終章の後 最終章
エンリケの遺した原稿は、(表向きは)故人の遺志を尊重した遺族により出版社に持ち込まれた。
そして、元の原稿にソフィアの日記からの抜粋を加え、「side エンリケ」と「side ソフィア」の二部構成で出版されることになった。
『我が栄光―エンリケ・レイエス自伝 サン&ムーン』の題で世に出たこの本は、「伯爵の勘違いっぷりがとにかくすごい」、「夫人の毒舌がいみじくもヤバい」などと評判が評判を呼び、貴族から平民に至るまで爆発的な売れ行きを示した。
それはレイエス家にとっても大きな収入となり、おかげで持参金の返済が一気に進んだが、金の出処が出処だけに、イグナシオは何とも言えない気分を味わった。
更に、「今なら売れるんじゃないかしら」とソフィアがオークションハウスに出品した「『我が栄光』の生原稿とエンリケの肖像画(鼻毛付き)のセット」は、その日の最高額でどこぞの悪趣味人に競り落とされ、これまた結構な臨時収入となった。
本の売れ行き好調に伴って、レイエス家は否応なしに世間の好奇の目にさらされることになった。
イグナシオは居た堪れなかったが、当のソフィアが堂々としていたこともあってか、意外にも周囲の人々はエンリケの遺族に対しては同情的で、危惧していたほどレイエスの名自体が地に落ちるということもなかった。
ともあれ、代替わりもどうにか片付いたし、思いがけず経済的苦境も解消された。
後は、フロレンシアとの将来に向けて、責任から逃げ回る彼女といい加減本気の話し合いをしなくてはいけない。
イグナシオは気合を入れ直したが、ことはそう簡単には運ばなかった。
エンリケの喪も明けぬうちに、フロレンシアの妊娠が判明したのである。
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事態は、ここのところ体調が悪そうだったフロレンシアの様子にピンときたソフィアが医者を呼んだことから発覚した。
フロレンシアは必死の形相でイグナシオにしがみつき、「貴方の子だから体面を守るためにもすぐに結婚しましょう」と言ったが、正直に言ってイグナシオには全く心当たりがない。
フロレンシアがあの時のあれと主張する時期は、医者やソフィアの見立てとはかなりの開きがあり、プロ2人の話を総合すると、受胎時期はどう考えてもエンリケの急死でイグナシオが寝る暇もなく働いていた頃になるという。
ああ、やはり。
無意識にそう呟いて、イグナシオは愕然とした。
自分はいつの間にかフロレンシアに当たり前の貞操観念を持ってもらうことすら期待しなくなっていたらしい。
彼は裏切られたことよりも、そちらの方が悲しかった。
フロレンシアは、お腹にいるのはイグナシオの子だとあくまで言い張り続けたが、それも月満ちて彼女がイグナシオの友人の伯爵令息に瓜二つの男児を産み落とすまでのことだった。
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生まれた赤ん坊は誰もが疑う余地もないほど友人にそっくりだったため、イグナシオは彼の両親である伯爵夫妻に連絡をとった。
驚いた伯爵夫妻は早速息子を締め上げたらしい。
両親の剣幕に恐れをなした令息は、「イグナシオが代替わりの準備で忙しかった頃、一人で夜会に来ていたフロレンシアと不適切な関係に陥り、そのままずるずる最近まで逢瀬を続けてきた」と白状した。
「息子にはその場で謹慎を言い渡したので、話し合いのため、ご当主にはこちらにお運びいただきたい」と先方から報せが来て、イグナシオはため息をついた。
代替わり後、レイエス家当主としての最初の仕事がこんなものになろうとは。
イグナシオは、赤ん坊の世話をソフィアとアマリアに任せ、生まれた赤子より泣き喚いているフロレンシアを残して、レイエス家の新当主として伯爵夫妻との会合に赴いた。
幸い、伯爵夫妻はきちんとした人柄で、会合はお互いに頭を下げ合うことから始まった。
フロレンシアの場合、厳密には結婚も婚約もしていない身ではあるが、イグナシオといわば内縁関係にあったのは周知の事実であるし、伯爵令息は一人息子の上、れっきとした婚約者もいたので、ことはなかなか厄介だった。
伯爵令息の婚約者は婚約解消を希望しているとのことで、協議の末、両家から婚約者に慰謝料を支払うことで話がまとまった。
そして、伯爵夫妻には苦渋の決断であったであろうが、令息は後継者から外され、フロレンシアと結婚させた上で、伯爵領の片隅に小さな邸宅が与えられることになった。
