05 「弁えているではないか」
イグナシオは、自室で晩餐のための着替えをしながら、ひとり考えに耽っていた。
イグナシオが今居る部屋は、若夫婦の寝室に室内ドアで繋がっており、寝室にあるもう一つのドアは愛するフロレンシアの部屋に通じている。
そこは、本来レイエス家嫡男の妻たる人物が使うべき部屋だが、イグナシオは卑しい商人の娘にその部屋を使わせる気などさらさらなかった。
不快極まりない結婚式のあと、花嫁を置き去りにして屋敷に戻ってみれば、このくだらない縁組を無理に押しつけてきた父は、ひとり息子が結婚した日だというのに相変わらず屋敷には帰っていなかった。
どうせ、別邸の女のところだろう。
幼い頃から母と自分を放ったらかして遊び呆ける父を、イグナシオは心底軽蔑していた。
自分は父とは違う。
自分はたった一人の女性への愛を貫く男だ。
父から縁談を持ち込まれたときは、共にありたいのはフロレンシアだけだと散々反抗した。
母も、想いあっている2人を引き裂くのは可哀想だと、イグナシオに加勢してくれた。
しかし、では他に伯爵家の窮状を救う方法があるのかと問われれば、2人とも黙り込むしかなかった。
イグナシオも父と同様領地経営には疎かったし、屋敷のことを任されている母が多少倹約に励んでみたところで、傾いた伯爵家を立て直すには程遠い。
だからといって、名門のプライドを捨ててまで生活レベルを落とすなどイグナシオには耐えられないし、美しいフロレンシアには最新流行のドレスや宝石が必要なのだ。
伯爵家を立て直す代案もなく、ただ反抗するだけのイグナシオは、結局エンリケの強引さに流されるしかなかった。
そして、泣き叫ぶフロレンシアを「結婚は形だけのものだから」と宥め、多額の持参金をチラつかせた平民風情が、由緒あるレイエス家に足踏みするという不名誉を、泣く泣く黙認したのであった。
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イグナシオが鏡の前でチーフの歪みを直していると、ノックもなくドアが開いて美しく着飾ったフロレンシアが飛び込んできた。
イグナシオは振り返り、彼女の華奢な身体を抱きとめる。
「フロレンシア!どうしたんだ」
イグナシオの身体に腕を回したフロレンシアは、潤んだ大きな瞳でイグナシオを見上げる。
「もうすぐ晩餐だから、迎えに来たの。
先に行っていようかと思ったんだけど、イグナシオが私じゃないひとと結婚したんだって考えてたら、ひとりでいるのが急に怖くなって………」
涙ぐむフロレンシアをイグナシオは抱きしめる。
「心配しなくていい。こんな結婚、形だけだと言ったろう?
私の心は永遠にフロレンシアにあるんだから」
「………でも、今夜は初夜よ。あの平民のところへ行くのでしょう?」
「ハッ、行くものか。あの女はセバスチャンたちに命じて、この屋敷で一番粗末なゲストルームに押し込めてある。お情けで下級メイドを1人付けてな。
そこで大人しくしていればよし、もし私とフロレンシアの仲を邪魔するようならただでは置かない。
大丈夫だ。どうせ父上は滅多に屋敷に戻ってはこないんだから。
持参金さえ手に入れば、あんな平民女の扱いなど気にもしないさ」
イグナシオは吐き捨てた。
「数年の辛抱だ……愛しいフロレンシア。
3年経てばあんな女、『白い結婚』を理由に離縁できる。
父上の威光だっていつまでもは続かないだろう。
じきに代替わりして私がレイエス家の当主となる。
そうすれば誰にも邪魔されることなく、晴れて君を妻にできるんだ。
どうかそれまで私を信じて待っていてほしい」
「ああ、イグナシオ!」
2人は再びひしと抱き合った。
真実の愛に酔いしれる2人には、自分たちはエンリケの横暴に虐げられる被害者だという意識しかない。
特にイグナシオは、内心ではエンリケを恐れ、結局はいつも言いなりになってしまっている自分の弱さを決して認めはしないだろう。
それ故に、父親への隷属意識が鬱屈して、結果的にその怒りの矛先をより立場の弱いミカエラに向けていることも、当然自覚してはいなかった。
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これ見よがしにフロレンシアと腕を絡めて食堂に入ったイグナシオは「おや」と思った。
母のソフィアは既に来て食卓についている。
しかし、例の平民女の姿はなく、テーブルセットもこれまでと同じ3人分しか用意されていなかったのだ。
もの問いたげなイグナシオの視線に応えて給仕メイドが口を開いた。
「若奥様は、ご自分のお部屋でお食事を済まされるとのことです」
「ハ……ハハッ、なかなか弁えているではないか。
畏れ多くて我々と同席などできぬというわけか。
これはいい。フロレンシアや母上が、マナーのなっていない平民と同じテーブルで嫌な思いをするのは看過できないからな。
自分から身を引いてくれて手間が省けたというものだ」
ソフィアに窘めるような目を向けられたが、イグナシオは気にせずフロレンシアに笑いかけながら席についた。
(聖堂で釘を刺してやったのが余程効いたらしい。今頃はあのみすぼらしい部屋で、ひとり惨めに食事をしながら涙に暮れていることだろう。父の手先の平民女には似合いの罰だ)
イグナシオは上機嫌にアペリティフに口をつける。
まさに同じ時刻、ミカエラがひと足先に今日のメインの鶏のローストをパンに挟んで頬張りながら、セバスチャンたちとああでもないこうでもないと賑やかに隠れ場所チェックに勤しんでいるなど、イグナシオは夢にも思わなかった。




