ヒトと怪物
苗はなぜ、この世界で生き残れたのか。
それは先生にもわからない。
まだ“先生”と呼ばれる前の怪物が、花に囲まれて眠る小さな身体を見つけたのが、すべての始まりだった。
そのとき辺りには、他の場所よりも霧が薄く、甘やかな香りが漂っていた。黒い毒を押し返すように、花は小さな命を守っていた。
目覚めたばかりの苗は意識が揺らぎ、この世界がどうなっているのか、何も知らなかった。言葉も曖昧で、ただ花を抱くように両手を胸に当てていた。
「わたし…は…だれ?」
その小さな問いに答えるように、
怪物は、その姿に名を与えた。
「君は…苗だ。花の、苗。」
声はひび割れ、ぎこちなかったが、その名は少女の中に根を下ろした。
やがて怪物を“先生”と呼び、心から慕うようになった。
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ある日のことだった。
苗は自分の手をじっと見つめて、先生に言った。
「ね!先生!わたしね、すごいことできるんだよ!」
両手をそっと包み込むように合わせると、掌の隙間から温かな光が零れ出した。
やがて小さな蕾が顔を出し、淡い色の花弁を広げて咲いた。
「えへへ…!」
苗の顔が輝いた瞬間、先生の紫の眼は大きく揺らいだ。
だが同時に、苗の足先がじわじわと紫色に染まっていくのを、先生は見逃さなかった。
「やめなさい、苗!」
叫んで手を伸ばしたが、花はもう咲ききってしまっていた。
「……大丈夫。ほら、綺麗でしょ?」
苗は笑顔で差し出した。だがその笑顔は、どこか儚げに震えていた。
それが、苗が初めて花を咲かせた瞬間だった。
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年月が経つにつれて、苗の疑問は増えた。
なぜ自分は花を咲かせる力を持つのか。
なぜ先生は怪物の姿なのか。
そして、自分以外に人や怪物は本当にいないのか。
ある朝、苗は袖を引いて言った。
「ねえ、せんせい。人間を探す冒険に行こうよ!」
だが先生は、視線を霧へ逸らしながら答えた。
「……行かせられない。君は人間だ。霧の中は…危ないから…。」
それでも苗は諦めずに何度も迫った。
数週間後、とうとう先生は根負けして、暗い声で語った。
「僕はもう旅をしたんだ…白銀の森は、ガラスのように砕け散っていた…湖は干上がって、魚の気配すら無かった…こんな世界じゃ…どこにも人間はいないよ…。」
苗はしばらく黙り、やがて無理に笑って見せた。
「……そっか。せんせいがそう言うなら、きっとそうなんだね」
だが、その言葉の意味を理解するには、まだ幼すぎた。
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その夜。
苗が眠ったあと、先生は窓辺に立ち、黒い霧を見つめていた。
「……僕は、何をしているんだろう。」
白衣の裾から影が長く伸びる。手を持ち上げると、そこにあるはずの首を探すように空を切った。
「いつ、死ねるのかな……。」
囁きは夜に吸い込まれ、答えはどこからも返ってこなかった。
ただ霧が、静かに動くだけだった。
先生の本来の姿は別作品で登場しますが、今とかなり違う印象だと思います。
別作品で何故先生が生まれたのかを語る予定です。