16 「………それは普通に私だ」
その日から、イグナシオは屋敷にいるときも庭にいるときも、何かを探すようにそこかしこに視線を走らせるのが癖になってしまった。
もしかしたら、あの令嬢がまた不意に現れるのではないかという考えが頭を離れないのだ。
しかし、なぜ見知らぬ令嬢が夜中の伯爵家の庭を歩いていたのか、考えれば考えるほどわからない。
そもそも、あの夜自分が目にしたものは現実だったのだろうか。
不意に差し込んだ月光のせいで幻を見たということはないだろうか。
今となってはイグナシオに確かめるすべはない。
月の光が見せた幻覚か、屋敷に住み着く幽霊か。
幻でも、幽霊でもいい。それでも、もう一度彼女に会いたかった。
夜は眠れぬままに屋敷や庭を彷徨う。
最早恋の病だったが、イグナシオ本人にその意識はなかった。
何しろ彼は真実の愛を貫く男であり、それはフロレンシアであると公言してしまっている身なのだ。
その彼が、自分の心の中にしかいないかもしれない幻の女に恋などするわけがない。
イグナシオは自分に言い聞かせる。
きっと自分は疲れているのだ。だから幻を見るのだ。それでも―――それでももう一度、彼女に会えたら。
皮肉なことに、そんなイグナシオの変化に真っ先に気づいたのはミカエラだった。
急に周囲に注意をはらうようになったイグナシオに、ミカエラは「なんか最近難易度上がったな?」と思いながらも、これまで培ったノウハウで華麗に非可視ミッションを遂行し続けた。
※※※※※※※
「………セバスチャン」
「ハイ?」
廊下を歩いているところを力ない声で呼び止められたセバスチャンは、訝しげに振り返った。
目にクマを作り、少し痩せたイグナシオがきまり悪そうにモジモジしている。
「いかがなさいました、若旦那様」
「つかぬことを訊くが………最近、屋敷に幽霊が出るという噂はないか?」
「………………ハイ?」
「………おかしなことを訊いていることはわかっている。だが知りたいのだ。
………栗色の髪の、若い女の幽霊だ………
見たことがあるという者はいないだろうか」
「………………………………夜な夜な屋敷を練り歩く若旦那様の生き霊を見たという噂ならございますが」
「………それは普通に私だ。ここのところ、よく眠れなくてな………」
イグナシオは目元を押さえた。
セバスチャンは複雑な表情で彼を見守る。
「お疲れなのでございましょう。
どうか、あまり思い詰めないでくださいませ。
若旦那様がお悩みのご様子だと、フロレンシア様まで散財が加速、いえ、ご不安が増してしまわれます」
「ああ……そうだな。済まない、セバスチャン。変なことを訊いたな。今日はもう休むよ」
「おやすみなさいませ」
部屋へと戻って行くイグナシオの背中を見送って、セバスチャンは呟く。
「随分と弱っておいでのようだ。あの、いつも自信と誇りに満ちていた若旦那様が、私に『済まない』などと………
それにしても、若旦那様は何故急にミケのことを気にし始めたんだろう……?
一応、大奥様に報告しておくか」
首を捻り捻り、セバスチャンはソフィアの私室に向かった。
※※※※※※※
翌日、ミカエラとソフィアは、応接室で客を待っていた。
誰あろうミカエラの父ホルヘその人である。
領地管理人の選定に彼が携わって以来、ソフィアは領地の経営に関し、多くの面でベルトラン商会に相談に乗ってもらうようになっていたのだ。
およそ人・物・金の動きにおいて、熟練の商会ほど頼りになる助言者はいない。
寧ろ、迂闊に商人に協力を求めようものなら、世事に疎い名門の貴族など格好のカモにされてしまうところだが、ソフィアとミカエラの間に培われた友情は、逆にレイエスとベルトランの結びつきを「家族」と呼べる関係にまで育てていた。
約束の時間ピッタリに、セバスチャンに案内されてホルヘが入ってきた。
彼はミカエラを軽く抱きしめ、ソフィアに慇懃に頭を下げる。
そして、余計な挨拶で時間を無駄にするのを惜しむように、席につくなり本題に入った。
「レイエス領より戻って参りました。
現状を知るにはやはり自分の目で見るのが一番ですな。
早速あちらの状況をご説明しましょう」
実家にいた頃と少しも変わらないせっかちな父に、ミカエラは思わず吹き出した。
※※※※※※※
ソフィアは、ホルヘの報告を頷きながら聞き終えた。
「ありがとう、ホルヘさん。お陰で随分見通しがハッキリしましたよ。
でも心苦しいわ。レイエスはずっとベルトランに助けてもらうばっかりで、何もお返しできていないんですもの」
ホルヘは笑顔になった。
それは、商人が客先に向ける儀礼的なものではなく、心からの、父親としての笑顔だった。
「何をおっしゃいます。感謝しているのは私どもの方ですよ。
こちらでミカエラを温かく迎え入れていただいたことを知って、我々ベルトランがどれ程安心したことか。
ソフィア様や使用人の皆様には感謝してもしきれません。
これからもどうぞうちの娘をよろしくお願いします」
ソフィアとホルヘは固い握手を交わした。
そこへ、セバスチャンが入ってくる。
「只今若旦那様が執務室を出ておいでです」
「そう……では申し訳ないけれど、私たちのお見送りはこの部屋でさせていただきましょう。
セバスチャン、ホルヘさんをお送りする馬車を用意してね」
応接室を辞したホルヘは、セバスチャンの先導で正面入り口のホールに差し掛かった。
そこで、ふと何者かの視線を感じて振り返る。
そこには、驚愕の表情を浮かべた娘婿が、吹き抜けの階段の上からこちらを見下ろしていた。
「…………?」
イグナシオが平民のベルトランを嫌っていることは承知しているが、何もあんな幽霊でも見たような顔をしなくても良かろうに、と思いながらホルヘはイグナシオに一礼し、屋敷を出た。
※※※※※※※
ホルヘを見送って戻ってきたセバスチャンは、青い顔のイグナシオに詰め寄られて驚いた。
「セバスチャン、さっきの客人は…………?」
「……ベルトラン商会のホルヘ様でございます」
「あ………」
悄然と立ち竦むイグナシオをその場に残し、セバスチャンはその場を去る。
(自分の結婚相手の親の顔も覚えておいでじゃなかったのか……それじゃあミケを見かけても誰だかわからないのは当然かもしれんな……)
と思いながら。
残されたイグナシオの頭の中では、セバスチャンの言葉がグルグルと渦巻いていた。
(ベルトラン商会のホルヘ様でございます)
………ベルトランの連中の顔など、覚えていなかった。
結婚前の顔合わせのときも、ずっと目を逸らし、そっぽを向いていたのだから無理もない。
だが、今日初めてまともに見た義父の顔は、イグナシオの知る人物、否、知らないが求めてやまない人物を強く想起させるものだった。
あの、栗色の髪。
踊るような、ダークブラウンの瞳。
「…………ま、さか…………」
イグナシオの中で、ひとつの考えが形を取りつつあった。




