08 「トウッ!」
季節が変わる頃には、ミカエラはすっかり伯爵邸に馴染んでいた。主に物理的な意味で。
「家庭内非可視ミッション」は、最初の頃こそ慣れないもたつきから、「あわやターゲットと鉢合わせ」という事態になりかけたりもしたが、今では使用人も心得たもので、阿吽の呼吸でイグナシオたちとミカエラの動線をずらしてくれている。
今日も廊下を歩いていると、パウラがスッと現れて
「前方からイグナシオ様接近中。撞球室に向かわれる模様」
と耳打ちした。
「了解!迂回するね」
ミカエラはすぐに使用人通路に滑り込む。
こうして結婚式以来一度も顔を合わせたことのない新婚夫婦は、お互い鼻歌交じりに今日も壁越しにすれ違う。
イグナシオは撞球室へ玉突きに、ミカエラは上階の執務室へセバスチャンの手伝いに。
※※※※※※※
屋敷の最上階は主に使用人たちの部屋となっており、セバスチャンの小さな執務室もそこにあった。
最近のミカエラは、日中数時間そこでセバスチャンの執務を手伝うのが日課になっていた。
迂回するついでに厨房でくすねてきたクッキーをセバスチャンと分け合いながら貸借対照表とにらめっこをしていたところへ、突然ドアの外に荒々しい足音が響いた。
そして、
「セバスチャン、いるか?」
と、撞球室に行ったはずのイグナシオの声が聞こえてくる。
「「!!」」
2人は真っ青な顔を見合わせた。
セバスチャンの執務室は狭く、続き部屋へのドアも、隠れられる場所もない。
イグナシオやフロレンシアが使用人スペースに来ることはほとんどなかったので、完全に油断していた。
「……は、はい!おります!すみません、少々お待ちを……」
イグナシオが入ってくるのを止めようと、セバスチャンが上ずった声で返事をしたが、時間を稼いだところで八方塞がりの状況は変わらない。
セバスチャンの顔が絶望に染まる中、追い詰められたミカエラは部屋のそこここに目を走らせると、意を決したように窓に駆け寄り、大きく開け放った。
そのまま窓枠に足をかけて身体を引き上げ、窓の上に突き出した軒蛇腹を逆手でしっかり掴む。
「(ミミミミミミケ!?なななな何を……)」
掠れる声で止めようとするセバスチャンを尻目に、ミカエラは呼吸を整えた。
「トウッ!」
気合い一閃、逆上がりの要領でミカエラの姿が屋根の上に消える。
「―――うぎゃあああああああああ〜!!!」
狭い執務室に壮年の執事の絶叫が響き渡った。
※※※※※※※
「セバスチャン!?何事だ!」
声に驚いたイグナシオが執務室のドアを開けると、部屋の真ん中にセバスチャンがへたり込んでいた。
「い、いえ……その……持病の神経痛がちょっとアクロバティックな振る舞いをしたもんですから……モウダイジョウブデス……」
「………?そうか……?
ところで、誰か来ていたのではないか?話し声がしていたようだが」
「……あ、ああ。失礼いたしました。
……ミケに話しかけていたんです。さっき窓から出ていきましたが」
「窓から……?
そう言えば、メイドどもが時々そんな名を呼んでいるのを見かけるな。
貴様らが飼ってる小汚い猫など、私やフロレンシアの前に出すなよ」
「あ、それは、ハイ。
それに関しては、とてもすごく大丈夫です。ご心配なく。
……ところで若旦那様、こんなむさ苦しいところにどのようなご用向きでしょう?」
「そうだ。あの平民女のことで、貴様に言いたいことがあったのだ。
セバスチャン、貴様あの女のためにドレスメーカーを呼んでやったらしいな。
自分を差し置いて、あの女宛に新しいドレスが届いたとフロレンシアが泣きながら訴えてきたぞ。
そんなことをして、可愛いフロレンシアが傷つくと思わなかったのか」
そう言えば、頻繁にあちこち潜り込んだり隙間に身体を押し込んだり木に登ったりするため、使用人の制服より余程傷むのが早いミカエラの服を追加で仕立ててもらったのだった。
それが運悪くフロレンシアの目にとまってしまったらしい。
「それは配慮が足りず失礼いたしました……
フロレンシア様は先月ドレスメーカーを呼ばれてイブニングドレスをお仕立てになったばかりでしたから、ご入用はないかと思いまして」
「そういう問題ではない。フロレンシアが蔑ろにされたと感じていることが問題なのだ。
すぐあの女に呼んでやったのと同じドレスメーカーを呼び、あの女のものより数段上のドレスを仕立てさせろ」
「ええっと………よろしいのですか?
若奥様がお呼びになったのは、ドレスメーカーではなく我々使用人の服作りを専門とする仕立屋なんですが」
「………なんだと?」
「使用人の服専門の仕立屋です」
「……フ、フフッ、ハハハハハ!これは傑作だ。
まさか使用人向けの仕立屋を呼んだとはな。
下賤の女が思いつく服などその程度というわけか。
フロレンシアも可哀想に。そもそも格の違う相手に、何も気に病むことなどなかったのにな」
さもおかしげに笑い続けるイグナシオを、セバスチャンは複雑な顔で見守る。
「もういい。邪魔したな。
それでもフロレンシアが傷ついたのは事実だ。
彼女のために最高級のドレスメーカーを呼んで新しいドレスを作らせてくれ。
私からはそれに似合う宝石を贈るとしよう」
すっかり機嫌の直ったイグナシオは振り向きもせず執務室を出ていった。
残されたセバスチャンは小さくため息をつく。
「やれやれ、肝が冷えた。
それにしてもミケの身軽さには恐れ入ったな……
とは言え、この部屋にも隠れ場所のひとつくらい用意しておかなくてはなるまい。
人ひとり隠れられるようなイイ感じの木箱でも置くとするか……」
執務室の窓から外を見渡すと、屋根伝いに移動したミカエラが開いている窓から室内に侵入したのだろう、どこからかアマリアの「――ぎょええええええええ〜!!」という絶叫が聞こえてきた。
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次の日の朝、イグナシオは頭上から聞こえるトントンカンカン賑やかなカナヅチやノコギリの音で目が覚めた。
「……一体何事だ?」
部屋を出たところで、丁度通りかかったアマリアに尋ねる。
「あっ、若旦那様。おはようございます。
実は、屋根に修繕が必要な箇所がいくつか見つかりまして、業者を呼んだのです。
傷みが深刻になる前に発見できたので、階下への被害はまだ出ていませんし、工賃もとても安く上がったのですよ」
「そうか……ご苦労だったな」
イグナシオは、何故階下に被害が出る前に屋根の傷みに気づけたのか不思議に思ったが、誰がどうやって屋根の傷みを発見したのか、彼に教えてくれる者はいなかった。




