終章 「君の顔が見えない」
初夏の日差しが伯爵邸の庭に差し込んでいた。
イグナシオは、今日も散策という名の探索に勤しむ。
庭を歩いていると、あの日の笑い声がすぐ耳元で聞こえてくるような気がして、執務の前にこうして散策することがすっかり日課になってしまった。
(ジャスミンの花が咲いたんだな………セバスチャンに頼んで屋敷にも飾って貰おう…………ミカエラは、ジャスミンの香りは好きだろうか?………それにしても、今日はひどく日差しが眩しく感じる………)
屋敷の皆は、イグナシオのこの日課を、「執務に追われる日々の気分転換」ということにしてくれている。
不甲斐ない自分を支えてくれる周囲への感謝も、以前は感じたことのなかったものだ。
自分が見ていなかったのは妻だけじゃないんだな、とイグナシオは自嘲した。
ふと強い日差しに目が眩む。
思わずよろめいたイグナシオは、地面に突き出した木の根に足を取られて、そのまま膝をついてしまった。
立ち上がろうとするが、どうやら足首を捻ったらしい。
「……イグナシオ様、大丈夫ですか?」
すぐ近くから声がした。
ハッと顔を上げると、目の前のイチイの木から、緑色の何かがモサッと地面に降り立つ。
イグナシオは信じられない思いでその姿に目を凝らした。
「…………君、は……………」
「立てますか?」
呆然と座り込むイグナシオに、初夏の陽光を背にしたその人物は、まっすぐ手を差し伸べてくる。
(私は幻を見ているのだろうか………?
でも、この声は確かに………
………ああ、太陽が眩しくて、君の顔が見えない………)
安物の結婚指輪が光るその小さな手に―――イグナシオのかすかに震える手が重なった。
―――終―――




