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怨念の夜 ーー津山事件に基づく小説  作者: はまゆう


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第一章 心に刺さった棘

この小説は、1938年5月21日に発生した史実「津山三十人殺し」(津山事件)を基にしたフィクションです。犯人・都井睦雄の心理を中心に、村の閉鎖性と人間の闇を描きます。実際の事件は30人以上が犠牲となった凄惨なもので、フィクションとはいえグロテスク・残虐描写を含むため、ご注意ください。史実尊重しつつ創作を加え、現代への警鐘としてお届けします。連載でお楽しみください。

昭和十三年の春。岡山県北部の山奥、貝尾という名の小さな集落。人口わずか百十一人。その村で、都井睦雄という二十一歳の青年が息を潜めていた。生まれた瞬間から、体は腐った果実のように間違っていた。息切れが肺を蝕み、医者の言葉「結核かもしれない」が、両親の顔に黒い染みを広げた。弟たちは畑を駆け回る野犬のようだったが、睦雄は母親の手にすがり、軒下で朽ちるだけ。体が彼を村から吐き出そうとしていた。心臓の鼓動が、毎回、腐臭を吐くように感じられた。あの鼓動が、俺の檻だ、と睦雄は思う。逃げられない、溶けない肉塊の檻。

成長するにつれ、視線が皮膚の下に潜り込み、血を吸う寄生虫のように気づき始めた。周りの目が、睦雄の骨を削る。兄たちが兵役検査に合格し、軍服の輝きに包まれる頃、彼は医者の前に引き出された。結果は『不合格』。村では、兵役に行けない男は人間の皮を被った蛆虫。昭和十三年、戦争の渦が村を飲み込む時代。国のために命を捧げるのが男の証。睦雄はその証を剥ぎ取られ、ただの肉塊になった。心の中で、笑い声が反響する。俺の血が、村の土に染み込めばいいのに、と妄想が膨らむ。血の臭いが、甘く鼻をくすぐる。

集会の日、両親は顔を伏せ、隣の囁きが爆発した。小さな笑いが村全体を覆い、睦雄の存在を溶かす酸のように染みた。あの笑いは、俺の肉を削ぐナイフだ。判読不能なまでに鋭く、心臓に突き刺さる。帰路の視線は、前後左右から針のように降り注ぎ、皮膚を裂く。『気味悪い奴』『体が腐ってるんだろう』『母親の胎内で毒を浴びたのか』。言葉にならない噂が、睦雄の脳に巣食い、夜ごと蠢く。罪人ですら同情されるのに、俺は純粋な軽蔑の標的。視線が体腔に侵入し、内臓を掻き回す感覚。吐き気が込み上げ、睦雄は道端でえずく。

家に帰り、母親の無言が最悪の毒だった。目の奥に、諦めの粘液が浮かぶ。『お前を産んだ私の罪』『お前の弱さは私の穢れ』。その視線が、愛より重く睦雄を押し潰す。母親の罪悪感が、俺の肺に絡みつき、息を塞ぐ。子どもは親の闇を飲み込み、自らの肉を腐らせる。十七歳から農作業を手伝ったが、体は鉛のように重く、兄たちの影に埋もれる。一生懸命さが、村人に『哀れな蛆』を与えるだけ。視線が変わらず、むしろ増幅し、心を抉る。

父親の小作農生活は、地主の縄に吊るされた首。借金が膨らむたび、父親の目が暗く淀み、睦雄に向けられた。十九歳の飯時、『お前がいるから飯が足りない』。呟きが耳にこびりつき、『お前は無価値の肉塊』と反響する。以後、無言の視線が睦雄を刺す。俺は家族の膿だ、と確信。父親の闇が、睦雄の心臓に根を張り、毒を注ぐ。

同世代の娘たちを睦雄が見つめ始めた頃、心に亀裂が入った。初恋の娘、村祭りの笑顔が胸を抉る。遠くから視姦するだけ。彼女の笑いが、俺の欠落を嘲笑う。話しかけると、娘の顔が歪み、身を引く。『気持ち悪い』という言葉がなくても、体が拒絶の壁を築く。不浄な視線として睦雄を刻印。心が割れる音が、静かに響く。理性の膜が破れ、人間性の残骸が滴る。あの後、彼女が兵役合格の男と手を繋ぐ姿。俺の存在が村の美を汚す蛆虫だと悟る。『この村の敵だ』と、怨恨の種が芽吹く。根が心臓を締め上げ、黒い汁を噴出させる。

西川のトメ、四十年配の好色女。噂が睦雄の耳に忍び込み、『俺が相手か』と妄想が膨張。彼女の誘い『うちに来ないか』は、金で肉体を買う取引。愛などない、互いの欲望の交換。トメの肉欲が睦雄を求め、金が価値を与える。脆い希望。月に数十円を家に入れても、両親の無関心が刺す。『お前の穢れなど知らん』。親の目が、最大の腐食剤。

だがトメの無関心が、最後の砕片を粉砕。使い捨ての肉便器だったと知り、心の闇が溢れ出す。二十一歳、全てが否定。体、兵役、社会、愛、金、肉体。苦しみを運命ではなく、社会の膿として認識。村全体を敵と見なし、復讐の妄想が現実を塗り潰す。

五月初旬、小さなノートに乱暴な字。『村の奴ら全員、皆殺しにしてやる』。空想ではない。死ぬか殺すか。死だけでは『可哀想な蛆が死んだ』と笑われる。村に苦しみを刻み込む使命。猟銃、日本刀、斧を手入れする手が震え、興奮で熱い。刃が皮膚を想像し、血の感触が甘美。

母親は異変に気づくが、無力。睦雄の目は虚ろ、夜の妄想が脳を蝕む。五月二十日、電力線を切る。闇が村を飲み、睦雄の心が確信。『俺が作った闇。これからもっと深く、黒く、粘つく闇を』。悪意の塊が動き出す。村の闇は、俺の産物だ。

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