月下美人
そもそも、この我らを指揮しているアールグレイは、平民の身分で私達貴族の指導員には相応しくない。
いくら多少見目形が良かろうとも、魔法の実力があっても、私達に釣り合うわけがないのだ。
我らと、この女とは対等ではない。
今は、表面上、同じ職場で近い地位にあるに過ぎないから、公爵令嬢のアレクサンドリア様が素直に従っているから、親友のクシャの決闘の顛末がついてないから、なにより夏季講習の短い期間だけの間柄だから…直答を許している。
諸々の事由とギルドの流儀に従っているだけ…。
この女を認めているわけではない。
我らは、今でこそギルドの一士官候補生に過ぎないが、士官学校を卒業すれば、あらゆる部署を短期間で経験しながら、出世の階段を駆け上っていく。
階級がこの女より下なのは今だけで、卒業すれば、この小生意気な平民の女などは、あっと言う間に雲の下だ。
だから、この女が、我ら貴族に対して指揮するなどと無礼な態度も、寛容な心で許している。
おそらくアレクサンドリア様やクシャ、他の皆も同じような心持ちに違いない。
それに将来我らの命令で、現場を這いずる回る有能な部下とは波風立てる必要はないと考える。
今だけだ、勘違いさせてやる。
…
学業に専念し忙しい最中、友達と共同で何かをやるのも、この学校時代で最後だ。
卒業したら、つまらぬ出世競争が待っている。
だから、アレクサンドリア様の気紛れに付き合い、一時の道草のつもりで夏季講習に参加した。
だから、この女…アールグレイ少尉とも、この講習期間を過ぎれば、もう二度と接点はないのだろう。
この女と、我らとは最初から立場が違うから。
こんな風に、郊外の暗闇の中で、こんな息遣いが聴こえるような近い位置で、行動することは、もうないのだ。
…それにしても、袖擦り合うくらい近いせいか、先程から、この女の…アールグレイ少尉の良い匂いが漂って来る。
そもそも女子と、こんなにも近い位置にいたことがない。
なんとなく困惑する。
暗闇だからか、やけに我の鼻が効き、行軍中で道幅が狭いせいもあるのか…?
この女は、目的地までの先導をダーマン・エペ准尉に任せて、あえて殿を選んだ。
指揮官とは、勝利を信じながら、常に最悪をも想定する。
もし、戦いから逃走する場合、殿が一番死亡率が高い。
そしてそのバディに我を選んだわけだ。
…
ふん…なかなか観る目があるではないか。
平民ながら、その小さい身体に勇気ある心と高度な選択眼を持つとは。
我の中で、少尉の株が少しだけ上がった。
それにしても、この微かに薫る、芳しい良い匂いは何とかならないものか?
途中、不覚にも木の根に足を取られ、ぐらついた時に、隣りにいた少尉が咄嗟に我を支えてくれた。
うぁお…柔らかい。
そして先程から比べられない位の柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
意識がフワッと浮き上がる。
不本意ながら反射的に、倒れまいと少尉を抱き締めてしまった。
…
「…准尉、バーレイ准尉。」
我を呼ぶ可憐な声に、ハッとした。
「バーレイ准尉、些か腕の力を緩めてくれませんか。これでは…身動きが取れません。」
慌ててギュッと抱き締めていた腕を解いて、サッと離れる。
「少尉、こ、こ、これは…だな…」
「…分かっています。さあ、皆の後を追いましょう。離れてはいけませんよ。」
そう言って、赦すように微笑みながら少尉は我の手を取り、先導するように優しく引っ張ってくれた。
ああ…その気遣いは、なんて優しくて…そして可愛く思えた。
小さく柔らかい手に引っ張られながら…なんとも心もとないフワフワとした気持ちがした。
…
教室内で大言壮語し、強烈に反駁した彼女…の姿がフラッシュバックしたように思い出された。
その影には小さい獣人がいた。
あの時は、何の興味もなく、貴族に訳もなく楯突く生意気な平民の女と、彼女のことを見ていた。
だが…
彼女の、アールグレイ少尉のあの行動は…乱暴な言動には、窮地に陥った獣人を助けようとした、彼女の無類な優しさ故だったのではないだろうか?
…
そう、彼女は敢えて、その優しさに似つかわしくない乱暴な言動をすることで、我らの敵視を獣人から逸らしたのだ。
…自らを犠牲にして。
理屈ではない。
それが一瞬で分かってしまった。
ああ!なんて事だ…。
心臓をギュッと掴まれた気がした。
誰も彼女の優しさを分かってはくれない。
それがとても哀しい気がした。
その時、少尉の方からパリンッと何かガラスが割れる音がして、目を見開いた。
ちょうど木立の枝葉が開けて、月明かりが彼女を照らし出していた。
あ….!?
何と言うことだろう。
痩せ細った三日月の、僅かな月明かりに照らされた彼女の身姿は、哀しくなるほどに美しかった。
月下美人
超古代時代の一文が思い出された。
我には、その身姿が、燐光を纏っているかのように、暗闇の中で輝いて見えたのだ。
もちろん、人間が輝くわけがない。
…我の見間違いに違いないのだ。