終章の後 03
各方面に協力を仰ぎ、苦労して練り上げたイグナシオの持参金返済計画であるが、その実現に向けてはもう一つ大きな関門があった。
伯爵家当主エンリケ・レイエスの承認である。
当主の署名がなくては、いくら立派な計画書であっても実効力を持たない一片の反故に過ぎない。
とは言え、エンリケはかつてのイグナシオに輪をかけて持参金を返さない気満々であろうから、別邸に書簡だけ送ったところで、署名が貰える見込みはゼロに近い。
ここは、どうあってもイグナシオが別邸に出向いて、エンリケと直接対決する必要があった。
父親にはこれまで散々反抗してきたが、その一方でどれだけ反抗しても一度もイグナシオの意見が通ったためしのない相手でもある。
今は病を得て多少なりとも弱っているとしても、幼い頃からのトラウマはやはり乗り越え難く、イグナシオは父への恐怖心をどうにも拭い去れずにいた。
とりあえず予行練習と称して、セバスチャンにエンリケ役を演らせ想定問答を行ってみたが、演技が大根過ぎて屁のつっぱりにもならない。
イグナシオは横で腹を抱えて笑っているソフィアを恨めしげに眺め、申し訳なさそうに縮こまるセバスチャンに命じて、エンリケ役を免除する代わりに計画書の写しを山ほど用意させた。
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数日後、イグナシオは後ろに大きな書類鞄を2つ抱えたセバスチャンを従えて、初めて目にする父のアパルトメントを見上げていた。
勢いでどうにかここまで来たが、こうして見るとやはり足が竦む。
逃げ出したくなる気持ちに駆られながら、イグナシオはイチイの精に出会ったあの日、彼女に「自分を変えたい」と言ったことを思い出していた。
そうだ、自分を変えるには、自分が変わるしかないのだ。これからは自分の足で立つとあの時心に決めたではないか。さあ、踏み出せ………
イグナシオはあの時の自分の言葉に必死にしがみつき、ともすれば踵を返しそうになる己に鞭打って、ついに父とその愛人が暮らす伏魔殿に足を踏み入れのだった。
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別邸付きの使用人は、レイエス伯爵家嫡男の突然の来訪に驚きながらも、イグナシオとセバスチャンをエンリケが療養する寝室に案内した。
「入れ」の声に使用人が扉を開けると、贅を尽くした部屋の豪奢なベッドの上に、半ば身を起こし、こちらを尊大に睨めつけるエンリケの姿があった。
「………ご無沙汰しております、父上」
「イグナシオ。何の用だ」
この日、父と息子の間に多少なりとも友好的な会話があったとすれば、この挨拶くらいのものだった。
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「話にならん」
予想通り、エンリケはイグナシオの計画書をろくに見もせず突き返してきた。
内容を説明しようもしても、「こんなもの何の意味もない。誇り高きレイエス家の跡取りともあろうものが平民におもねるなど恥を知れ」と罵られ、突き返された計画書を再び渡せば今度は破り捨てられる。
しかし、イグナシオもここで引くわけにはいかなかった。
破られても破られても、セバスチャンに大量に用意させた計画書の写しを次から次に書類鞄から取り出しては、「レイエス家は貴族の間でも、いい加減評判を落としてしまっている。ここで誠意を見せなければ歴史ある家名に更に泥を塗ることになる」とひたすら理詰めでエンリケに署名を迫り続ける。
流石に病床にある父を相手に掴み合いまではしなかったものの、2人を見守るセバスチャンが何度かタオルを投げ入れそうになるくらいには激しい言い争いが続いた。
しかし、議論が長引けば、声が大きいだけで実のない主張の方は自ずと力を失っていくものである。
まして、エンリケは療養中の身、いつまでも同じ熱量で怒鳴り続けるのも無理があった。
結局、寝室の床が破り捨てられた計画書の残骸でいっぱいになる頃、イグナシオのあまりのしつこさに、ついにエンリケが音を上げた。
そして、別邸にかかる経費の減額はしないという条件付きで、イグナシオは父からどうにか計画書への署名をもぎ取ったのであった。
悪態をつきながらもベッドの上で背を丸めてサインをする父の姿がやけに小さく見えて、思わずイグナシオは目を逸らした。
帰りの馬車の中でも勝利の感覚は無く、寧ろ自分がもっと早くこうしていれば、ミカエラのこともフロレンシアのことも不幸にせずに済んだのにという後悔ばかりが浮かんできて、イグナシオは行きより随分軽くなった書類鞄を抱えてため息をついた。
と、その顔の前にヒョイと金属製のフラスコが突き出される。
驚いて隣を見ると、セバスチャンが「ご立派でした」と微笑んでいた。
「………模範的な執事が酒を持ち歩いているのか?」
「とんでもない。『気つけ薬』でございますよ」
すました顔で言ってのけるセバスチャンに苦笑してフラスコを受け取り、乾杯するように目の高さまで掲げると、イグナシオは目を閉じて『気つけ薬』を喉に流し込んだ。
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持参金返済計画の問題がどうにか片付いてからも、イグナシオの毎日は忙しかった。
執務や離縁の準備に追われる一方で、すっかり関係が拗れてしまっているフロレンシアとも話し合いの機会を持とうとしたが、2人の時間はなかなか合わない。
少し前、フロレンシアの夜遊びを巡って口論になり、怒ったフロレンシアが2人の寝室からイグナシオの私室に通じるドアに鍵をかけてしまったので、今では寝る部屋も別々になっている。
イグナシオにとっては頭の痛いことだが、それにかまけて仕事を疎かにするわけにもいかなかった。
この問題は時間をかけて解決の糸口を探すことにして、とにかく仕事を片付けようとイグナシオは今日も帳簿を開く。
すると、新しいページの欄外に、見覚えのある大きな踊るような字で何か書き込まれていることに気がついた。
「イグナシオ様
最近、イグナシオ様がお出かけになるたびに苦味のある茶葉をあれこれ買ってきては鬼気迫るお顔で茶棚に詰め込むので、棚がパンパンになって怖いとメイドたちが心配しています。大丈夫ですか?」
それは、ミカエラからイグナシオへのメッセージだった。
イグナシオは信じられない思いでその短い文章を何度も読み返した。
そして、我に返って慌ててペンを取り、ミカエラからのメッセージの下に返信を書き付ける。
「すまない。母から君が苦味のある茶葉を好むと聞いて、街で見かけるとつい……
メイドたちを怖がらせているとは気づかなかった。今後は控えよう」
ドキドキしながら帳簿をセバスチャンに返し、翌日また借り出して開いてみると、ミカエラから返事が来ていた。
「あっ、でもこないだ頂いた南国産の赤い缶のやつ、すごく美味しかったです!棚が空いたらまた買ってきてくれますか?」
イグナシオはパッと顔を輝かせ、その下に勢いよく「もちろん!」と書き込んだ。
こうして、伯爵家の帳簿の隅っこで、イグナシオとミカエラのメッセージのやりとりが始まった。
内容はほとんどが事務連絡だったり、経理についてイグナシオがミカエラの意見を求めたりといった短いものだったが、それでもイグナシオの心は随分慰められた。
この小さな交流は、2人が離縁する日まで続いた。




