Ⅱ
翌日、レオンは家に戻り、荷造りを簡単に済ませた後で家の裏に広がる森に入っていった。元々彼は王都からこの町に帰ってきたばかりだったの、で必要なものはまとまったままカバンごと部屋においてあった。だからそれを少し詰めなおすだけで荷造りは完了してしまったのだ。
夕方になってマックスが様子を見にやってきた。レオンは一日中森の手入れに精を出していたが、しばらく放置していたためにとても一日では終わらなかった。
「ああ、もう夕方か。なかなかはかどらなくて」
「だと思った。迎えにきたぞ。どうせ食事の用意もできてないだろ。王都に行くまでおれの家にいればいいって母ちゃんも言ってるし、行こう」
「それは助かる。ちょっと待ってろ、荷造りが終わったから持っていく。実はオレって王都から帰ってきて一ヶ月ぐらいしか経ってないんだよな」
「そう言われればそうだった!不思議だな。お前が帰ってきたのはもうずっと前のことみたいだ」
このような日が五日ほど続いて、その次の日。夕方に以前マックスとレオンを侯爵の所に案内した男が言付けがあるといってやってきた。レオンはまだ遺跡のほうにいたので、マックスが話を聞く。
「侯爵様は明日の朝、お二人を迎えにこちらにおいでになるとのご意向でございます」
「わかりました。ただ侯爵様がわざわざここに来なくても、おれたちのほうから行ったほうが…」
「お気持ちはありがたいのですが」
男は使者に特有の頑なな声の調子で言った。
「侯爵様はどうしてもここに立ち寄りたいとのことですので、ここでお待ちください」
「は、はい」
マックスは侯爵がなぜ「灯火」にどうしても来たいのか、よくわからなかったが、家族とレオンにその話をした。レオンは特にそのことを気にせず、明日寝坊したら大変だと言ってさっさと眠ってしまった。
翌日、いつもより早めに起きた二人は朝食の後、建物の回りの掃除をしていた。朝の空気はもう十分に冷たい季節になっている。宿泊客が出払って客室の掃除をしてまわっていた時、食事をしたいという客がやってきて食堂に通された。
「灯火」では宿泊せずとも料金を払えば食堂だけ利用することもできるのだ。
謎の客はマックスとレオンを呼ぶように頼んでからフェルナンドが出した食事を妙に上品に食べ始めた。フェルナンドはこんな時間に変わった客だと思った。
奇妙な客に呼ばれて二人が食堂に入ってみると、カウンターでフェルナンドと談笑していた若い男が振り向いた。
「やあ、おはよう。食べ終わったら出かけようか」
二人は文字どおり飛び上がって口をパクパクさせた。フェルナンドは怪訝そうな顔をした。
「こ、侯爵様!」
「な、何だって!」
フェルナンドも飛び上がった。
「ああ、すまない。驚かせてしまったね」
「領主様がそんな格好で目の前にいたら、そりゃ驚きますよ…」
ギーズ侯爵はいたってありふれた旅装姿、すなわち薄茶で砂埃が目立たないという外套で、一見したところただの若い旅行者にしか見えない。ただ豪華な金の髪をまとめている白い絹のリボンだけがその外套に不似合いだったので、そこに注目すれば彼が身分を秘した旅行者であることがわかるだろう。
ところが外套だけではそんなことはわからないし、実際に領主であるパトリックの顔をはっきりと見知っている領民は少ないので、彼は誰にも気づかれずにここまできたのだった。
「『灯火』、うん。そうそう、やはりここだ。実は私は10年ぐらい前に一度ここにきたことがあってね。レオン君の手紙でこの宿の名前を見たときから何か引っかかっていたんだ」
「侯爵様がうちにですか?」
マックスとフェルナンドは同時に言った。
「その時もこういう格好をしていたはずだから、気づかなかっただろうね。そう、思い出した。マックス君がこんなに小さくて、食器を運んだりしてたっけ。赤毛の子もいたからあれがレオン君だったのかな?」
絶対にそうだ。領主に覚えられていたということが、なんだかくすぐったい。
「しかし、何でまた侯爵様がこんな所にいらしてたんですか?」
「旅行でね」
「旅行ですか?」
「そう。私の十代の頃からの趣味なのだよ。先祖代々の領地であるギュズラを見て回るのがね。王都や他の都市にはほとんど行ったことはないけど、ギュズラ地方だったらよくこうして旅行しているんだ。この町は私の城からすぐの所だからなかなか泊まることはしないけど、10年前は偶然泊まったんだ。その時この食堂で食べた料理がおいしくてね。思い出したら久しぶりに食べたくなった、というわけさ。ご主人、ありがとう。昔食べたのと変わらない、おいしかったよ」
侯爵はカウンターにチップを置いて立ち上がった。
「さて、食事も済んだし、出発しようか」
「あ、ありがとうございます!」
衝撃発言から何とか復活したフェルナンドは何度も何度も頭を下げた。
「君たちは荷物を持っておいで。私は入口の所で待っているよ。正体が知られたからには早々に退散しなければいけないからね」
侯爵はいたずらっぽく笑った。
マックスとレオンは急いで部屋に荷物を取りに走る。
二人が外に出ると、門が開いていてそこに馬車が停まっていた。馬車を曳く二頭の馬は早く走らせろといわんばかりにいなないて、御者の手を焼いていた。
馬車はこれも一般の旅行用の地味な物で、こんな物に乗っている若い旅行者がこのギュズラの領主であることなど誰も気づくことはなかった。ただいかにも体躯のいい二頭の馬に曳かせているところから、諸国漫遊の身分を秘した財産家と見られることはあるだろう。
従者が一人、御者の近くに控えている。領主が出かけるというのに少人数である。これが侯爵の「お忍び旅行スタイル」だ。
マックスの家族はすでに茶色を基調とした馬車を取り囲んでいて、興奮した様子で侯爵に口々に何かを言っていた。そこにマックスとレオンがやってきて、侯爵に手招きされて馬車に乗り込んだ。
「マックス!レオン君!侯爵様に失礼のないようにね!」
「わかってるよ!」
よく侯爵の使者としてやって来ていた若い男が馬車の戸を閉めた。侯爵の話では彼がマックスの代わりにしばらく「灯火」で働くという。
彼が合図を出すと同時に御者が馬を走らせる。二頭の馬は鞭で打つ必要がないほど勢いよく走り出して、石畳の上にリズミカルな蹄と車輪の音を響かせた。
「うわっ、早い」
レオンは窓から次々に流れ去っていく町の様子を見て驚いていた。何人かの通行人も横を走り抜けていく馬車を驚いたように眺めていた。
「うちの御者と馬は少し荒っぽいんだよ。街道を走る場合はこれぐらいがちょうどいいんだ。町の中ではゆっくり走れっていつも言ってるんだけどねぇ」
馬車はすぐにギュズラの町の門を出る。門といっても形式的なもので、出入するさいに街道に直結していて便利なためにそう呼ばれているにすぎなかった。