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アールグレイの日常  作者: さくら
東方見聞録
99/615

小猿(前編)

 わしの名は無い。


 親の顔も覚えていない。

 物心付いたときには一人だった。


 生きる為に何でもやった。

 何でもだ。

 今思えば…ろくでもない子供だったに違いない。ははは。

 周りも碌でも無い奴らばかしじゃった。


 わしは小さくて顔が猿に似ているからと、猿と呼ばれた。

 子供は残酷で、弱いものから淘汰されていく。

 おそらく、あの出会いがなかったら、今のわしは存在しなかった。

 少し昔語りになるが、聞いてくれるかい?

 なあに、ほんの少しじゃ。



 あれはわしが、おそらく6、7歳位の時のことじゃ。

 いつも腹を空かしていた。

 目だけがギョロギョロと動き、身体の大きな者に小突かれ、搾取され、いつも怯えていた。

 およそ可愛げの無い子供だったに違いない。

 だから、親にも捨てられたんだ。


 この世界は、残酷で厳しい。


 その頃の、わしは誰とも繋がらず、一人じゃった。

 そのままならば、わしは近い内に天に召されたじゃのう。

 そこらへんに、転がっていた子供の遺体のようにな。


 …ああ、その頃は別に珍しいことじゃない。

 食べるものがない、弱い者から消えていく、自然の理じゃ。


 そこに善いも悪いも無い。


 とにかく腹を空かしていたのは、覚えている。

 都市部では、身体の大きな者には敵わない。

 郊外に逃げて来ていた。


 だか都市部にも無いものが郊外にあるはずがない。

 歩き疲れて、峠の境まで来て座りこんでしまった。

 …もう、歩けない。


 今はまだ腹が空きすぎて動けない程度だか、このままの状態ならば、どうなるかは子供心に察していた。


 見上げた空が、とても青かった事を今でも覚えている。


 ふと、前を見ると、路傍に石像が立っていることに気が付いた。

 小さな小さな石像だ。

 6、7歳のわしよりも小さい石像だ。

 しかも頭が取れて傍に転がっていた。


 何故そんなことを、したのか分からない。

 頭を拾い、元の位置に戻した。


 おそらく石像と自分を重ねて思ったのかも知れない。

 自分よりも小さい石像を可哀想と感じたのかもしれん。

 よく覚えていない。

 「お礼はいいぜ、まあ食べ物だったら貰ってやるけど…。」

 誰に掛けた言葉ではなかった。独り言じゃ。


 だから返答があったときは肝を潰すほどビックリした。

 あれほどビックリしたのは人生で2回だけじゃ。

 まあ、その時は最初の1回目じゃな。


 声は、わしの後ろからした。

 「あらあら、君、お腹すいてるの。だったら一緒に食べない?」

 優しそうな女の人の声だった。

 びっくりはしたけど、警戒はしなかった。


 腹が減りすぎて、それどころじゃなかったし。

 襲う気ならば、声は掛けないじゃろう。


 何より、こんなふうに優しく言葉を掛けられたことが今まで一度も無かったから。


 わしは振り向いた。


 綺麗な、とても綺麗な女の人が佇んでいた。

 当時のわしには、とても歳上に見えたが、今思えば、20歳にも満たない少女じゃな。


 綺麗な黒髪を肩先まで伸ばした、黒地に銀色のラインの服を着とった。

 ギルド幹部の服に似ているが、少女が着るなんて有り得ないし、多分、わしの記憶違いじゃのう。


 「君、お腹空いてるの?良ければお姉ちゃんと一緒にランチしない。ご飯は一緒に食べたほうが美味しいのだよ。」

 こんなふうに優しい言葉なんて、掛けられたことなんてなかった。何だか胸が一杯になり、返答なんて出来なかった。

 必死で頷いた。

 あの人は、笑って言った。

 「お天気良いから河原で手を洗ってランチにしようか。」

 花が咲いたような笑顔じゃった。

 あの人がわしの手を繋いで、歩きだした。

 自分の汚い手が、とても恥ずかしかった。

 

