序章
「いつまで寝てるつもりなの!いい加減に起きなさい!」
バターン、という勢いのいい効果音を伴って部屋の戸が開くなり、大きくはないが響きのいい母の声が大して広くない部屋こだました。
「…うーん」
息子はだいぶ前から目を覚ましてはいたが、起きるのがおっくうで毛布を被ったままわざと眠そうな声を上げた。だがその演技は母には通用しない。
「マックス!子供じゃないんだから寝たふりなんてしてないで、早く起きて仕事を手伝いなさい!」
母マリアはそう言うと勢いよく戸を閉めて出て行った。マックスは仕方なしに起き上がる。
「…いや、だから、マックスって…うん、おれだな…」
ベッドに腰かけたまま、彼はうなだれた。一瞬、自分が誰でどこにいて何をしているのかという基本情報が錯綜する。
先月、彼は17歳の誕生日を迎えた。そして唐突に思い出したのだ。
「前世」というものを。すなわち、マックスではなかった時の人生の記憶を。
きっかけはよくわからない。外傷的なものは一切なかった。むしろわけのわからない記憶が流れ込んできたせいで熱を出した。
前世の自分は日本という国で暮らすごく平凡な高校生だった。もっともマックスの記憶では「コウコウセイ」というのが何だかわからないが、勉強をしていたという記憶はうっすらある。年齢は確か18歳だった。今のマックスである自分よりも年上だ。
その18年分の記憶が前触れもなく押し寄せてきたのだ。そりゃあ混乱するよなー、と寝込みながら思ったものである。
前世を思い出したからと言って、マックスとして生きてきた17年がなくなるわけではない。
17年分の記憶ははっきりとあるし、その記憶に伴った感情も全部自分の中にしっかりと存在している。前世の記憶といっても、それはものすごくあいまいなものだったからだ。
以前の自分の名前も顔も家族も覚えてない。ただ日々の生活の断片的な感覚や記憶がマックスとしての人生とは別に「確かにあったもの」と認識できるだけである。
しかも今マックスとして彼が生きている世界は前世とは全く異なる世界のようだ。よって前の人生の記憶というのはあまり意味をなさないだろう。
先日父の横で皿洗いをしていた時に「食洗器あったらすんごい時短になるんだろうなー」とほぼ無意識に呟いたら父に思いっきり変な顔をされた。まだ熱が引いてないと思われたらしい。
「食洗器」という製品も「時短」という概念も、この世界には存在しない。もし存在するとしたら、それはもっとずっと未来でのことかもしれない。ここはそういう世界だった。
マックスとしての人生に不満はないと言ったらウソになるが、はっきりと覚えてもいない前世が恋しいわけではない。なぜ突然前の人生なんて思いだしたのかわからないが、それに未練はないはずだ。今の自分が生きている場所はここなのだから。
ただ記憶の混乱やふとした時に自分ではなくなるような感覚。これがどうにも落ち着かなくて、マックスは深くため息をついた。