フロレンシアは泣いて嫌がったが、これまでイグナシオが彼女に贈った宝石やドレスを全部持たせてやったので、贅沢をしなければこれからも安定した暮らしが送れるであろう。
こうなったのはイグナシオの不甲斐なさが原因でもある。
結局自分は女性一人幸せにすることもできなかったのか、とイグナシオは空っぽになったフロレンシアの部屋を後にしながらひどい自己嫌悪に陥った。
生まれた赤ん坊は、伯爵夫妻が引き取り育てることになった。
いずれ養子縁組して、伯爵家の跡取りにするつもりだという。
フロレンシアは自分の心配ばかりで全然我が子に愛情を示さなかったし、下手をすれば施設行きになるのではと心配していたので、赤ん坊の身の振り方が決まったときには、イグナシオもソフィアもホッと胸を撫で下ろした。
身勝手な願いだが、せめてあの子には幸せになって欲しいと思う。
この2つの伯爵家を巡る醜聞は、瞬く間に国中に知れ渡った。
それはやがて、外国にいるミケの耳にも届いたらしい。
暫くして、イグナシオのもとにミケから「元気出してくださいね」という手紙とともに、滞在国の民芸品だというまあまあデカい木彫りの熊が届けられた。
……鮭を咥えている。
イグナシオは首をひねりながらもそれをペーパーウェイトとして使っているが、執務室を訪れる人間が全員机の上を二度見するようになってしまった。
ミケの感性はイマイチよくわからない。
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「貴方もまだ若いんだから悲観することはないわよ。
いざとなったら養子を取るなり、お家断絶するなりすればいいじゃない」
などと、イグナシオを元気づけるついでにサラッと物騒なことを言っていたソフィアは、代替わりが落ち着いてからよく旅行に行くようになった。
「これまでずっと伯爵家に縛りつけられてきたんだもの。動けるうちに少しは世界を見ておかなくちゃ」とのことだったが、旅行先がいつもミケの手紙の消印と同じ場所なのは気のせいだろうか。
ミケは相変わらず外国を飛び回っている。
先日の手紙には、ある宿に滞在中、押し込み強盗に遭ったが、レイエス家で鍛えた「隠れスキル」を発動させたミケだけが強盗団の目を逃れ、屋根伝いに宿を脱出して憲兵隊を連れて戻り、強盗団を一網打尽にした、という武勇伝が滔々と綴られていた。
まあ、わざわざ教えてもらわなくてもその事件はこちらの新聞にも載ったので、イグナシオはとうに記事の切り抜きを額装して壁に飾っているのだが。
ひとり伯爵家に残されたイグナシオは、相変わらず黙々と働き続けている。
かつて社交界で「端正な顔立ちの気品溢れる貴公子」と呼ばれた青年は、すっかり「必要最低限しか社交の場に姿を現さない朴念仁」になってしまった。
そんなイグナシオを心配してか、夜一人で執務を進めていると、セバスチャンが時々ウイスキーのボトルと一緒にカードやゲーム盤を持ってくるようになった。
酒の入ったイグナシオは、セバスチャンを相手にしょっちゅうピケやバックギャモンに興じるのだが、2人とも見事に全部顔に出るたちなので、勝負は毎回駆け引きもクソもなく、ポンコツもいいところだった。
「旦那様!伯爵家当主ともあろうものが、そんなに腹芸ができなくてどうするのですッ」
「お前にだけは言われたくないぞセバスチャン」
「執事の正直は美徳ですが、当主のバカ正直はお家の危機です!」
「アッ貴様、なぜ私の正直の前にだけ『バカ』をつけた!?」
低レベルなやりとりが夜っぴて続く。
勝負に夢中な2人は、このドングリの背比べが伯爵邸の使用人達の間で、賭けの対象として格好の娯楽になっていることをまだ知らない。
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天気が良ければ、イグナシオは庭に出て小さなイチイの世話をする。
最初のうちは、園丁の手を借りながらおっかなびっくりだったが、今では堂に入ったものだ。
イチイの丈はイグナシオの腰ほどの高さにまで伸び、今年になって初めていくつか小さな赤い実をつけた。
イグナシオは慣れた手つきでイチイの様子を確認しながら、次のミケへの手紙にはイチイが実をつけたことを忘れずに書かないとな、と呟く。
彼はミケの幸せを願っているが、それでも彼女から手紙が来る度に、「結婚しました!」と書かれていませんように、と祈ってしまう気持ちを捨てられないでいる。
そして、このイチイがもっと大きくなって、もっとたくさん実をつけたら、この世界の何処かに隠れているミケを探しに行ってもいいだろうかとふと考える。
―――完―――




