首吊り台の上から
テティスは風を纏いながら眼下を見下ろす。
汚れてくすんだワンピースはあちこち破れているうえにサイズがずいぶん小さい。そのせいで太ももが丸見えだ。
テティスが見ているのは海。
潮風が海の独特の匂いを持ってくる。
海の向こうは緩やかにまあるく、それでいてまっすぐな線になっている。
その線の上、目に痛いほどの青空に大きく白いもくもくとした雲が美味しそうにわきあがっていた。
それでテティスのお腹が思い出したようにくぅ、と鳴る。
テティスは垢にまみれた左手でお腹を押さえる。でも目はずっと海の向こうを見続ける。
テティスの赤い髪はべっとりと脂や垢がこびりついていたので、髪は風に靡かない。
座ってぶらぶらさせている足は裸足で歩き回るのが当たり前だから、石や鋭いガラスを踏むこともある足の裏はかちかちで真っ黒だった。
テティスの右手にはやはり薄汚れて真っ黒な手作りの糸がほつれた人形がしっかりと抱かれていた。
潮風はついさっきからどこかひんやりと涼しいものが混じっていて、もうすぐ雨か嵐が来るかもしれないとテティスに思わせた。
それでもテティスはこの場所から退ける気はなかった。
テティスは毎日毎日この高い場所から空を、海を、街を、人を飽かず見下ろしている。
ここは街の高台、処刑場だ。大人の背より高い木枠が組まれていて、紐がぶら下がっている。
ずいぶん前にここでたくさんの人が処刑された。
紐に吊るされたまま、お腹を切られ、カラスが啄もうとほったらかしだ。
吊るされたのは男も女も年寄りも、子供も関係なくたくさん。
それでも今はもう誰も吊るされない。
テティスが座る首吊り台ひとつ残して処刑場からは消えていった。
テティスがそっと立ち上がる。ふと視線を感じて、海を見下ろしていた瞳を更に下、自分の足元に落とす。
テティスと同じくらいの歳の少女がこちらをじいっと見上げていた。
口をぽかんと開けて。間抜けな顔だな、とテティスは思った。
テティスと同じようなワンピースは白くてさらさらして身体にきちんと合った大きさだ。
テティスと同じような赤い髪はきれいに結われて清潔だった。
テティスと同じように少女も片手に人形を持っている、真新しい可愛い人形だった。
だけど。
少女の足にはピカピカ光ったエナメルの靴が見えた。
きっと良いところの子供だろう、酸っぱいような腐ったような臭いのするテティスと違って、あの子はサボンのいい匂いがするに違いない。
もしかしたらお菓子の甘く焼けた匂いかもしれない。
そう思ったらまたテティスのお腹がきゅう、と鳴った。
「ねえ、あなたテティス?」
少女が下から声を掛けてきたので、テティスは首を軽く傾げたあとに小さく頷いた。そうだよ、って言いたかったけれど声は出ない。
でもテティスは少女のことを知らない。この街で赤い髪はテティスしかいないはずなのに。
「テティス、お父さんなら無事に港に着いたよ、だから……だから、大丈夫だよ」
少女の言葉に今度はテティスが口をぽかんと開ける番だった。少女がテティスの父親を知っていると思わなかったからだ。
我に返ったテティスはもう一度海の向こうを眩しく見つめると、少女に笑顔で手を振って口をぱくぱくさせると首吊り台からぴょんと飛び降りた。
* * * * *
街の片隅で貧しい暮らしをしている少女がいた。
母親と二人で暮らしていたが、母親は流行り病であっけなく死んでしまった。
いつの間にか流れ着いていた母子だが、この場所はそういう行き場のない者が集まる吹きだまりのような場所だったので、毎日誰かが何かしらで死んでいて特に珍しいことではなかった。
ただ、テティスとその母親はこの辺りでは珍しい赤毛だったので分かりやすく目に付く母子だった。
けれど、輝くような美しい髪色というわけでもなかったので、貴族に需要のある鬘であるとか、変質的な趣味を持つような者に売れるような代物でもなく、誰かに狙われるとかそういうものからは幸いにして無縁だ。
娘はあまり言葉を上手く話せないようだった。こちらが何を言っているかは理解できていたようだ。
母親が生きていた頃に『テティス』と少女のことを呼んでいたので、周囲もテティスという名前だと理解していた。
テティスは海を抱くこの街で、時に漁を手伝ったり、時に塩作りを手伝ったり、海産物の加工を手伝ったり、靴磨きをしたり、店の残飯を恵んでもらったりしてなんとか生きながらえている。
ただ時折、海の向こうをじいっと切なげに眺めていた。
そんなある日、国の海軍と警察隊がこの街にやって来ると、街の片隅に住んでいた者を片っ端から捕縛する。足の悪い年寄りも、靴磨きの少年も、物乞いする男も、夜の街角で客を引く女も。皆。
その中にはもちろんテティスもいた。訳もわからず、有無をいわさず縄をかけられ引っ立てられて、皆混乱していた。
誰かがこっそり言った。もしかしたら街をきれいにするつもりなんじゃないか、と。テティスは思わず自分の姿を見る。確かにお世辞にも綺麗ではない、と思う。
俺たちはどこへ行っても邪魔者なんだ、という誰かの呟きが聞こえて、テティスは俯いた。
皆が連れていかれたのは広場だった。
そこには紐がぶら下がった木枠が幾つも幾つも並んでいる。
