性の膜が破裂し、粘つく汁が零れ落ちる。


ノートを閉じると、睦雄は変貌を自覚。決定は宿命。強迫の鎖が体を締め上げる。五月十九日、父親の猟銃を撫でる。冷たい金属が皮膚に溶け込み、心臓の鼓動と同期。弾を数え、日本刀の刃を指で確かめ、切れ味が肉を想像させる甘い疼き。斧の重みが、骨に染みる。『誰を最初に? どの家から? 駐在所までの時間は?』。計算が異様な快楽を生む。射撃練習の記憶が蘇り、闇夜の急所を心臓に穿つ幻視。正常な脳などない。これは目覚め。抑圧の殻を脱ぎ捨てた『真の俺』の顕現。村を支配する神の化身だ。


五月二十日、晴れた昼。睦雄は家事を装い、母親の視線を避ける。彼女の目は異変を嗅ぎ、無力な諦めが睦雄の肺を腐食させるが、何も言わず。夕方、決断。電力線を断てば村は闇に沈み、無防備に眠る。自転車で電柱へ。ハサミを握る手は氷のように冷静。『ジリジリ』と線が軋み、『スパッ』と切断。村の灯が一斉に息絶え、街灯が闇に溶ける。睦雄の胸に黒い喜びが膨張。『この暗さは俺の心臓の色。村を俺の闇で塗り潰す』。興奮の汁が体を濡らし、支配者の陶酔が理性の最後の糸を溶かす。


帰宅した睦雄の目は爛々と輝き、両親の沈黙がそれを加速。夜、村は巨大な墓場。午前零時、寝床から起き上がり、無音の動作で武装。猟銃に弾を詰め、日本刀を腰に、斧を握り、頭に懐中電灯を巻く。儀式めいた支度が、破壊衝動を研ぐ。鏡に映る顔は鬼。目は狂気の炎、口は歪んだ裂け目。『人間など捨てろ。俺は怨恨の怪物、村の終末者』。影が伸び、月光に怪物化。


家を出る足音なし。懐中電灯の光が死の刃となり、道を切り裂く。最初の標的は自らの家――祖母、母、弟たち。躊躇の欠片もなく、足が前進。夜明け前の山道に、青年の影が溶け込む。歴史に刻まれる悪夢の幕開けだ。


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