02 「良い妻になりなさい」
周りに誰もいないのをいいことに、ミカエラは爪先に纏わりつく花嫁衣装を蹴り飛ばし蹴り飛ばし、ぶらぶらと控室に向かった。
顔合わせの時点で、イグナシオにとってこの結婚が不本意であることは、口に出されずとも察してはいた。
流石に他に言い交わした相手がいるとまではわからなかったが、名家のお坊ちゃんの身からすれば、いきなり降って湧いた格下も格下の商人の娘との縁談など、問題外もいいところだろうとは思っていたからだ。
そこへ持ってきて、彼が心に決めた相手と無理やり引き裂かれた結果として今日を迎えたのだということを知ってしまえば、そりゃあ慚愧に堪えなかろうと同情する気持ちも無いではない。
ちなみに、ミカエラ自身はイグナシオに対して全く思うところはなかった。
2度会ったきりの、今日まで一言も話したことのなかった花婿に対して、好きも嫌いも判断できるわけがない。
さりとて、他に好いた相手がいるわけでもなく、結婚への憧れも特段持ち合わせてはいない。
そして、ホルヘの第一子であるミカエラの信条もまた、「お貴族様には逆らうな」であった。
お貴族様たるイグナシオにどれだけ嫌われたところで、「まあ、そうだわな」と思うだけで、気持ちの上では正直痛くも痒くもない。
何なら今宵初夜の場で、かの有名な「お前を愛することはない」が炸裂するのかな、くらいのことまでは想定していた。
実際は予想より遥か前、結婚式直後に「愛することはない」どころか「顔も見たくない」まで言われてしまったわけだが、見方によってはそれもミカエラに変に期待を持たせない、それなりに誠実な態度と取れないこともないかもしれない。ような気がする。
とは言え、ここまでの経過を踏まえて、ミカエラがイグナシオに今後夫として愛情を注げるかと問われれば、答えは「無し」である。
「無しだわ、無し無し、イグ『無し男』だわ〜」
と、まあまあ大きな声で唱えながらミカエラが控室のドアをスッパーンと開ければ、中で着替えの手伝いをするために控えていた女性たちが目を丸くして花嫁を見ていた。
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花嫁衣装からシンプルな日常着に着替えたミカエラは、大きな旅行鞄を両手にぶら下げて控室を出た。
輿入れに当たって、嫁入り道具や新しい衣装を準備しようとする両親を押し留めたのは、ミカエラの判断である。
強欲な伯爵のこととて、下手に豪華な道具や衣装を用意すれば、そのまま巻き上げられてしまうかもしれないと思ったのだ。
徒手空拳で伯爵家に乗り込むのはいささか心許ないが、ただでさえ法外な持参金にわざわざお土産までつけてやることはない。
旅行鞄には、貴族の目には留まりそうもない、本当に大事な私物や最低限の身の回りの物だけが詰め込まれていた。
聖堂を出ると、花婿はとっくに伯爵家の馬車に乗って行ってしまった後で、家紋のない小さな馬車が、ミカエラを伯爵邸に送るためにぽつんと取り残されていた。
2人で帰れば馬車賃1台分で済むのに勿体無い、そういうとこやぞイグ無し男、と思いながらミカエラは馬車に乗り込む。
荷物と一緒に狭い車内で揺られながら、ミカエラは家を出る前に両親にかけられた言葉を思い出していた。
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「私の力が足りず、お前にこんな不利な縁談を押し付けることになって本当に済まない」
別れの朝、父はミカエラの双肩に手を置き、苦しげに言った。
「だがその代わり、お前の作ってくれたチャンスを掴んで、必ず高位貴族たちに商売を広げてみせる。
だから、3年、どうか3年は伯爵家で妻として頑張ってくれ。それまでにはレイエスの名など必要ないくらいベルトランを盤石にしてみせるから」
次いで涙を浮かべた母がミカエラを抱きしめる。
「あちらでは旦那様の言うことをよく聞いて、良い妻になりなさい。
どうせお貴族様には逆らえないのだから、いっそ年季奉公のつもりでひたすら頭を低くして働けば、変に文句をつけられる危険を減らせるでしょう。
それに、周囲から『非の打ち所がない妻』という評価を得ておけば、何かあったときはその評価が必ずあなたを守ってくれるはずよ」
ミカエラは両親の言葉を胸に刻み、2人を心配させないよう笑顔でサムズアップして家を出たのであった。
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夫の言うことを聞いて、良い妻になる。
ミカエラはここまで夫に言われたことを思い返してみた。
「私には真に愛する女性がいる」
「社交の場には連れて行かない」
「3年後に離縁する」
「顔も見たくない」………
してみると、図らずも夫もミカエラの実家も、この結婚は「期間:最大3年」と見ているわけだ。ミカエラは頷いた。
では、母の言う通り年季奉公でもするつもりで、3年間は夫の言いつけを守る良妻として過ごそう。
ここまでで夫に言われたことを忠実に守るとすれば、それはつまり………
「3年間、イグ無し男と、無し男が真に愛する誰だかさんの2人に、顔を見せないように隠れ続ければ良妻ってことか」
ミカエラは馬車に揺られながらそう結論づけた。




