終章の後 05
報せは突然だった。
ある夜、寝静まった伯爵邸に息を切らせた別邸の使用人が駆け込んできて、エンリケが再び倒れたことを告げた。
愛人のいる別邸にソフィアを連れて行きたくなかったイグナシオは、状況を確認するために単身アパルトメントに向かった。
眠そうな門番に軽く頷いて見せ、狼狽えた使用人の案内で持参金返済計画闘争以来の寝室に入ると、意識のないエンリケの横で、先に呼ばれて来ていた医者が難しい顔で何かの処置を施していた。
付き添っていた愛人は、イグナシオに遠慮して席を外したらしい。
イグナシオが覗き込むと、エンリケは土気色の顔で、浅く呼吸している。
脈をとっていた医者が顔を上げ、イグナシオに状況が芳しくないことを告げた。
側に控える使用人によると、どうやらエンリケは医者の忠告を無視して、酒だ美食だと不摂生を繰り返していたらしい。
別邸の使用人たちは言を左右にしていたが、愛人や使用人たちも強いてそれを止めようとはしなかったようだ。
まあ無理もない。エンリケの横暴に逆らえば、彼等の身の方が危なかっただろうから。
逆に言えば、己の職や立場を危うくしてまでエンリケを守ろうとする者など、彼の周囲にはいなかったということだ。
なんて最期だ、とイグナシオは苦しげに歪む父の顔を見ながら呟いた。
それとも、誰の言うことにも従わず自分のやりたいようにやった挙げ句の結末なのだから、父としてはこれで本望なのだろうか。
今となってはそれを聞くこともできない。
結局、エンリケはそのまま意識を回復することなく、夜が明ける少し前に息を引き取った。
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あちこちに案内を出したにも関わらず、エンリケの葬儀は列席者も疎らで、ガランとした聖堂にパイプオルガンの音ばかりが大きく聞こえていた。
イグナシオはソフィアと並んで座り、これじゃ自分の結婚式のときとどっこいどっこいの寂しさだなと思い返す。
横で何故かフロレンシアだけが啜り泣いているが、場の雰囲気に合わせているだけで、別段悲しいわけでもないだろう。
多くもない弔問客が去った後、神官に「家族だけでのお別れの時間を」と促され、イグナシオは父の柩の傍らに立った。
父への憎しみはもう感じないが、だからといって、父の死によりその罪を赦すという気にもならない。ただ、どうしようもない疲労感が澱のように身のうちに沈んでいた。
ふとソフィアがその場を離れる。
そして、その立場から聖堂に入ることを許されず、喪服に身を包んだまま外で所在なげに立っていたエンリケの愛人を連れて戻ってきた。
オドオドする愛人に、ソフィアは静かに語りかける。
「長いこと一緒に過ごした人とちゃんとお別れできないのは辛いでしょう。
貴女に思うところがないわけじゃないけど、貴女だって美しい盛りをあの横暴で自分勝手な男に捧げてきたわけだし、私としても最期の方は貴女に面倒を全部押し付けてしまった後ろめたさもあるの。
貴女も歳をとって、これからも愛人稼業を続けるのは難しいでしょう?
あのアパルトメントは解約してしまうけれど、あの人が貴女に贈った宝石やドレスは全部あげるから、これからはそれで真っ当に暮らすことを願うわ」
ソフィアの言葉にボロボロ涙を流す愛人の姿を見て、イグナシオはかつてソフィアに言われた「貴方は自分の勝手で2人の女性を不幸にしている」という言葉の行き着く先を見せられた気がした。
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そこからイグナシオは更に忙しくなった。
フロレンシアは、また私を放ったらかしにしてひどい、貴方ってやっぱりそういう人だったのねと文句を言ったが、正直それに構うどころではない。
伯爵位の継承、財産の相続、遺品整理、アパルトメントの売却、辞めていく別邸の使用人には推薦状を書いてやり、断続的に現れる「昔お父上にお金をお貸しした」と称する連中や愛人その2その3以下続々に対応し……イグナシオは毎日身体がいくつあっても足りない思いを味わっていた。
幸い、と言ってはおかしいが、エンリケは生前「縁起が悪い」「まだ死ぬ気はない」と言って頑なに遺言書を作ろうとしなかったので、相続については法に則って粛々と進めればよい。
これで妙な遺言でも残されていたらどれ程苦労が増えたことか、とイグナシオは今更ながらゾッとした。
遺されたアパルトメントや、エンリケが生前買い漁った贅沢品の売却にあたっては、驚いたことにベルトラン商会からわざわざホルヘがやって来て、それらの品が不当に業者に買い叩かれないよう目を光らせてくれた。
ホルヘは「うちへの返済にも関わることですからな」とおおらかに笑ったが、縁の切れた相手にここまでしてくれる懐の大きさにイグナシオは感じ入った。
そして、同じ父親でもこんなにも違うものかと、ミカエラを羨ましく思わずにはいられなかった。
それから数日後、別邸の書斎の整理を任されていたセバスチャンが、血相を変えてイグナシオのもとにやってきた。
聞けば、エンリケが普段使っていた机の、鍵のかかった引き出しから、とんでもないものが見つかったという。
セバスチャンが「触ると何だか呪われそうなんですが……」と言いながらイグナシオに差し出したのは、エンリケが自分の日記から自らの手で編纂したと思われる分厚い原稿の束で、『我が栄光 エンリケ・レイエス自伝』と表題があり、自分に何かあったときは必ずこれを出版して、彼の偉大さを世に知らしめるように、と書き添えられていた。
ちらりと中身を検めれば、それはもう誇大に美化されたエンリケの我儘勝手な放蕩人生が自慢タラタラに書き連ねられており、数ページ読んだだけで頭が痛くなる。
これを出版しろというのかあのクソ親父、とイグナシオは天を仰いだ。
イグナシオとセバスチャンは分厚い原稿の山を挟んで善後策を話し合ったが、
「出版社に持っていく途中、うっかり橋の上からばら撒いてしまう、というのはどうだろうか」
「遠い東の国にはオタキアゲという小粋な風習があるそうですよ」
などと、「捨てる」の案のバリエーションが増えるばかりだった。
捨てたいのは山々というか捨てたい気しかしないのだが、これを出版せよというのは遺言書も残さず逝ってしまった父の唯一の遺言のようなものでもある。
勝手に処分してエンリケに夢枕にでも立たれたらたまったものではないし、流石に2人だけではどうしたらいいのか簡単には決められなかった。
思い余ったイグナシオは、ソフィアに原稿を見せて相談することにした。
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「あの人の最期の願いだもの。出版してあげましょう」
イグナシオから渡された原稿をバラバラと確認したソフィアは、即座に言い切った。
「しかし、息子である私の目から見ても、このめちゃくちゃな自慢話を出版するのは流石に………」
渋るイグナシオに、書棚をゴソゴソしながらソフィアが言う。
「そうね。でも、これを限りにレイエス伯爵家の膿は出し切ってしまうべきだわ。
あの人の代ですっかり悪い噂の的になってしまったレイエス家の真実を、この際世間の皆さんにも知ってもらいましょう。
というわけで、イグナシオ………覚悟はいいかしら?」
たいそう黒い笑顔で振り返ったソフィアの手には、彼女自身の古い日記があった。