それを見上げて嫌な予感にぶるりとテティスの身体が震える。テティスたちのように子供は力がないからか腰に縄が掛けられていたので両手は自由だ。
テティスはぼろぼろの人形をぎゅっと抱き締めた。
母親が縫ってくれた大切な人形をぎゅうっと。
立派な服を着た人たちが、何事かを大きく話しているがテティスたちのところまでは聞こえなかった。集められた人たちのざわめきどよめきの声で遮られたせいもある。
テティスの顔見知りの少年は顔色が真っ青になっていた。彼はテティスより年上で、テティスに腐っていない残飯の見分け方や、食べられる草などをいつも教えてくれる親切な少年だ。
ざわめきは大きくなった。テティスが周囲を見渡せば、街中の人が見物に来ている。まるで祭典だ。
そこで視線を木枠に戻せば、輪っかの先に頭を入れている人がいた。ひとりじゃない、何人も何人も。
そして後ろから前へ進めと押される。
テティスはつんのめりながらも歩みを進める。嫌だな、と感じた。少年の方を見ると、なぜかテティスにごめんねと小さく謝ってきた。顔色は相変わらず真っ青だが泣き笑いを浮かべていたのがどうにも悲しくなり、テティスはきゅっと唇を噛む。
どんどん人は進んで、とうとうテティスたち子供の番だった。木枠の台に立たされ、輪っかを首に通された。縄は荒くてちくちくと刺さるのがまた不快だった。
テティスより小さい子や赤ちゃんもいた。その子たちは床に置かれたり座らせられている。
花火のような音がして、テティスの立っていた場所はなくなって、首が締まって苦しくて痛くて、助けて、助けておとうさん、おかあさん、と遠くなる意識のなかでテティスは願い続けた。
* * * * *
うら若い娘がひとり、広場の石碑に触れる。
この場所は元は処刑場にも使われていたが今は鎮魂の広場になっていた。
当時にあった悲しい事件を忘れないように、と広場いっぱいにあった首吊り台のうち状態の良いものを残している。現在ではもうこの一台を残すのみだった。
縄は腐るので、定期的に替えられていた。
本来なら恐ろしいものなのだが、これはこの街に暮らす者への戒めだ。恐ろしいからこそ残している。
遠い遠い昔に、この場所でたくさんの人が処刑された。もちろん犯罪者もいたが、何の罪もない人――子供も含まれていた。
街の片隅で暮らす貧しい人たちの中に、山を越えて海を渡り色んな国を荒らす窃盗団の一族が紛れていたのだと言う。
どうせ身寄りのない者たちだからと時の海軍や警察隊は有無を言わさず皆殺しにしてしまった。
本当に身寄りのない者たちばかりならきっとそのまま歴史の中に埋もれていったに違いない。当然窃盗団も壊滅したのだから。
けれど運命のいたずらとでも言おうか、処刑された中に海軍大佐の娘がいたのだ。
名をテティスと。
大佐は1年ほど前に行方知れずになった妻子のことを人を使ってずっと探させていた。その情報は伝わっておらず、管轄の警察隊も知らなかった。
彼がこの港に寄った時、首は落ちお腹を切られ鳥に突つかれ虫にたかられ野犬や野良猫にまで食われ、野ざらしになっていた可哀想なテティスを見つけてしまった。
決定的なのは死体が握って離さなかったぼろぼろの人形とその髪の色。
テティスはこの街で珍しい赤毛だった。けれど大佐の故郷ではよくある髪色で、大佐もまた同じ色の髪を持っていた。
大佐たちが調査する中で、スラム街にいたテティスを知る漁師が言った。
『いつか父親が迎えに来るんだ』、『それを待ってる』と含羞みながら海の向こうを見ていたと。
テティスには舌が半分なかった。そのせいで上手く話せない。だから口を開くこともない。だから話せないのだと皆が思っていた。
その漁師だけは、切なく水平線の向こうを見るテティスに話しかけたのだ。
その後大佐は――。
石碑には罪なき者の命をいたずらに奪ったことへの贖罪と冥福と祝福の言葉が綴られている。
でもテティスはひとり、ずっとここで待ち続けていた。迎えに来る父親を。母親から聞かされていたのだろう。
何があったかははっきりしていない。
大佐が海に出てから、どうも人攫いに遭ったらしい。そこで母子は逃げ出してこの街に流れ着いたのか、それとも人攫いと共に来たのかは分からない。
何せ事情を知ってそうな者全て処刑されてしまったから。
娘は広場かの端まで歩くと、そこから見える海を見下ろす。
海はただきらきらと光を反射させている。
振り返って仰いでみても、あの日見た少女はそこにもういない。
テティスのことはずっと知っていた。視えていた。
幼心にアレは昏くどんより汚れて濁った感じがして、絶対話しかけてはいけないと思っていた、あの日までは。
祖母から我が家に伝わるテティスの話を聞いて、娘は伝えたくなったのだ。
テティスのことをおとうさんは忘れていないよ、迎えに来たんだよ、と。
しっかりテティスを見れば、寂しく悲しく切ない顔をしていた。
でも最後は笑った顔で、今でも娘の心に残っている。
きっとテティスは両親に会えただろう。だってもう首吊り台の上には誰もいない。
『おかえりって言ってくるね! ありがとう!』
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©️2023-桜江