「推しは世界を救う」
「本当にかわいい。僕と結婚してくれる?」
「……けっ、結婚!?」
「うん。僕のものになって?一生幸せにするから」
出会って1分も経ってないのにプロポーズされるなんて、誰が想像できただろうか。 しかもその相手が、私の“推し”だなんて。
もちろん返事は──
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晩ごはんは、昨日の残りの味噌汁とコンビニのおにぎり。高校生の一人暮らしなんてそんなものだ。
私は結城沙那。高校3年生。
お母さんは病気で長く入院していて、お兄ちゃんは……家を出て行った。一人寂しく残された私は、結局こうして暮らしているわけだけど。
「あ、今日お見舞い行かなきゃ」
気づけば、もう一ヶ月も顔を出せていない。バイト漬けで忙しかったのもあるけど……正直、日に日に弱っていくお母さんを見るのが少し怖かったのかも。
──放課後。
小脇にガーベラの花束を抱えて病院に着くと、独特の消毒の匂いと静かな空気に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。慣れたはずなのに、何度来ても落ち着かない。
一度深呼吸をしてからドアをそっと開けると、ベッドの上で編み物をしていたお母さんが顔を上げた。
「久しぶり。沙那」
少しやせ細った頬。それでも、その笑顔は不思議と私を安心させてくれて。
「……ねぇ、お母さん」
「どうしたの? 真剣な顔しちゃって」
「お母さんが入院してから、ずっと……お兄ちゃんに頼らなくても生きてこられたよ。だから──」
大きく息を吸い込んで、覚悟を込める。
「お母さんのことは私が守るからね」
「……ありがとう。嬉しいわ」
目を細めて微笑むその姿は、すぐにでも消えてしまいそうなくらい弱々しかった。何年も一緒にいるんだから、無理して笑ってることくらいわかるよ。
「お兄ちゃんとはうまくやってるの?」
「……う、うん! もちろん!」
咄嗟についた嘘に胸が痛んだ。けど、本当のことを言ったらお母さんは悲しむに決まってる。それ以上何も言えずに気まずさから視線を逸らした私を、お母さんの瞳は静かに射抜いていた。……きっと全部、お見通しなんだろうな。
「じゃ、じゃあ行くね! そろそろバイトだから!」
「待って沙那」
逃げるように立ち上がった私の背中を呼び止める声。ゆっくりと振り返ると、お母さんは射抜いていた目をふっと緩めて私を見つめた。
「いつもありがとう。頼もしくなったわね」
その微笑みと言葉に、思わず目頭がじんわりと熱くなる。
──ああ、やっぱりお母さんには敵わないな。
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家に帰るなり、カバンを放り投げてベッドにダイブ。
毛布に顔を埋めると、ふわっとした温かさに包まれて、少しだけホッとする。モヤモヤした気持ちも、このまま吸い込まれればいいのに。
「……お兄ちゃん、か」
最近になって、同じ宛先からメールが届くようになった。怪しくて未開封のまま迷惑メール行きにしていたけど、差出人は”結城 千尋” ──確かにお兄ちゃんの名前。
「向き合うべきなのかな……」
そう思っても、胸の奥の抵抗感が邪魔をする。
無理だよ。今さら元に戻るなんて。だって、私を置いていったのは紛れもなくお兄ちゃんなんだから。
なのに、結局スマホを手に取って迷惑メールフォルダを開いてしまうのは、お兄ちゃんのことを嫌いになりきれていないからなのか。心臓はバクバクと音を立てて、指先は小刻みに震えている。
“元気にしてるか?
何度も連絡してごめん。お兄ちゃんはいつでもお前 の味方だからな!何かあったらいつでも頼れよ”
「……っ、今さらお兄ちゃんヅラしないでよ」
許せないはずなのに、勝手に溢れてくる涙は止められなかった。
心配してるなら、なんで私を置いていったの。
なんで、ひとりにしたの。バカ兄貴。
無意識にテレビのリモコンに手が伸びる。そうでもしないと、この堪えきれない静寂に押しつぶされそうで。
画面から流れるのは、賑やかな笑い声と観客の拍手。
その明るさが別世界のように感じられて、今の私の胸には重く突き刺さった。
涙を拭いながら、ぼんやりと画面を見つめると、そこに映っていたのはおとぎ話から飛び出してきたみたいな美少年たち。その中でも、一際目を引いたのが雪のような白い髪を揺らすひとりだった。
眩しいスポットライトを浴びながらマイクを持つ彼と、画面越しに目が合っているようで目が逸らせない。彼が微笑むたびに観客が黄色い歓声を上げる。
その瞬間──なぜか私の胸はぎゅっと掴まれた。
「……好きだ。この人」
この出会いが芸能界に足を踏み入れるきっかけになるなんて──この時の私はまだ、想像もしていなかった。