終章の後 04
離縁の期限が目前に迫っていた。
イグナシオはその日に向けて、セバスチャンにさえ告げることなく密かに個人資産の整理を進めた。
ミカエラに支払う慰謝料を捻出するためである。
額はともかく、「レイエスがベルトランに慰謝料を払う」という事実こそが重要だった。
ミカエラの今後のためにも、この愚かな結婚と離縁の罪の所在がどちらにあるのかを世間に明確に示さなくてはならない。
つまらぬ意地かも知れないが、これだけは誰の手も借りず、自分の手でやりたかった。
手持ちの贅沢品を売り払う業者を選ぶ際、ちょっとだけ帳簿の隅っこでミカエラに相談してしまったが、そこはまあ、ノーカンにしてもいいだろう。
2人の帳簿を挟んだ一言文通は今も続いていたが、イグナシオもミカエラも殊更に離縁の話はしなかった。
代わりに、庭のイチイがもう実をつけたとか、ベルナルドが風邪気味のせいか最近料理の味が濃いとか、ポツリポツリと他愛もないやりとりが繰り返される。
その裏で、お互いの離縁の手続きは静かに進んで行き―――
ある夜、執務室を訪れたセバスチャンが、3日後にミカエラがレイエス家を出ることになったとイグナシオに告げた。
※※※※※※※
ミカエラがレイエス家を出る日、イグナシオはフロレンシアを伴って朝早くから街に出かけた。
自分たちが屋敷にいては、皆がゆっくりミカエラと別れを惜しめないだろうと思ったのである。
久しぶりの2人での外出に、フロレンシアは嬉しいような気まずいような顔をしていたが、イグナシオが最近の余裕のない態度を謝り、もうエンリケの横暴を恐れる必要はないし、フロレンシアのことを大切にしたいと思っていると伝えると、ホッとしたように微笑んだ。
そして、まじまじとイグナシオを眺め、何だか最近老けてみすぼらしくなったみたい、私と結婚するまでには元のキレイでカッコいいイグナシオに戻ってね、と口を尖らせた。
イグナシオは苦笑した。
フロレンシアを大切にしたいという言葉に嘘はないが、彼女の望むあの無知で傲慢な「キレイでカッコいいイグナシオ」には戻ってやれそうもない。
それにあの頃に戻れないのはフロレンシアも同じことだろう。
どんな人間もどんな関係も、そのまま留まることも過去に戻ることもできないのだから。
皆、変化しながら前に進むしかないのだ。
イグナシオは、上機嫌のフロレンシアをエスコートしながら考える。
あの頃、あれだけ2人の恋が燃え上がったのは、結婚を反対されたことへの反発も大きかったのかも知れない。
少なくとも、イグナシオは完全に自分に酔っていたし、周囲に悲恋だ真実の愛だと持ち上げられていい気になっていた。
あの時の情熱の全てが反発によるものであったとは思わないが、2人を固く結びつけていた障害がなくなった今、あの熱さで恋情を抱き続けることができるかどうか、イグナシオにはわからなかった。
何度でも情熱的に「愛している」と言われることを望むフロレンシアに、このことを納得させるのは難しいかも知れない。
しかし、これからの人生を共にするのならば、いずれは穏やかに支え合える関係になれるよう、互いに模索していくべきではないだろうか………
頭ではそんな事を思い、口ではフロレンシアの絶え間ないお喋りに相槌を打ちながらも、気がつくと目は苦味のある茶葉が並ぶ店先を彷徨っていて、イグナシオは己の愚かさに改めてため息が出た。
※※※※※※※
その日遅くイグナシオたちが帰宅すると、屋敷は妙に静まり返っていた。
元々姿を見ることのできなかったミカエラが家を出たところで、イグナシオにとっては何も変わらないはずなのに、彼女が去った屋敷は何か空虚でガランとして見えてしまう。
使用人たちも皆一様に暗い表情を浮かべており、若いメイドの中には目を真っ赤に泣き腫らしているものもいるようだ。
これもまた、自分の愚かな選択が招いたことなのだと思うと、そのまま寝室に行く気にもなれなくて、イグナシオは少し仕事を片付けておこうとひとり執務室に向かった。
「…………?」
暗い執務室の机の上に、何かが乗っている。
