木の上の観客と石鹸の香り
夜明けの冷気が王宮の訓練場を包んでいた。この時間は、姫付きの専属騎士であるユージンにとって唯一自分だけの研鑽に充てられる貴重な時間だ。
日中はレティシア姫の奔放な振る舞いに振り回され、夜は夜で王宮の不穏な空気に胃を痛める。
独り静寂の中で、剣を振るうことだけが、彼の騎士としての均衡を保つ術であった。
「……ふう。」
ユージンが静かに吐き、構える。対戦相手のない一人稽古。しかしその気迫はまるで目に見えない敵を相手にしているかのように、重く鋭い。
無駄のない足運び。空気を切り裂く鋭敏な太刀筋。それは、平民騎士が一生かけてもたどり着けない亡国の清華そのものだった。
そんな彼の気迫を文字通り『高い視点』から凝視している影がある。
(なによ、あいつ。普段は胃薬ばかり飲んでいるくせに。)
訓練場の外縁、大きく枝を広げた樫の木の上。レティシアはドレスの裾をひっかけながら、息をひそめていた。
姫である彼女が、単身で訓練場に立ち入ることは許されてはいない。
ガストンら騎士たちの目が光っているからだ。
けれど、どうしても見たかった。自分を『子供扱いする年下の騎士』が、人知れずどのような顔をして、どのような風を纏って戦うのかを。
(わぁ、……綺麗だわ。)
ふいにレティシアの心にそんな言葉が浮かんだ。
ユージンの剣は、力任せの暴力ではない。まるで流れる水のように、あるいは凛と咲く冬の華のように、冷徹で気高い。その動きに魅了され、彼女はもっと近くで見ようと身を乗り出した。
その時だった。
『メキリ』という不吉な音が、朝の静寂を切り裂いた。
(あっ…。)
支えにしていた細い枝が、彼女の体重に耐えかねて悲鳴を上げる。重力に惹かれ、金色の髪が視界を遮る。真っ逆さまに落ちる感覚。レティシアは反射的に目を瞑った。
__ガシャンッ!!
耳元で、固い金属が石畳にたたきつけられる無残な音が響く。
地面に叩きつけられる衝撃を覚悟したレティシアだったが、次に彼女を包んだのは、冷たい土の感覚ではなかった。
「……っ、姫様‼」
切迫した、聴きなれた声。
ユージンの腕が、彼女の身体を力強く、折れんばかりの勢いで抱き止めていた。
レティシア鼻腔を吐いたのは、荒い吐息と石鹸の香りであった。清潔でどこか懐かしい香り。
その香りが、彼女の死の恐怖を瞬時に安堵へと書き換えていく。
恐る恐る目を開けると、そこには砂まみれになって転がっている自らの愛剣など目もくれず、真っ青な顔で自分を睨みつけるユージンの瞳があった。
「……何やってるんですかっ!」
その目に宿る隠しきれないユージンの鋭い光にレティシアは言い返す言葉も見つからず、ただ彼の腕の中で石鹸の香りに包まれていた。
手が付けられない、姫(笑)




