15 「ノーカウントでございます」
「ぐえっ」
イグナシオはうつ伏せに地面に叩きつけられた。
顔を上げようともがくが、セバスチャンと馬丁にしっかり押さえつけられて、身動きがとれない。
その間も、セバスチャンは叫び続けている。
「頭を上げてはなりません、若旦那様!
ハチでございます。それもオオスズメバチでございます!
毎年国内で20人以上が襲われて命を落とすという、最恐最悪のオオスズメバチでございます!
なんと恐ろしい……しかもこやつ、羽音もたてませぬ!!
正真正銘生まれながらの暗殺者、キラー・ビーに違いありません!
ですがご安心ください!このセバスチャン、命に代えても若旦那様をお守りいたしますー!!」
バタバタした挙句、イグナシオはどうにかこうにか背中に乗った2人を振りほどいて立ち上がったものの、最前の麗しい令嬢の姿は忽然と消えていた。
キョロキョロしていると、馬車からゆっくりとソフィアが降りてくる。
「キラー・ビーは大丈夫だった?イグナシオ」
「は、母上!今ここにいた令嬢はどこへ行ったのですか?彼女は一体誰なんです?」
ソフィアは冷ややかな目でイグナシオを見た。
「………何を言っているの?令嬢なんていませんよ」
「し、しかし先程その馬車から……」
「馬車に乗っていたのは私だけよ。何かを見間違えたんじゃない?」
「見間違えた……?そんなはずは……」
混乱するイグナシオの横では、セバスチャンがむせび泣いている。
「おいたわしや若旦那様……キラー・ビーの恐怖で幻覚をご覧になったのですね……なんということでしょう」
イグナシオはわけが分からなかったが、そこにいる全員が幻覚だ見間違いだと断言するので、渋々納得せざるを得なかった。
※※※※※※※
その日の夕食どき、厨房ではミカエラがひどく落ち込んでいた。
「イグナシオ様に見つかっちゃった……もう良妻失格だ……」
そこへ、セバスチャンが入ってくる。
「大丈夫ですよ、ミケ。
若旦那様はミケの姿を見ましたが、どこかのご令嬢だと勘違いしていらっしゃいます。
ミケの変装が完璧だったので、若旦那様はミケを認識できなかったのです。
つまり、『家庭内非可視ミッション』において、今回のエンカウントは『ノーカウント』でございます!」
「そ、そうかな……」
顔を上げるミカエラに、使用人たちが次々と声をかける。
「そうでございますとも!」
「いやあ見事な変装でしたよ!」
「ノーカウント、ノーカウントでございます!」
使用人が口を揃えてノーカン、ノーカンと言い続けるのを見ているうちに、ミカエラに笑顔が戻ってきた。
※※※※※※※
それから何日かが経ったが、イグナシオは未だにあの令嬢を忘れられずにいた。
食事の席でもうわの空で、フロレンシアに話しかけられても生返事ばかりしている。
それを呆れた目で見ていたソフィアが、思い出したようにフロレンシアに声をかけた。
「そう言えば、もうすぐまた婦人会があるんだけど、あなたも一緒に行く?」
「……どうしてそんな意地悪を仰るのですか?あそこの人たちは、みんな私が日陰者だからとコソコソ悪口を言ったり冷たくしてきたりするんです。それなのに、会に参加しろなんて……お義母様は、私がいじめられるところをご覧になりたいのですか?非道いです………」
涙を浮かべるフロレンシアを見て、ソフィアが鼻白む。
「行きたくないならいいのよ、別に」
「そうやって、またあの平民女を連れて行くおつもりなんですね。お義母さまは、いつもあの女ばかり可愛がって………私の気持ちなんかどうでもいいと思っていらっしゃるのだわ」
「……フロレンシア、やめないか」
声が高くなるフロレンシアに、見かねてイグナシオが割って入った。
「!!………イグナシオまでそんなことを言うの!?日陰者の私にとって、この家で味方はあなたしかいないのに……非道いわ!ここのところ全然一緒に居てくれないし……他に女の人が出来たんでしょう」
「私のどこにそんな暇があると言うんだ。代替わりの準備で忙しいのを君だって知っているじゃないか。
私のそばに居たいなら、執務室で経理や屋敷の運営について一緒に勉強したらいいだろう」
疲れたように目元を押しながらイグナシオが言うと、フロレンシアはワアッと泣き出す。
「経理や屋敷の運営なんて、お義母さまか雇い人の仕事でしょう?
