Ⅰ
その日のマックスはあまり寝起きがよくなかった。
以前はこんなことはほとんどなかったのだが、2か月前に前世を思い出してから時々こういう日がある。夢で前世の記憶を無意識にたどっているのかもしれないが、起きた時には何も覚えていないので単純に寝起きが悪いという現象だけが残っている。
これが続くと困るなぁ、とマックスは心配しているが前世を思い出してから時間とともにその頻度は減ってきているのでそこまで深刻に考えてはいない。だが彼の家族はそうでもなく、急に熱を出して倒れたことも相まって何だかんだ不器用ながら心配しているらしい。
彼の家族は「灯火」という名前の宿屋を経営している。
父は食堂で自慢の料理の腕をふるい、母は掃除や洗濯、繕い物など細々した家事をこなす。まだまだかくしゃくとしている祖父は受付で客の対応にあたっている。その他に客の馬の世話をする馬飼いの親子を雇っている。
マックスは時間帯によって忙しさの違う家族の仕事それぞれを手伝いながら充実した日々をおくっていた。
そんな日常が続くと思われた矢先、前世の記憶が流れてきたのだ。体調や心境の変化はあれど、毎日の忙しさには何ら変わりはなく、それなりに忙しい従来の生活を続けていたのだった。
というのもマックスの住む「ギュズラの町」は、王都から離れたのどかな田園地帯にもかかわらず、この地方では最も賑やかな町なのである。一帯の領主であるギーズ侯爵の住む城がこの町にあるのだ。しかも城に住み、領土を治めているのは代官ではなく侯爵本人なのである。
またこの町には昔の王朝時代の遺跡が残っていて、学者や吟遊詩人、観光客もよくやってくる。ゆえに訪れる人も多く、貴族ではない旅人向けの宿屋が町には何軒もあるのだ。マックスたちの宿屋はそのうちの一軒のである。
目覚めが悪かったマックスは今日も何かすっきりとしないまま着替えて顔を洗って、食堂の厨房で遅めの朝食を済ませた。そのまますぐに洗い場にたまった食器を洗い始める。
「マックス」
父フェルナンドが洗い終わった食器を拭きながら声をかける。客の大半は朝食を済ませ、彼は少し手が空いたところだった。
「何?」
「お前、風邪でもひいたのか?」
「え?」とマックスはここではじめて丸々とした、血色のいい父の顔を見て言った。「風邪なんてひいてないよ。何で?」
「お前は最近起きてくるのも遅いし、ため息ばっかりついてるから、そう思ったんだ。違うならいい。ただこれからどんどん寒くなるからな。具合が悪かったら無理しないで休め。客にうつしたりしたら大変だから」
「ああ、うん。わかったよ」
言えない。前の人生の記憶について、夢で見たり考え込んでいるなんて。彼は再び食器を洗い出した。水が冷たい。けれどフェルナンドの言うとおり、冬はこれからやってくる。
「ねぇ、父ちゃん」
「何だ?」
「父ちゃんは…」
「おーい。旦那!」
マックスの言葉に客の威勢のいい呼びかけが重なって、フェルナンドはカウンターの方に振り返った。まだ朝食を済ませていなかった客がやってきて、食事を頼んだところだった。
「………」
マックスはスープをよそったり野菜を盛りつけたりするフェルナンドをぼんやりと眺めた。やっぱり言えるわけがないのでどこか安心したような気もする。
「で、何だ?」
「何でもないよ。じゃあ」
そう言って食堂を出ると、母マリアが湯気の立った木の椀を二つ載せた盆を持って、廊下で待ち構えていた。
「マックス、葛湯を作ったのよ。これをおじいちゃんの所に持っていきなさい」
「じいちゃんはいつもの所にいるの?」
マリアは困ったようにうなずいた。
「さっきまでずっと門の所の草むしりしてたのよ。もういいからって中に入れたんだけど、寒いって言ってね。これを持っていっておやり。呼ぶまではあんたも一緒に休憩してていいわ」
実際、この日はまだ10月のはじめだというのに風が冷たくて寒かった。雨が降りそうな空模様で、日も射してなかったのだ。
「うん。わかった」
祖父オーガストはマックスにとって最も親しみ深い人物だ。幼い頃、両親は仕事で忙しくてマックスの世話をしている余裕がなかった。祖母はマックスが生まれる前に亡くなっていた。だから彼の面倒はいつも祖父のオーガストが見ていたのだった。