明かりを灯し、机に近づいてみると、それは小さなイチイの苗木だった。
その側には、安物の結婚指輪と一緒に、ミカエラからの手紙が置かれている。
震える手で封を切り、便箋を開くと、いつもの帳簿の隅っこのやりとりと変わらぬ簡潔さで、彼女からの別れの言葉が綴られていた。
「短い間でしたがお世話になりました。
信じていただけるかわからないけど、結構楽しい3年間でした。
お餞別にイチイの苗を置いていきます。
イチイはゆっくり成長する木だそうです。
イグナシオ様もゆっくりでいいので、立派な当主になってください。
この子が一人前のイチイの木になるまで、伯爵家のことをよろしくお願いします」
イグナシオは静かにイチイに手を触れた。
若葉を撫でると微かに緑の匂いが立ちのぼり、あの日のイチイの精の笑顔が思い出される。
イグナシオはミカエラの手紙を握りしめたまま、今夜少しだけ涙を流すことを自分に許した。
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こうしてイグナシオは独り身になった。
フロレンシアはすぐにでも結婚したがったが、その場に居合わせたソフィアが、「じゃあ早速将来伯爵夫人になるための教育を始めましょうか」と言うと、「やっぱり離縁してすぐに結婚したんじゃ外聞が悪いし、折角独身に戻ったんだから、もう少し恋人気分を楽しみましょう」と前言を翻した。
イグナシオとソフィアは顔を見合わせた。
外聞が悪いのはその通りなので、フロレンシアがそれでいいならこちらに否やはないが、彼女は何時まで面倒事から逃げ回るつもりなのだろう。
「まあ、代替わりまでに根気よく言い聞かすのね」
フロレンシアが食堂を出ていった後、ソフィアはガックリと項垂れるイグナシオの肩をポンポン叩いた。
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ミカエラが家を出てひと月余りが経った頃、イグナシオのもとに「ミケ」とだけ署名のある手紙が届いた。
怪しげな手紙に訝っていると、手紙を盆に乗せて運んできたセバスチャンが「ミカエラ様ですよ」と耳打ちする。
聞けば、フロレンシアを除く屋敷の人間全員にミカエラから手紙が来ているという。
「では、私も私宛の手紙が来てますので!」とセバスチャンがスキップで立ち去った後、イグナシオははやる気を抑えてそっとミケの手紙を開封してみた。
そこには、ベルトランに戻って元気にしていること、父ホルヘの計らいで、噂が喧しい国内を離れ、外国を旅しながらベルトラン商会の買い付けや販路の拡大を手伝っていること、外国の貴族と渡り合う際にソフィアから学んだ貴族式のマナーがとても役立っていることなどが、例の元気のいい筆致で綴られていた。
そして、旅続きで住所は決まっていないけど、商会に返信を送ってくれれば旅先に転送してもらえるから、皆いつでもお手紙くださいね、と結ばれている。
まさか自分にまで手紙が送られてくるとは思っていなかったため、イグナシオは胸が熱くなった。
早速ペンをとり、こちらも元気でいることや、ベルトラン商会のおかげで領地経営が順調なこと、イチイの苗をかつてイチイの精に遭遇した場所に植えたこと、手紙を貰って本当に嬉しいと思っていることを、何度も書き直しながら便箋何枚にもしたためる。
ソフィアや使用人たちもそれぞれ返事を書いたのだろう、翌日集荷にきた郵便馬車には大量のミケ宛の手紙が積み込まれ、その重みで心なしか荷台が沈み込んでいるように見えた。
ミケからは程なくしてまた屋敷の全員に返事の返事が届いたが、手紙を開くとブルブル震える字で「腱鞘炎になりました」と書かれていて、イグナシオは頭を抱えた。
そして、手紙はとても嬉しいが、自分の分はそんなに頻繁でなくていいので、ちゃんと手を休めるようにと書き送った。
それからはペースは落ちたものの、数ヶ月に一度の頻度でミケから手紙が届き、それを庭に植えた小さなイチイの隣に腰を下ろして読むことがイグナシオの何よりの楽しみになった。