私にそんなことをしろと言うなんて、優しかったイグナシオはどこに行ってしまったの?
ああ、もう私死んでしまいたい……!」
フロレンシアは悲劇のヒロインよろしくガバと立ち上がると、美しく涙を散らしながら食堂を飛び出していった。
頭を抱えるイグナシオの向かいで、ソフィアが上品にコーヒーを啜る。
「あらまあ。真実の愛が走って行ったわ。
なんだかどさくさに紛れてとんでもない発言が聞こえた気がするけど、私も流石に代替わりしてまで経理や屋敷の運営を引き受けるつもりはないわよ」
イグナシオはギクリとする。
その可能性は考えないではなかったが、結局ソフィアはイグナシオを手伝ってくれるだろうという甘い見通しを立てていたのだ。
「……もしかしてあなたも私にやらせるつもりだったの?勘弁して欲しいわ。
まあ、代替わりまでに私たちで伯爵家の経営の健全化はしっかり進めておくから、その後はあなたたちでいいようにして頂戴。
あの子がやらないと言うなら、あなたがそっちもやるか、それこそ人でも雇うのね」
ソフィアは立ち上がり、給仕メイドに「ごちそうさま」と言い置くと食堂を出ていった。
残されたイグナシオは、先程のソフィアの「"私たち"で進めておく」という言葉に引っかかりを覚えながらも、フロレンシアを宥めるために重い足取りで彼女の部屋に向かった。
※※※※※※※
その夜、イグナシオは眠れないまま2階のバルコニーにもたれて庭を眺めていた。
あの後、フロレンシアがひどく荒れて、使用人たちにまで「自分を蔑んだ目で見た」などと言いがかりをつけだしたため、夜遅くまでかかって宥めていたのだ。
イグナシオの頭がズキズキと痛んだ。
私の可愛いフロレンシア。
可愛い「だけの」フロレンシア。
愛があれば、それだけでいいと思っていたのに―――
今つらいのは過渡期の混乱のせいで、代替わりが済めばきっと全てが良くなる、父に怯える必要はなくなり、周囲の皆に祝福されて、フロレンシアと幸せに暮らすのだ、と自分に言い聞かせてみても、イグナシオは以前のようにその見通しを楽観的に信じることはできなくなっていた。
※※※※※※※
鬱々と思い悩んでいたイグナシオは、ふと何かを感じてハッと眼下に目を凝らした。
―――誰かが庭を歩いている。
暗い色の服を着ているため小柄なその姿は定かではないが、踊るような足取りで、何か小さく歌っているようだ。
その時、雲間から庭に差し込んだ月明かりが、なびく栗色の髪を浮かび上がらせた。
「あの人は………!」
イグナシオは自分の目を疑った。
皆に幻だと言われ、日が経つにつれ自分でもそう思いかけていたあの令嬢が、今、目の前にいる。
こんな夜更けに、なぜ令嬢が伯爵家の庭に、という疑問の思い浮かぶ暇もないまま、イグナシオはバルコニーに身を乗り出し、彼女に声をかけようとした。
「イグナシオ!こんなところで何をしているの」
しかしその瞬間、後ろからフロレンシアの両腕がイグナシオの腰に巻き付いた。
イグナシオは出かけた言葉を飲み込み、フロレンシアの方に振り返る。
「フロレンシア……いや、ちょっと目が冴えてしまって……」
「目が覚めたらベッドにいないからびっくりしたわ。早く戻りましょう?ここは風が冷たいわ」
「う、ああ……」
イグナシオは庭に目をやったが、令嬢の姿はまたしても掻き消えていた。