 河原まで歩いている間、隣りを歩いているあの人から、とても良い香りがした。

 お陽様の光をたっぷりと吸い込んだオレンジの香りだったと思う。だからわしにとってオレンジの香りは幸せの香りなんじゃ。


 河原の水で手を洗った。

 あの人は、布巾を水に浸し、わしの身体も拭いてくれた。

 「こらこら、恥ずかしがらない。男の子は身だしなみが大事だぞ。不潔にしてると女の子に嫌われちゃうぞ。」

 だから、以来わしは風呂に入れん日にも一日一回は身体を拭くようにしておる。あの人に嫌われたくないからのう。

 まあ、身綺麗にしてても女の子にはモテんじゃったがのう…わはは。ここは笑うとこじゃ。


 火を熾して、スープを温めて飲んだ。

 至福の一杯じゃった。


 腹も満たされたが、わしの中で別の何かが満たされた気がした。込み上げてきてボロボロ泣いた。

 拭いても拭いても、あとからあとから込み上げてきて涙を流した。

 後にも先にも、あんなに泣いたことはない。


 そしたらあの人が来て、黙って抱きしめてくれた。

 幸せのオレンジの香りがした。


 泣き止んだ後は、急に恥ずかしくなって、あの人を押しのけるように離れた。

 それからチーズを挟んだ柔らかいパンを食べて、お腹が一杯になると寝てしまった。


 起きた時、全部夢だったのかと思い、あの人を探した。

 居た。夢ではなかった。

 河原で釣りをしていた。


 そうか…川にも魚が泳いでいる。…獲ればいいんだ。

 目の前が開けた気がした。


 焚き火で、あの人が釣った魚を焼き、二人で食べながら、いろんな話しをした。

 あの人の話しは、面白く、時には役に立ち、何より世界の広さを感じた。

 よく笑い、美味しそうに良く食べる人じゃったよ。


 そして、このわしに[火手]を教えてくれた最初の人じゃ。

 「いいかい、この武術は絶対に自分から逃げてはいけないとされる。でも僕の解釈では、これは自分の心を誤魔化さずに、自負自身から逃げてはいけないのであって、相手からは逃げていいんだ。君は子供なんだから危ないと思ったら必ず逃げるんだぞ。」

 [千日手]の初歩と体捌き、肘打ち、前への逃げ方を教えてくれた。

 あの人は、強敵から逃げるのは恥では無い、自分の心から逃げるのが恥であると言っていた。

 「あー、つまり転進だよ、一時的撤退さ。僕は諦めない。勝つまで何度でもチャレンジだよ。そのために食べて元気出さないとね。」笑った。お陽様の笑顔だ。眩しい。

 ああ、あの時もっと、あの人の顔を見ておけば良かったと思う。



 お別れの時が来た。

 あの人はやるべき事があると言う。

 危ないから連れて行けないと。


 分かっていた。

 あの人は、わしの頭を撫でた。行ってしまう。 

 何かを言わなければ…何かを…

 「おで…なにか…おれいを…。」胸が一杯で何を言ったら良いか分からない。


 「ん?…お礼は要らないよ。いいかい。大人が子供を助けるのは当たり前のことなんだ。」

 おそらく、その時のわしは不満そうな顔をしていたのだろう。あの人はわしに気遣って、言葉を継ぎ足した。

 「うんうん、…えらい。さすが男の子だ。ならば、君がこれから修行して強くなった時は、僕がピンチの時に助けに来て。約束だよ。」

 わしは、うんうんと何度も頷いた。

 約束だ。必ず守る。強くなって守るんだ。

 あの人と絆が出来たようで嬉しかった。



 あの人は、手を振って山の方へ去って行った。

 たった数時間の出会いじゃった。

 別れた後で名前も聞いてないことに気がついた。

 一生の不覚じゃ。


 あの出会いから何十年…わしは修行を重ねて、少しは強くなったと言える。

 いまでは喰うに困らぬ生活をしておる。

 弟子も取るまでになった。

 あの人の言葉どおり、自分からは逃げない人生を歩んで来た。

 どんなに年月が経とうと、常にわしの心の師はあの人よ。

 

 だかわしは、まだ約束を果たしていない。

 それだけが、心残りよ。



 わしの話しは、まだ続くのじゃが、聞きたいかね?

 


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