09 「あの子に会いに行くわ」
ソフィア・レイエス伯爵夫人は、朝食の席にひとり残って食後のコーヒーを飲んでいた。
息子のイグナシオとその恋人フロレンシアは、もうすぐ宝石商が来るからと先に席を辞している。
いくら多額の持参金が入ったとはいえ、身に不相応な贅沢を改めなければ、結局は破滅を僅かに先送りしたにすぎない。
いつになったら夫と息子はそれを理解してくれるのだろう、とソフィアは憂いながら斜め向かいの空席を見遣った。
そこは、まだ一度も使われたことのない、息子の妻となったひとが座るはずの席だった。
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ソフィアの脳裏に浮かぶのは、結婚式の日、両親の付き添いすら許されず、ひとり俯きがちに立っていた平民あがりの花嫁の姿。
あの時、上機嫌の夫と苛立ちを隠そうともしない息子の間で、あの子はどんな表情をしていただろうか。
あれから、ソフィアは一度もあの子に会っていない。
いや、機会はあったのだ。
あの子が嫁いできた日、セバスチャンから、「大奥様さえ宜しければ、若奥様がご挨拶に伺いたいと仰っていますが」と訪いを受けていた。
それを、「いいえ、結構よ」と断ってしまったのは自分なのだ。
あの子に会うのが怖かった。
遠い客間に押し込められ、夫婦の寝室に近づくことも許されず、夫となった男に蔑みの目を向けられる花嫁。
だが、そのことで恨み言を言われても、助けを求められても、ソフィアには何もしてあげられないのだ。
下手をすれば、それにより一層イグナシオの不興を買ってしまうかもしれない。
そこまで考えて、ソフィアは心のなかで首を振る。
それは言い訳に過ぎない。結局、私はあの子に会うのが怖かっただけだ。
色々理屈をつけてはみても、あの子の「会いたい」という言葉を拒絶したのは自分なのだ。
そして、それは事態と正面から向き合えない自分の弱さのせいなのだと彼女は誰よりも承知していた。
「ああ、イグナシオがフロレンシアと結婚できていたら、こんなことにはならなかったのに……」
小さな愚痴がつい口を衝いた。
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ソフィアとて、こうなるのをただ手をこまねいて見ていたわけではない。
イグナシオとフロレンシアが、互いに結婚したいと望んでいるのを知ってからは、早く2人を婚約させるよう何度も夫に訴えてきた。
同じ屋根の下に暮らす若い男女が、これだけ親しげに振る舞っているのに婚約もしていないなんて、2人の評判にも関わるし、社交界でのレイエス伯爵家の印象も悪くなる。
その一方でイグナシオには、フロレンシアのためにも、喧嘩腰にならず根気よく父を説得するよう、それまでは周囲の目もあるので節度ある態度をとるよう言い聞かせてきた。
しかし、この父子は悪い所ばかりがよく似ていた。
こちらの話に一向に耳を傾けようとしないエンリケと、説得材料も用意せずただ父親に反発するだけのイグナシオの板挟みになって、ソフィアはほとほと疲れ果てた。
それでもなお、ソフィアは自分にできることをやろうと努力した。
フロレンシアに伯爵夫人の役割を学んでもらおうとしたのだ。
フロレンシアがレイエス伯爵家の役に立つとわかればエンリケも再考するかもしれないし、ソフィアを通じて社交界の婦人たちに人脈を築いておけば外堀から埋めていくことができる。
だが、こちらもさっぱりうまくいかなかった。
フロレンシアに、屋敷の運営や使用人の管理の一部を任せようとしても、
「私のような日陰者がお義母さまのお仕事を肩代わりなどしたら、誰に何を言われるか……」
などと言い訳をして、一向に手伝おうとも覚えようともしないのだ。
さればと社交界の有力な婦人たちが集まる会に連れていけば、イグナシオと同世代の若い男が集まる会には欠かさず同行するくせに、婦人会は一度行っただけで逃げ帰ってしまい、
「私が若くて美しくて日陰者だからと、御婦人の皆が意地悪な目で見るの……」
とイグナシオに訴えて、ソフィアがイグナシオに詰られる始末。
万策尽きたソフィアに残された道は、「静観」だけだった。
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コーヒーがひどく苦くなったような気がして、ソフィアは席を立った。
その目は、無意識のうちにミカエラのものであるはずの席に吸い寄せられる。
「………あの子は、ちゃんと食事をとれているのかしら………」
質問とも独り言ともつかないソフィアの言葉に、給仕メイドは一瞬迷ったが、
「若奥様でしたら、きちんと毎食召し上がっていますよ」
と、静かに答えた。
ソフィアを安心させるために、「それはもう、毎食、厨房で出来立てアツアツをガッツリと」と付け加えようかと思ったが、思い悩んでいる様子の女主人を余計に混乱させてしまうかと、そこは思いとどまった。
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その日、ソフィアは自らの執務室でセバスチャンから定例の財務報告を受けていた。
渡された帳簿に目を通しながら、ひとつひとつ確認していく。
「………今月は、随分たくさん砂糖を買ったのね」
「あ、ハイ。今が底値だそうなので。
日持ちのするものですから、安い時にストックしておくべきかと思いまして」
「そう……リネンの購入先を変えたのはどうして?マイヤーズは先代伯爵の頃から付き合いのある、由緒正しい商会でしょう?」
「それが……あそこの商会は代替わりしてから商品の質が落ちたと専らの評判だそうでして。
跡を継いだ息子が欲張りのろくでなしで、職人たちがすっかりやる気を無くしているらしいです」
「まあ、そうなの……あとは、野菜の仕入れ値がかなり下がっているけど、安物に変えたの?私はいいんだけど、イグナシオがそういうのにうるさいから……」
「ああ、いえ、野菜は所謂『ハネもの』をごく安く買い入れるルートを見つけまして。
形が不揃いだったり大きさが規格外だったりするだけで、味や品質は普段購入しているものと変わらないんです。
テリーヌやソースにしてしまえば、形はわからなくなりますので」
これまで伯爵家の財政を裏から支えるのに、一緒に四苦八苦してきたセバスチャンがいきなり発揮し始めた経済的才覚に、ソフィアは驚く。
「……凄いわ。短い間に随分市場のことを勉強したのね。お陰で今月は経費が驚くほど抑えられているわ」
「ハ、このセバスチャン、一念発起しまして、老骨に鞭打って独学で市場原理の修練をば……」
「まあ」
「……申し訳ございませんわたくしウソをついておりました!!」
「まだ何も言ってないわよ」
「いえその、どうにもウソは苦手でして……ただ、このことはできれば内緒にして欲しいと頼まれていたものですから……」
「………どういうことかしら」
セバスチャンはハンカチを取り出して額の汗を拭く。
「実は、私にこれらの智慧を授けてくれたのは、ミケ、いえ、若奥様なのです」
「!!……あの子が?あの子が貴方とこれを……?」
「ハイ。若奥様は、流石は商売の世界で揉まれながら育っただけのことはございまして、それはもう水を得た魚と申しますか快刀乱麻を断つと申しますか、こう、帳簿をパーッと開いては、勘定科目をちぎっては投げちぎっては投げ………」
「……そう……そうだったの……あの子……これだけ冷遇されていても健気に伯爵家のことを考えて……イグナシオに認めてもらおうと必死に……」
「あ、いえ、そこまで深刻にお考えにならなくても大丈夫かと存じますが」
「……あの子に会いに行くわ」
「ハ」
「いつまでも逃げてはいられないもの。あの子の誠意に、私も応えなくては」
ソフィアは立ち上がった。