町の中を散歩したり、家の入口の受付で昔話を聞いたり、幼い頃の記憶のほとんどにオーガストは登場している。
一番楽しかったのは、5歳の誕生日のことだった。もうあんまり覚えてはいないけれど、ギュズラのもっと先の大きな町にサーカスがやってくるという話しを聞いた。たぶん客が食堂で話しているところを聞いたのだろう。マックスはサーカスが何だかわからなかったが、それを見たいと思った。
でも四六時中忙しそうにしている両親にそんなことは言い出せない。
5歳の誕生日、朝早くオーガストに起こされ、買出しに使っている馬車に乗せられた。どこに行くのか聞いても、祖父は笑うだけで教えてはくれない。随分と長い時間馬車に揺られて、着いたのは初めて見る大きな町だった。
マックスがサーカスを見たがっていることをオーガストは知っていた。だからフェルナンドとマリアを説得して彼に内緒で連れてきたのだった。
嬉しかった。サーカスは、あまり覚えてないがとても楽しかった。その町ではギュズラにはないような珍しい物がたくさんあって、果実の入った焼き菓子を買ってもらった。何よりもオーガストに連れてきてもらったことが嬉しかった。
今日もオーガストは外出する時に着る、古びた毛皮の外套にくるまったままカウンターに陣取って宿帳の新しいページに線を引いていた。マックスは隣の席の椅子を引いて腰掛ける。
「じいちゃん、母ちゃんから葛湯もらってきたよ。飲もう」
「おお、そうか。まったく、今日は何だか寒いなぁ」
マックスはうなずいて木の匙でとろとろとした、暖かい飲み物を飲み込む。
「まだ10月はじめだっていうのに、何でこんなに寒いんだろう?じいちゃん、無理しちゃダメだよ」
二人は無言で葛湯を飲んでいた。
この時間が好きだった。前の人生では家族でさえかかわりが薄かったように思えるが、今のマックスだって幼いころに両親と過ごした記憶は少ない。どんなに記憶がこんがらがりそうになっても、確かに自分はマックスでこの家で生まれ育ったとはっきり自覚できるのは祖父の存在感があるからといえるのだ。
「ねぇ、じいちゃん」とマックスは言った。「じいちゃんはおれぐらいの時って、何してたの?」
オーガストは「ふぁふぁふぁ」と何本か歯の抜けた口で笑った。マックスにはその笑いは何とも心地よく響いた。
「何にもしとらんよ」
「何にも?」
「そうじゃ。お前の方がよほど働き者じゃ。この宿屋はわしが子供の頃にできたもんだが、わしは末っ子だったから家の仕事はなーんにもしなかった。いつもいつも、町外れのカリストと一緒に…色々なことしたのぅ。とにかく遊んでいたことしか覚えとらんわい。マックスは本当に偉いのぅ」
マックスはそう言われても何だかばつが悪い気がした。
「じゃあ、何でこの宿を継いだの?」
「わししか継げる人間がいなかったんじゃ」
彼は葛湯を一口飲み込んでから言った。
「姉たちは嫁いでいって、兄たちは血の気が多かったから戦争行ってみんな死んでしもうた。残ったのはわしだけじゃった」
「じいちゃんは、ここを離れようって思わなかったの?」
「思ったとも」
「何で…離れなかったの?」
「結局、ここ以外の所にいる自分を想像できなかったんじゃな」
「…そっか」
マックスは匙で最後の一口をすくって飲んだ。
その時、外でガラガラと門の開く音がした。
「さあて、仕事じゃ」
オーガストはそう言って宿帳をカウンターに戻し、マックスは葛湯の入っていた椀を客から見えない位置に押しやった。
石畳の上を歩く足音が近づいてきて、扉が開いた。冷たい風と客が入ってきて、茶色の外套を頭からすっぽりと被った客は寒そうにすぐに扉を閉める。マックスは立ち上がった。
「旅の方、ようこそ『灯火』へ!」
客は外套から顔をだして楽しそうにくすりと笑った。肩よりも長い鮮やかな赤い髪が印象的な若い男だった。
その緑の瞳と細面に、マックスはハッとした。
「よぉ、マックス!やたら他人行儀だな!まさか、オレを忘れたんじゃねーだろな?」
「…レオン!」
それは約2年ぶり再会した、親友のレオンであった。